●NEXT(No.73)

 

 伸ばした指先さえ翳むくらいの何も見えない濃霧の中、その建物の存在に気がついたのは重厚な扉に結構迫ってからだった。軒先に吊り下げられたランタンが霧の中で迷う者をここまで導く道標となっているかのようだ。まるで、深夜の街灯の明るさに呼び寄せられた蛾のごとく、この光を目印に歩いてきたのだ。
 せめて視界がもう少し開けるまで休ませてもらえないだろうか。
 戸に手をかけようとすると、音も無く扉は消えた。いや、立派な透かし彫りの入ったおそらく西洋のなんとか調と言えるような大きな木製の扉、中央に金属のライオンが輪を咥えたノックのついたそれが、横にスライドする自動ドアだったなんて思いもしなかったのだ。
「宿屋『川っ縁』へようこそいらっしゃいました。本日二十三番目の御客様」
 広い玄関にこれが正しい正座というくらい畏まった男性が、これまた正しい御辞儀の見本とばかりに頭を下げる。黒の背広に同色の蝶ネクタイを締めた中年の男性だ。堂々とした態度に責任者の風格を感じる。あわてて事情を説明した。
「御客様ではないのですか。それでは早々に御引き取りください」
 取り付く島もないほどあっさりと断られる。
 義理はなくとも人情という美徳が人間にはあるだろうに、どこかに捨ててしまったのだろうか。
 立派な宿に宿泊できるような持ち合わせなどないことを話すと、不思議そうな顔をした。
「宿代でございますか。当宿は宿泊料金を金銭にて徴収してはおりません。御来客頂いた御方にはどなたでも御自由に御泊まり頂いております」
 金銭徴収無しで自由にとは無料もしくはタダのことなのだろうか。いや、待て。タダほど高いものはないとも言うではないか。訝しんで何度もしつこく尋ねると気分を害したらしい。
「先ほども申しましたが、金銭徴収はしておりません。ひやかしや言いがかりは甚だ迷惑でございます。御客様でないのでしたら御引取り願います」
 眉間に縦皺などつくり露骨な表情するだけで、接客業失格ではないか。だが、金を持っていない以上、多少の事には目を瞑らなければまた帰れと言われそうだ。
 お金がかからないのであれば泊めさせて欲しいと伝えると、彼はようやく立ちあがった。
「では、正式に貴方を当宿本日二十三番目の御客様として御迎え致しましょう。申し遅れました、私『川っ縁』の支配人でございます。以後、御見知り置きください」
 整髪された乱れの無い黒い頭を再度下げられ、つられて同じく頭を下げた。

 宿の外観をはっきり見ていなかった、というよりは見えなかったので気付くのが遅れたが、どうやら安宿というより伝統のある旅館という印象に近い格式を感じさせる内装に気後れしつつ、案内する支配人の背中を追いかけていた。黒光りしていた玄関は大理石のようだったし、上がり口の横に誂えたカウンターは一枚板で厚みがあった。小さな埃ですら目立つだろう白く磨かれた長い廊下、角に立つ柱は天然木をそのままに活かした風情がある。壁に掛けられた絵画は知識の無い人間が見ても素晴らしいという感想を抱くものだし、所々に飾られた花は今朝摘みたてのような瑞々しさが香り立っている。よく見ると、それを活けた花瓶もまた値が張りそうだ。一番苦手な「高級感」という空気が随所に流れている。
 外は濃い霧に覆われていたはずだったのに、宿の窓から見える庭はかすかながら様相を見て取れた。それは広い日本庭園と言うより他に表現を思いつかないものだった。
 ふと、どこからか水が流れる音が聞こえた気がした。庭には池しかないというのに。
「こちらが御客様の御部屋になります」
 支配人の声に促され、部屋に入ると軽い眩暈を覚えた。
