●NEXT(No.77)

 

 僕が美香(みか)に殺意を抱いたのは何時からだろう……
 それは美香と生活を共にしてから3年目の夏。僕がまだ小説家を目指す、ある夏の日の出来事だった。その日は朝から30度を超え、日中には今年1番の暑さを記録すると気象庁では予報を出していた。正午を少し過ぎた頃には予報が的中し気温は37度を上回り、これからも更に気温は上がるとTVの向こう側でニュースキャスターが冷房の聞いたスタジオから涼しげな顔で語っている。
 クーラーも無く、6畳一間の僕の部屋の気温は既に40度近く有った。扇風機とTV、小説を書くための机、それと小さなガラステーブル、そしてビールの絶える事がない冷蔵。それしか置かれていない、それは違う、それしか置けない狭い部屋。その部屋の北側に位置する小さなキッチンで彼女は何時もように昼食の準備を進めたいた。
「ビール飲むでしょう?」
「うん。冷えてる?」
 美香に向かってこう答えると、美香は僕を背にしたまま左手でピースサインを送った。こんな何時もと変わらない日曜日を過ごしていた。
 僕にとって小説家になる事を夢見て田舎から上京して以来、日々が日曜日と変わらない毎日だ。でも美香は違う。僕と美香は学生時代からの付き合いなのだが、美香は僕が田舎を出る事を決め東京へ行く事を知ると「私も一緒に行く」、と言って東京での就職を決た。僕を追いかけ着いて来た時以来、二人の東京での生活が始まった。
 始めから僕が彼女に養ってもらっている、そんな立場だった。本当なら日曜日ぐらい僕が家事をし、彼女にはゆっくり休んで欲しい、それぐらいの事が当然な事だとはわかっていたが、行動出来ずに甘える自分がここ居る。
「また落選だよ!」
 23回目の落選だった。さすがに公募への応募も落選が23回も続くと慣れも有るが、落ち込むという感情は薄れるものだ。落ち込むと言うより、開き直るが正しい感情だと思う。
「平気、平気。次、頑張ればいいじゃない。そんに簡単にプロにはなれないよ。」
 そう言って美香は二人分のキュウリ、タマゴ、ハム。緑色、黄色、薄桃色の3色が奇麗に飾られ盛り付けられた冷やし中華を持って歩み寄り、二人分の食事を並べるのがやっとの小さなガラステーブルにそれを置くと、キッチンへと戻った。こうやって僕は美香に慰められ励まされ、そして癒さる日々を過ごしていた。最近になり自分のこの甘えた生活に少々苛立ちを覚え、美香とのケンカが絶えなくなっていた。僕の苛ついた感情を察した美香はいつも以上に僕に対して優しさを贈っている事も気が付いていた。
 キッチンへ向かった美香の後ろ姿を眺め、「OLはいいよ、気楽で!」と自分の立場を棚に上げ、小声で囁くと、それが美香には聞こえたらしく、冷蔵庫から2本の缶ビールを取出し、扉を閉めながら僕に微笑んでこう言った。
「じゃぁ〜さ、今度OLの話でも書けば? 私って題材も居るんだし、恋愛系! 。推理小説は向いてないのかもよ。」
 美香の冗談で言ったその一言がに急に腹立たしく感じる。なんて事のない一言が気に障る。今までの僕なら、「俺は推理が得意だし好きなの!」くらいな事言ってかわす事が出来るのに…… きっと、今日の暑さに加え、彼女の直向きな優しさや態度が僕の苛立つ感情の導火線に火を付けてしまったのだろ。
 今まで僕が美香に甘えてきた生活を含め、自分の存在に腹が立ち、僕は何時になったら美香を養う事が出来るんだろ、何時までこんな生活が続くんだ、そんな焦りが苛立つ感情を増幅させたに違いない。
「尽す女。ってどうかな?」
 美香の冗談を冗談で返すことが出来ず、嫌みを含ませた口調でこう言って僕は苦笑した。
「誰の事? 私、全然尽してないよ、普通でしょう。」
 美香はそう言って缶ビールのプルトップのフタを開けながら微笑み、最初の一口をのどに流し込んだ。
「あぁ〜 美味しい! ビールって最初の一口が最高よね。飲まないの?」
 アルコールにさほど強くない美香は一口だけのビールで頬を赤く染め、僕に寄り添う様にもたれ掛かかると気分よさそうに残った1缶を手渡した。普段と変わらない美香の服装、Tシャツにデニム地のミニスカート姿、それがやけに悩ましく見える。スカートから覗かせる美香の内股はまるで僕の事を挑発しているかの様に思えた。
 この感情はなんなんだ! 全然尽してないよ── この言葉が僕の頭の中を何度も何度も木霊しながら響き渡り、頬を赤くし微笑んだ美香のその笑顔、そして挑発に思えたその態度が僕の脳裏に焼き付いて消える事はなかった。
 許せない、腹が立って仕方がない。こんなに真剣に僕は悩んでいるのに、この女ときたら缶ビール片手に僕をバカにしながら挑発している。「許せない!」。その感情をコントロール出来なくなった僕は、ビールを口に溜めることなく一気にのどに流し込み彼女の事を押し倒した。
 彼女の衣服をはぎ取る僕の姿、それはまるで強姦だ。そんな僕の強引な態度に美香は抵抗する事無く従った。その服従した態度がさらに僕の感情を逆立てる。心の中で何度も「この女、この女」と叫びながら体を上下に動かすとそれに反応し美香が声を零す。その零れ出た声を聞き、さらに腹が立ち「バカにしやがって!ふざけるな!」と心の叫びを彼女の身体に当たり散らした。
 僕自身、その行為は異常だと感じていた。だがそれからの美香の態度はいつもと同じだった。暑さのせいで自分が欲情しただけだったのか? そんな気分だった。

