●NEXT(No.75)

 

 消失は貪欲だった。貪欲に、何でもかんでも残らず貪り食った。そして消失はどんどん成長していった。際限なく、それはもう、何が何だか分からないほどにね。念のため言っておくけど、これは暗喩や換喩や、そういったレトリックの類いなんかじゃないんだ。実際の話、消失は食い尽くした。それが何であろうとお構いなしに、きれいに食い尽くした。単に僕がことさら大袈裟に言ってるわけでもないんだ、消失は全てを食い尽くそうとした。物理的に、実際に、本質的に、掛け値なしに。いいかい、君、僕がこれから話すことに関しては、必要以上にメタなところなんてありはしないんだ。
 消失ってのは、つまり、僕がこないだ拾ってきた犬の名前だ。何? 何だってそんな名前なのかって、そんなことは君、主催者に聞いてくれたまえよ。僕としては犬の名前なんて何だって良かったんだ。ジヌディーヌ・ジダヌでも、ランビエ絞輪でも、偏西風でも、砂漠でも、ジェンツーペンギンでも、力動的解釈項でも、何だって良かったわけだ。もちろん消失でも構わなかったし、消失ではなく喪失でも構わないと言えば構わなかった。ただ、まあ、ここで語ってしまって良いのか知らないけれどある種の理由によって、僕は拾った小犬にその名前を付けたんだ。すなわち消失。
 それじゃあ、僕がそいつを拾ったときのことから話していくことにしよう。と言うのも、どうやら消失は僕の記憶にも少々手をつけ始めたらしくて、以前の細かなことを思い出すのが難しくなってきているようなんだ。どうも古い記憶ほどだんだん抜けていくみたいでね、まるで墜落を回避するために荷物を捨てていく飛行機みたいに。または同様の手段で沈没を避けようとする船のように。というわけで、たぶん大まかなことや大事なことは大丈夫だとは思うんだけど、とりあえず食われて思い出せなくなる前に古いとこから話してしまおうというわけだ。いいかな?
 あれは、だいたい、一ヶ月ちょっと前だった。まあまあ良く晴れた日だったと思う。上空では長い飛行機雲がすっかりほぐれていた。うん、五月の初めの、確かごく普通の晴れた日だった。僕は裁判所のすすけた石組みの壁に沿って歩いていたんだ。時刻は午後5時23分だった。腕時計を見て、目を上げたとき、僕はそいつを見付けたのだ。裁判所のいつも閉じてる扉の前には三段ほどのちょっとした階段があるんだけど、その二段目に汚い小犬が寝そべっていたんだ。そいつの汚らしいのなんの、それはもうまるっきり使い古しのモップだったね。でも、ただそこに汚い犬がいただけだったら、僕も特に気を留めることはなかっただろうと思う。そのまま通り過ぎただけだっただろう。だけどそいつは、少しだけ頭を上げたんだ。頭を上げて、こっちを見た。どこまでも深い空洞みたいな目でね。僕がその犬を気に入ったとか、気になってしょうがなかったとか、そんな理由じゃなかったはずだ。分かるかな、僕の方がその犬に見入られたというかね、取り憑かれたと言っても良いかも知れない。とにかく僕の意向とはまるで関係なく、そう、吸い寄せられるように、僕はその小犬を拾い上げたんだ。そりゃもちろん拾ったのは僕で拾われたのは小犬だったから、僕が飼い主、小犬は飼い犬、頭ではそう思っていたよ。でも正直な話、あくまで何となくなんだけど、何となく居心地が悪い気はしていたんだ。
 で、とにかく、僕はその小犬に名前を付けたんだ。すなわち消失。
 消失は貪欲だった。初めのうちは、確かにもの凄い食欲だったんだけど、まあ体格も小さかったし、缶詰だのドライフードだのといったドッグフードだけで事足りていた。だけど、食べるペースは露骨なほど、日ごとに加速しつづけた。そして、今思えばはそれは必然だったわけだけど、ドッグフードだけでは追いつかなくなった。そう、二、三週間も経つと、冷蔵庫のわきでパスタやたまねぎやじゃがいもを入れておいた麻のかごが丸ごとなくなっていた。僕が部屋を出ていた隙にかごごと消失が食べてしまったのだ。僕に拾われて以来一週間にして、消失はすでにちょっとした大型犬になっていた。それから、もちろん食餌を与え始めて二、三日で気付いていたんだけど、消失は食べるばかりで、排泄は一切しなかった。口にしたものの全てをこの世から跡形なく消し去っていたんだ。袋小路としては完璧だった。まあ、ちょっと変わった犬だけど、何にせよ消失は僕によくなついていた。
 麻のかごの次は冷蔵庫だった。消失は冷蔵庫をこじ開け、中味を食べ尽くした。瓶詰めのピクルスさえなくなっていた。