 クッッションのように膨らんだ座布団、部屋の奥に続く洋間に革張りの応接セット、立派な欄間に藺草の薫りの残る青い畳。そして風呂にはジャグジーまでもがついている。
 誰でもいいから回れ右、という号令でもかけてくれないだろうか。そしたらさっさと帰るのに。自慢ではないが金は本当に無いのだ。
「御寛ぎの前に当宿について少し御説明をさせて頂きたいのですが宜しいでしょうか?」
 御寛ぎ? 豪華な内装に怖気づいて座る事すらできずいる人間が、本当にここで寛げるとでも思うのか? 己の定義で言うなら、六畳一間の簡素なアパート、日に焼けた畳の上で茶漬けなどすすりながらお笑い番組を見ることこそ「寛ぎ」だと思うのだが。こんなそぐわない部屋では落ち着かない。屁をしただけで誰にともなく謝ってしまいそうだ。
 唖然と立ちすくむ人間を余所に、支配人は淡々と説明を始めた。
「食事は三食付きますが、全て受付ロビーの奥にありますレストランにて御取り下さい。時間帯は午前七時、正午、午後七時より二時間と決まっております。部屋の鍵が食事チケットの代わりになりますので御忘れになりませんよう御願い致します。なお、備え付けの冷蔵庫にある飲料も全てサービスになっております。御好きなだけ御召し上がりください。ただ、当宿におきましては御客様御一人の宿泊日数は三日とあらかじめ設定されております。三日経過した場合は強制退去という形を取らせて頂きますのでその点も予め御了承下さいませ。それでは、食事の時間までゆっくりと御寛ぎくださいませ」
 固い口調で必要事項を告げると支配人はさっさと退出してしまった。
 一人になってから部屋の上がり口、板の間の隅に遠慮がちに座ってゆっくり考える。
 普通に考えても、こんな美味しい話が転がっているわけがない。三食昼寝付きの超豪華な宿にてご宿泊、しかも料金不要三日間。懸賞マニアでもないから、宿に無料で泊まれる心当たりは、当然全くない。これまでにないほど考え込んだ末に導き出された結論は、我ながら冴え抜いている気がした。おそらくこれは何か怪しい宗教団体の布教活動の一環か、それとも海外とつながる人身売買組織に捉えられてしまったかのどちらかに違いない。人生に多くは望むまい。一生一般ピーポーで満足だ。掲げるスローガンは、目指せ小市民。順風満帆とまでいかなくてもいいから、つつましやかな毎日を送って平凡に死にたいのだ。だとしたら、やはり霧がもう少し晴れたらこっそりおいとまする事にしよう。だから部屋は決して汚すまい。それに、玄関から出れば堂々と外出した事になるだろう。よし、これで完璧だ。後は、天候回復のため神頼みに徹することにした。

 腹時計が盛んに鳴る。ある程度は我慢して外の様子を見ていたのだが、天候回復は未だにない。空腹に耐えられなくなり仕方なく部屋の戸を開けると、ちょうどノックしようとした仕草の支配人が立っていた。
「御食事の時間になっても御見えにならないので様子をうかがいに参りました」
 半強制連行の形でレストランに向う。廊下に出ると、やはり微かに水が流れる音がする。小川のせせらぎといった感じの清涼な音だ。静かな廊下だからこそ余計聞こえるのかもしれない。不思議に思って聞いてみる。
「御客様は理解力が乏しくていらっしゃるようです」
 真顔で言われるとさすがに腹がたった。
「宿の名が『川っ縁』だと最初に申し上げました。山頂や草原の真ん中に立っている宿にそのような名をつけるのは非常に滑稽で御座いましょう。『川っ縁』とは川のほとりに位置していると相場が決まっております」
 決まっているのか? 滑稽な名もあるかもしれないじゃないか。
 ふてくされ気味に彼の後についてロビーに出るとこのとき初めて自分以外の客を見た。壮年の女性が取り乱した様子で支配人の姿を見るなり駆け寄ってきたのだ。