 その日の夜、それは日中の暑さの残る寝苦しい夜となった。
「先に寝るね、おやすみ。」
「うん、おやすみ。」
 美香が先に床に着く、これはいつもと変わらぬ僕達の日常だった。僕は美香が床に着いた後、公募に応募する為の小説を書き始める。とくに夏場は暑さを凌ぐため、深夜から書き始める事が多かった。
「あ、暑い。」
 なにもせず、ジッとして居るだけで汗が額から頬を伝う。首にかけて有る手ぬぐいで汗を拭く。
「暑い。」
 扇風機の音が耳障りだった。ブゥーン、ブゥーン。汗が流れる、それをぬぐい去る。扇風機が音を立てる、ブゥーン。汗を拭く。扇風機がブゥーン── 
 僕の視界が闇に包まれ記憶が遠ざかる…… ブゥーン、ブゥーン…… 
「う、うーん……」
 彼女が寝返った時に漏らした声だった。僕は背中越しの美香に目を向けた。そこには幸せそうな美香の優しい寝顔が有った。「寝てる。」僕がこんなに苦しんでるのに、あの女は寝ている。
 ブゥーン、ブゥーン、扇風機のその音が静かに耳から遠ざかった時、大粒の汗が僕の手の甲に落ち音を立てた。ポトッ…… 木霊しながら消える音の先、汗の落ちた僕の手には美香の白く細い首が有り、その首を強く絞めつけていた。美香は苦しさをこらえていたが抵抗する事はなく、無理につくった笑みを僕に向け小さな声で囁いた。
「小説、売れるとイイね」
 こう言って美香は枕に深く頭を沈めた。
 人が殺人を犯す時、こんなにも冷静で居られるものなのか? そして、こんなにも安らぐ気持ちになるものなのか? ベットの上に横たわる美香の姿をながめながら「何処に隠そう」、完全犯罪とは? そんな事を考える余裕さえ有った。
 僕は彼女の衣類を全て取り去ると風呂場まで運び込んだ。自力で制御する事が出来なくなり、生命の光を消失した美香の体は今まで経験したことの無いほどの重たさだ。美香の両脇を下から抱え風呂場の洗い場に引きずり込み、そのまま体を浴槽に持たれかけシャワーの蛇口をひねった。シャワーヘッドから勢い良く吹き出した冷水が美香の全身に降り注がれたが何も反応が無い。
「死んでるんだよな、水かけたって起きないか?」
 自分で殺しておきながら、そんな当たり前の言葉を吐き捨て、死の再確認をする僕が居た。
 ずぶ濡れになり次第に体温を失って薄紫色に変色していく美香をその場に置き去りにし僕はキッチンへと足を運んだ。
「僕だって本当は料理上手につくれるんだよ。」
 そう言って台所の下の観音扉を開けると、美香が普段料理に使っていた包丁を取りだし、彼女の元へと戻った。
「なかなかだろ、僕の包丁捌き!」
 その一言と同時に包丁を振り下ろした。グヲツ! 鈍い音とがユニットバスに響き渡ると、美香の左足が胴体から切り離れ、離れた足の付け根から深い赤色の血が吹き出した。止まる事なく流れ出た血は、渦を巻きながらシャワーの水と混じり合い、排水溝へと姿を消していく。自分もその渦の中に吸い込まれていく、そんな錯覚に心地よさを感じ無意識のうちに次から次へと包丁を振り下ろした。
 グヲツ! 右足、グヲツ! 左腕、グヲツ! 右腕。そして最後の首を切り落とした一瞬! 美香の目が開いたように見えた。
 胴体から切り離された首の頚動脈から吹き出した返り血が僕の全身を染め視界を覆い、目に写るアイボリーだったユニットバス一面、全ての世界をワイン色一色に染めた。

