●NEXT(No.72)

 

 ふと、考えてみる。

 歳の頃なら、二十三、四の男が一人。学生時代は卒業したが、社会人としてはまだまだの半人前。なのにもう会社には新しく後輩が入り、いつまでも新入社員でございと甘えてばかりはいられない。そんな頃の男が一人。
 女が一人。男の恋人である女が一人。女と呼ぶには幼い女。少女と呼ぶには少々、歳を食っている女。二十歳(はたち)か、その一つ上辺りがいいか。男とは、大学時代の先輩後輩。サークルなんぞに入って知り合い、恋に落ちた。
 昨夜。深夜。男は女をドライブに誘い、ここに来る。昔も今も変わらずと、女は男を愛していたが、男は仕事に人生に、拭いきれない疲れを感じてきており、無邪気に明るい女をそろそろ疎ましく思い始めていたのだろう。自分は仕事に疲れた社会人。女が学生だったせいも、あっただろうか。フロントガラスに海が見えた。夜である。人気(ひとけ)もなかった。男は、夜風に当たろうかなどと言い、車をとめる。
「少し、寒い」
 女は、潮風に揺れる長い髪を軽く手で押さえる。もう片方の手には飲みかけの、もはや生ぬるいだけになってしまっていた缶コーヒーを一つ、持っていた。
 男は、何も言わずに女の隣にしゃがみこみ、持ってきていたコーヒーの空き缶を足許に置いた。灰皿代わりだ。
 シュボ。
 ライターの火が消えるとその代わり、男の手許から数センチ先に一匹の蛍が生まれた。
 男が口許にその蛍を寄せる事はあまりなかったが、それでも、一匹、また一匹と、ほぼ絶え間なく男の手許では、数世代にもわたり灯火が保たれていた。
 別れ話である。
 夜風はそれほどに強くはないが、この季節。寒さはこたえる。女はそれでも帰りたくはなかった。
 車に乗ってしまえば、もう、それでおしまい。女は自宅に無事、送りとどけられ、男とはもう、二度と会う事もなくなるのだろう。女はそれを知っていた。
 どれくらい、そうしていただろうか。
 最後まで、女は泣かなかった。男が以前、明るい女が好きだと言っていたからだ。今、男は明るいだけのその女を疎ましく思っている。女はそれを知らない。
 灰皿代わりの空き缶に、男は蛍を押し付ける。押し付けられた煙草はそれまでの、幾つもの吸い殻のどれよりかも長かった。それは、その夜、最後の蛍であった。
 男は長い溜め息を吐いて立ち上がる。
 女には、その吐息一つで十分だった。
 女は涙を流さず泣き笑い、手にしていたコーヒーの缶を彼の灰皿の隣に置いた。生ぬるいだけであったそれも、今は完全に冷え切ってしまっていた。コーヒーが先だったのか。缶が先だったのか。冷え切ってしまっていた。
 女は、すぐに立ち上がる。しゃがみこんでいたのは、ほんの一瞬の事であった。
 男は車に乗り込み、女は辺りに向かって歩き出す。確かに駅は近いが、女はこの土地に明るかったのだろうか。それも真夜中である。それならば。タクシーというのもあるだろう。とにかく。女は、男とは同じ車に乗らずにこの場を立ち去ったのである。

 昨夜の話だ。私が、考えた。

 色が抜け、力強さを失って久しい顎先(あごさき)の無精髭(ぶしょうひげ)を悪戯にさすりながら、朝靄(あさもや)の中。日課の散歩中であった私はこの場にしゃがみこみ、想ったのである。
 男は、心をわずらいかけていた。苦しみながら、そこに居た。たえていた。女は、永遠と信じていた幸福を取り上げられた。そこから、一歩、また一歩と前に踏み出してゆくのである。
 しかし。
 例えば、ぱちんと、今一つ、指を鳴らせばそれで消失。たったのそれだけで全て、消えてなくなるのだ。はじめから、存在などはしていなかった。二十三、四の男も無邪気な女も。亡くなるたびに生み出され続けた蛍も流されなかった涙も寂しさも。哀しさも。いとおしさも。二人の過去も男の現在も女の未来も。全て。そして、私も。何もかも。

 ぱちん。

 そこには、背丈の違うコーヒーの缶が二本あるだけだった。背の高い一方にはまだ随分な量の中身が残っているらしく、重たかった。他方の缶は空き缶だったが灰皿代わりに使われていたようで、まちまちに折れ曲がった短い吸い殻が幾つもと、火を点けられてすぐに捨てられたのだろう、しょぼくれてはいるが長い、まだ殻と呼ぶには気の引ける、そんな煙草が一本、プルタブを枕に寝転んでいた。

 

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