 それからも、消失の食欲は等比級数的にひたすら拡大していったんだ。雑誌や文庫本といった紙類、それから靴や鞄なんかの革製品もやられた。痛かったのは財布だった。硬貨も残っていなかったんだけど、消失にとってはさしずめミネラルのタブレットといったところだったんだろう。銅はあんまりお勧めできないんだがね。革製品とほぼ同時に、布の類いもやられた。カーテン、じゅうたん、毛布にシーツに枕、クローゼットの中の服も軒並み消え失せていた。みんな揃って消失の胃の中だ。やがてベッドのマットレスも、それどころかベッドそのものもやられたんだけど、もう何が何だか分からないほど成長した消失の腹の上が案外熱過ぎもせず、ちょうど良いベッドになった。
 僕に従順なのはいいとしても、食欲に関する限り消失は僕の手に負える犬ではなくなっていた。分かるだろう、こんなによく食べる犬に餌を与えつづけるなんて、物理的に不可能なんだ。
 ちょうど一週間前、消失は家電製品の味も覚えた。手始めは電話機だった。プラスチックの殻はおろか中の機械もスクラップしてしまったらしい。まあもっとも、今さらそんなことで驚く僕じゃなかったけどね。とにかく、家電製品の中では、よりによって電話機からいかれてしまったんだ。消失が電話機を食べたこと自体はもう問題じゃないんだけど、保健所に電話できなくなったことに僕は少しだけショックを受けた。だけどすぐに気が付いたんだ。電話できなくても、直接行けばいいじゃないか。ほんとは消失が電話機を食べてしまうまでは世界に保健所っていう建物および装置があることにさえ思い当たらなかったんだけど、事がここに至っては止むを得まい、と僕は考えたんだ。僕が最低限正常な生活を送るためには保健所に消失を引き取ってもらうしかない、これは止むを得ない事なんだ、てね。
 保健所の住所だけでも調べようと思い、僕は電話帳を探そうと立ち上がった。でも実際には探すための一切の動作はせずに、室内履きのまま表に出た。確か消失を拾った日と同じようによく晴れた日だったと思う。通りに出たらちょうどバス停に23番のバスが止まっていたんだけど、僕は一銭も持っていないことを思い出した。それで僕は息を吐いて唇をぶるぶる鳴らしながらバス停を通り過ぎたんだ。交差点の公衆電話ボックスに入って、電話帳を繰った。それから室内履きで保健所まで歩いた。
 保健所の窓口で、僕は消失を拾ってからのいきさつを説明したんだけど、君、何てことだろう、保健所の職員は誰一人として僕の話に取り合ってくれなかったんだ。あげく警察を呼ぶぞと僕を脅す始末だ、話になりゃしない。連中の頭の固さときたらまったくもって救いようがないんだ、あの分じゃ、僕の言ったこんにちはさえ真に受けてはいなかったな。
 これで保健所は終わり。僕は消失のいる僕の部屋に戻った。次は何がなくなっているのか考えながらね。
 僕が部屋のドアを開けると、消失が鼻先を突き出して僕を待ち構えていた。そして僕の目の前で大きなげっぷをしたんだ。げっぷとしてはどうにも不自然な、でも何だか覚えのあるにおいだった。つまりそのにおいって、僕のガールフレンドがいつも使っていたトリートメントのにおいだったんだ。僕はその場に座り込んでしまった。つまり何が起こったのか君も分かってくれていると思うけど、あえて言っちゃうと、消失は僕のガールフレンドを食べてしまったのだ。実質的に、現実的に。
 でも少し時間が経つと、腹がこなれたのか、消失は僕の悲しい気分も食べてくれた。おかげで、まあ、僕も何とか平気なわけだ。つまり、と僕は思った。消失ってやつはちょっと食い意地が張りすぎていて、僕から見て犬が食べるのに適しているものとそうでないものの区別が出来ないだけで、本当は気のやさしい僕の友人なんだ。気付くのが少し遅すぎたのかも知れないけれど。
 消失は電子レンジを食べた。それから冷蔵庫も食べた。冷蔵庫は空っぽだったんだけどコンセントを差したままで、つまり稼動中だったせいか、冷蔵庫を食べたあと消失は具合が悪くなったようだった。僕は消失を心配した。消失は僕に拾われて以来初めて丸一日何も口にせず、がらんどうになった部屋いっぱいに寝そべって横になっていた。消失のその様子を見て、僕は、一ヶ月前のあの古モップのような小犬を思い出した。
 その次の日には、消失は回復したようだった。僕がテレビを見ていると消失が画面に鼻先を近づけるので、僕はリモコンで電源を消してやった。消失はテレビを食べた。
 そろそろ何であれ物という物が僕の部屋からなくなろうとしている。そのせいかどうか、今ではもう、僕の消失は僕の記憶まで食べ始めているという次第だ。
 やっと腹が落ち着いたらしく、消失は部屋いっぱいに体を伸ばして横になった。消失の足先を枕にして、僕も横になった。やれやれ。この犬、すなわち消失は、明日何を食べるんだろう。君、想像できるかい?

 

● NEXT(No.75)