 どれくらいの時間(トキ)が過ぎたのだろ? 美香の6体に分離した身体から流れ出る血の量が減りだしたのは。完全に止まらずに流れ出る血を丁寧に水で洗い流し、用意した黒色のポリ袋を2枚重ねにし、1体ずつ詰めこんだ。6個のポリ袋の口を固く結び、その袋を一つだけ無造作に手に持つと、家を出た。外には朝靄がかかり、人の気配などまったく無く、街はまだ眠りから目覚めては居なかった。
 自転車に乗り込み10キロほど離れた隣町のごみ捨て場に美香の右足を捨てた。毎日、毎日、ゴミの収集日に合わせ、捨てる場所をかえながら、左足、右腕、左腕、胴体と1個ずつ処分していった。そして最後に残した頭は自分の家のごみ捨て場に捨てた。 全てのポリ袋が僕の手元から姿を消した6日目の夜、彼女の最後の言葉が僕の記憶によみがえり頭から離れなくなっていた。
「小説、売れるとイイね」
 彼女を殺した罪悪感など僕には存在しない、彼女が僕をバカにし苦しめたのだから当たり前の酬いなのだ。そして彼女は死んでしまった今でも僕のことを苦しめるのか? 
 眠れない日が何日も続いたある夜、僕は彼女の残した不可解な言葉、「小説、売れるとイイね」の呪縛にピリオドを打った。

 一人の女性と出会った男が、彼女と二人で平凡な日々を過ごしていた。その男が突然狂乱し、そして彼女を殺害し残虐に死体を切り刻む殺人鬼と変貌する。彼には罪の意識など全く無く、まるでそれはゲームを楽しんでいるかの様に身体を切り刻み、何事も無かったかの様に生活を続ける男、まさに僕自身を小説にする事だった。それが彼女の残した言葉に秘められた物だったのだ。
 タイトルは『殺意』、僕はありのままを書き綴った。そして彼女が残した「小説、売れるとイイね」の言葉をその作品の中に封印し、小説を完結する。
 美香の生身の身体はこの世の中から消滅した。だが僕の書いた作品の中で美香は生きている。この手で殺した美香は、僕に永遠の生命を与えられた。美香は一生美しい姿のまま僕のシナリオの中で生きている。僕は彼女に感謝されるべきではないだろうか、一生の幸せを与えたのだから──
 そして僕の書いた『殺意』は、有名出版社の主催する公募で新人賞を受賞する事となった。言うまでもないが、それがノン・フィクションな作品であることなど誰も知るよしもない。

 あれから1年。僕は今、2作目の作品を書き始めている。新しく生活を共にするこの女のお陰で…… 今年の夏も暑くなりそうだ──

 

● NEXT(No.77)