「時刻により強制退去ってどういうことなの? この悪天候が収まるまでの少しの時間も待って貰えないものなの?」
 おそらく支配人の説明していた退去の時間が迫った客なのだろう。興奮した様子で詰め寄っている。血の気が引いた青白い顔が蛍光灯に照らされて更に白く見えていた。確かにこんな濃霧に時間だからといって放り出されるのは困るだろう。事実、逃げ出したくたって二の足を踏むくらいなのだ。
「特別扱いは御座いません、一昨日十番目の御客様。時間になりましたらどのような状況であれ出て行って頂かなくては後の業務が差し支えます」
 この支配人に臨機応変という考えはないらしい。にべも無い彼の態度に彼女はヒステリックに怒鳴った。
「天気が良くなるまでの僅かな時間で良いのよ」
 懇願に近いだろう。瞳が潤んでいた。
「煩いババアだな、静かにしろよ」
 突然会話に割り込んできた青年は、浴衣姿で枕を片手にロビーのソファーから立ち上がった。どうやら部屋ではなくロビーで寝ていたらしい。頭の寝癖と顔に残るソファーの縫い目と口元の涎の跡が何より雄弁に物語っている。
「昨日四番目の御客様、寝具を部屋より持ち出されては困ります。御休みは御部屋で御願い致します」
 青年は聞こえない程度に口の中で反論したようだったが、音になって漏れることなくそのまま枕を小脇に抱え歩き出す。そして女性の後ろを通り過ぎる時に一言吐いた。
「あんたもオレみたいにさっさと腹決めてしまえばいいんだよ、楽になれるぜ」
 気色ばむ女性をよそに、青年は笑いながら廊下に荒い足音を残しつつ遠ざかる。
 決めるって何を?
 一人だけ話に加われない疎外感を味わいつつ、残された二人のやり取りを伺った。
「まずは落ち着いてください、一昨日十番目の御客様。当宿の宿泊規定三日というものは意味があるのです」
 興味深々で聞き耳を立てる。
「一日目はこれまでの事、二日目はこれからの事、三日目は選択をするためにあるのです。貴方様はこれまでの丸三日間、何も考えてこなかったわけではありますまい。決断を迷う御気持ちはわかります。迷いは時として視界を遮る事も、歩みを止める事もあるでしょう。人間は得てして自分の見たいものを見、聞きたいものだけを聞く傾向があります。真実が足元に転がっていても見たくなければ認識する事も、聞きたくなければ親切な忠告すら拒否する御方も大勢いらっしゃるのです。ですが、貴方様は当宿の角灯を見つけられた。それを目印にここまで辿り着かれた御方です。自分に都合の悪いことから目をそらす御方には、宿の灯りを見つける事は出来ません。御自分の目を信じる事から始めてください。そして御自分の心に聞いてください。貴方様の選択は、既になされているはずなのです」
 選択って怪しい宗教に入信するか、海外に売られるかの選択なのか? どっちも嫌だろう、普通。
 女性は寡黙になり、視線を落とした。その時何故か、言い知れぬ不気味な雰囲気が足元から這い上がってくる気がした。
 支配人は優雅に一礼すると、彼女に告げた。
「どうか後悔のない選択をなされてください。御利用頂きまして誠に有難うございました」
 瞬間、ロビーに掛けてある大きな時計がひとつ大きな音を立てた。時刻は十三時十七分を指している。奇妙な時間に鳴るものだ。ところが、響いた鐘の余韻が消えると同時に、女性の姿は跡形も無く消えていた。今、目の前で捨てられた子犬のような頼りなげな視線を見ていたその間に、だ。
 人が消えた。きれいさっぱりいなくなった。
 信じられない現実を認識した途端、足から力が抜け、腰砕けたように尻から床に落ちる。
「どうなさいました? 本日二十三番目の御客様」
 尻餅の音に振り向いた支配人は平然としている。人間一人消えたというのに動じる気配がない。出会ったときから表情が変化するということがないのだ。単にずば抜けて冷静沈着なのか、それともこの状況が日常茶飯事で今更動揺するまでもないということなのか、これでは判断も推測もできない。
 どういうことだ。状況は全くもって普通じゃない。一番苦手な豪華絢爛な場所で、最も避けたい波乱万丈に片足を突っ込んでしまったようだ。
 彼は自分を見上げる視線になにかを感じ取ったようだ。
「御客様はおそらく大丈夫で御座いますよ。そのように貧弱な御身体では売り物にもなりませんし、使い物にもなりません。強い信念を御持ちのわけでも、目立った才能を備えていらっしゃるわけでもないように御見受け致しました。ならばせいぜい使い捨てがいいところで御座いましょう」
 このとき、始めて彼の笑顔というものを見たのだが、それがまた恐怖を倍増させるものだった。言われている内容は冷静に聞けたなら激怒したかもしれないが、その時は首を何度も横に振って拒絶を示すだけで精一杯だった。
「と、いうのは冗談で御座います。なにか大層誤解されていらっしゃるようですね。ここは宿屋で御座います。新興宗教団体の勧誘でも、人身売買組織でも、遠洋漁業組合員勧誘所でも、ましてや秘密結社やスパイ養成所などでは御座いません。強いて特色をあげるなら、宿屋の立地場所が『三途の川』のほとりにあるというだけの事で御座います」
 危ぶんでいた推測項目がやたら増えた説明の後の一言、これも冗談なのだろうか。真実ならそれこそこんな簡単な言葉で済ませてしまって良い事柄なのだろうか。
 支配人は固い口調で喋ると、今度は否定をしなかった。冗談でなく、否定もしないということは事実なのだろう。うろたえるというより、猛烈に遁走したい気分だ。腰さえ抜けていなければ、間違いなく実行しただろう。
 ダメでもともとだと思い、急用を思いついたので帰りたいと申し出た。
 思いついたなどと口走っている時点で口から出任せなのがモロバレなのだが、言ってしまった以上背に腹はかえられない。無自覚で三途の川を渡ってしまうよりずっとマシではないか。四つん這いになりながら急ぎ玄関へ向かう背に、支配人はあっさり言った。
「左様で御座いますか。貴方様の魂はまだ、御代を頂けるほどゆとりがないようですから宜しゅう御座いますよ。今回は特別に予約という形で見逃して差し上げます。次回御越しの際は、もう少し重みの増した魂を持ってきてくださいませ」
 重い魂ってなんだ? っつーか、御代ってやっぱり代金取るんじゃないか。
 首だけ振りかえって文句を言うと、彼は平然と宜った。
「金銭にて徴収をしていないと申し上げただけで、無料などと言った覚えは御座いません」
 こいつは詐欺師か。やっぱりここはボッタクリ宿なんだ。こんな場所に予約なんか残して帰ったら、きっと一生後悔する。貧乏人をなめんなよ。金勘定には細かいんだ。なにせ使える金が限られているからな。ええと、欠点、なにか短所はないか。
 内装、調度品にはケチをつけるような所はない。食事の内容は食べてないから文句のつけようがない。支配人の態度は接客業向きではないにしろ、被害を被ったと公言するには弱すぎる。何かないか。そうだ、宿の名前はどうだろう。センスもなくて不満も言いやすい。
 こんなダサい名前の宿になんか頼まれたって泊まるもんか、と勇気を振り絞って叫んだ。すると、支配人の片方の眉が不自然に持ちあがる。
「自分の宿にどのような名をつけようと、持ち主の自由で御座いましょう。それでは、おとといおいで下さいませ」
 よし、向こうから二度と来るなと言わせる事に成功したようだ。
 喜んだ刹那、ゲームを消去した直後のテレビ画面のように、明るいロビーが消失した。

 

● NEXT(No.73)