●NEXT(No.78)

 

 それに最初に気付いたのは、居眠りから目を覚ました見張りだった。
 彼は職務熱心な自分が居眠りという失態を犯してしまった事に激しい衝撃を受け、しばらくは目を開けても罪と罰についての難しい思想に頭を働かせていた。そのため彼が本来の職務に戻るまでにさらに数分の時間を要したが、それは見張りという職種の人間にはよくあるように、彼の趣味が東洋哲学であるという事実が多大に影響していただろう。遠くアジアの異国に意識を飛ばして自らの罪を悔いていた男は、やっと目前の仕事を思い出して職務に戻ろうとした。そして気付いた。
 見張るべきものがない。
 見張りは途方に暮れた。自分は何を見張ればいいのか。
 彼は座ったまま首を前に垂れて眠っている同僚を揺すり起こした。同僚は普段に比べて乱暴に起こされた事に腹を立て、開け切らない瞼の下から不機嫌に彼を睨みつけて言った。
「そんなに慌てなくたって誰も逃げやしないさ。これまで逃げようとした奴が一人でもいたか? 奴らだって人間だ。夜は寝ているじゃないか。何をそんなに慌てることがある」
「そうじゃないんだ、きみ。とにかくちょっと見てくれよ・・・・・・」
 同僚は不機嫌に立ち上がり、あてつけに体中の関節をぱきんぱきんと鳴らしながら所定の位置に立って下を覗き込んだ。
 彼は途端に顔を輝かせ、口笛を吹いて大げさに十字を切った。
「こりゃあ、すごいぞ。あれがないじゃないか」
「なぜ喜ぶんだ。あれがないと大変な事になるじゃないか」
泣きそうな顔の男に、同僚は興奮した様子で返した。
「もう見張らなくていいじゃないか。こんなつまらない仕事なんていい加減うんざりしていた所だ。ちょうどいいから俺はここを辞めることにするよ」
「しかし・・・・・・」
 食い下がる男の泣き言など耳に入らぬかのように、同僚は嬉々として狭い見張り小屋から自分の枕やらカップやらを撤収し始めた。

 次に気付いたのは、向かいのカフェの主人だった。
 彼は普段どおり、定時に店を開けようと準備をしていた。椅子を出し、道に席を設えて、彼は何気なく振り向いた。
 彼は驚嘆した。
「ないじゃないか」
 昨日までとは別世界のような景色にしばし見とれるために、彼は自分用にとびきり上等の豆を挽き、湯を沸かした。そして、一刻も早く常連の客を呼び寄せてこの感動をどうにか分かち合おうと、いつか気紛れに作っておいた電話帳を探して帳簿の棚をひっくり返しはじめた。
 
 やってきた常連客は一様に泣いて喜んだ。
 死ぬ前に一目でいいから会いたいと望んでいた息子や娘に、もしかしたら会えるかもしれない。あれがなくなったのだから、後はいつもどおりここで座ったまま、彼らが運動場に出てくるのを待つだけでいいのだ。
 主人はこの常連たちに、特別にただでコーヒーを振舞った。
「今まではここに来てもあれの向こうにいる息子を想像するしかなかったけれど、」と白髪の老紳士が言った。「これからはここに来れば本物の息子に会えるかもしれないんだ」
「長いこと待った甲斐があったね」と主人は彼の肩に手を置いた。「これからも、毎日でも来るといいよ」
「そうするよ」と、老紳士は震える手で涙を拭った。

 困ったのは所長だった。
「一体これはどういうことだ。これではここは閉鎖だ。いや、閉鎖すら出来ない。ここは閉じていることに意義があるんじゃないか。これでは全く無意味だ。ここも私も必要なくなってしまったのだ」
 彼は細く整えた口ひげをしきりに触りながら執務室をせわしなく歩き回り、片手を上げたり屈みこんだりして、役者のように悲劇を演じた。やがて息を切らして朝から汗だくになってしまった彼は、最後に満足そうな息をつくと何事もなかったように椅子に腰掛け、葉巻の数を確認して一本取り出し、新聞を読みながら旨そうに煙を吐いた。

 アンナという少女の家は、そこに近い静かな住宅街にあった。
 彼女は最近母親と折り合いが悪かった。
 なんで私のことばかり、そんなに口うるさく言うのかしら? 成績が悪いとか、部屋を片付けないとか、中学生は化粧は駄目とか、そういうのってそんなに大切なこと?
 以前から言いたかった色々の文句は、母親の淀みない演説の前に、結局声となる前に彼女の腹の中に蓄積されるばかりだった。それが、昨日の「あんたの友達はクズばかり」という言葉にかっとなった彼女の中から一気に流れ出てしまったのだ。長い間怒鳴りあってわけがわからなくなった彼女は家を飛び出し、夜じゅうそこらを歩き回って、結局疲れ果てて家に帰ることを決めた。踵を潰して歩きづらい靴でわざと音を立てながら、彼女は昨日と同じ道を引き返していた。
 私は負けたんじゃないわ。子供だし、お金もないし、他に帰る家もない。だからあの家に帰るだけよ。
 家が近くなるにつれて彼女の足取りは目に見えて重くなっていった。しかし見慣れた角を曲がったとたん、彼女は口をぽっかりと開けて立ちすくんだと思うと、頬を赤くして猛然と家に向かって駆け出した。

 この市の市長は敏腕で知られていたが、笑い上戸でも有名だった。
 彼にかかれば、どんな真剣な問題もあっという間に笑い話に変ってしまった。会議中でも式典の最中でも、一度笑い出してしまったらもう誰も彼の笑いを止めることはできなかった。彼はそれを恥じていたが、どうしても自分のそんな性質を治すことはできず、かかりつけの医者からは気の持ち方次第だと突き放されていた。しかし市民からは親しみやすいと評判だったので、彼はそれについて深く思い悩むのは止すことにしていた。
 その日彼が朝食をとっていると、電話が鳴った。
「もしもし」と、聞きなれた声が聞こえてきた。「もしもし、私だがね」
「君か」
 市長は口にパンを含んだまま尋ねた。
「どうしたんだね、こんな朝早く」
「それが、私のところでちょっとした問題が起きてしまってね」
「問題とは? 」
 市長が促すと、電話の向こうの声は何か言いかけて、思い直して口を噤んだようだった。
「その前に、君、もしかして何か食べていないかい。そうならまずそれをどうにかしてくれたまえ。でないと大変なことになるだろうから」
「うん? そうか、それならちょっと待っていてくれ」彼は急いで口の中の物を飲み下し、「いいよ。それで、問題とは? 」
 彼の妻は彼とは別の部屋で食事をしていたが、突然聞こえてきた大きな笑い声に眉を顰めて小走りに夫のもとに向かった。そこで、受話器を握り締め、真っ赤な顔をしていつもの笑いの発作――実際はいつもより大分ひどいようだったが彼女は気にも止めなかった――に苦しんでいる夫を目にし、
「せめて少し痩せるべきね」
と冷ややかに言い捨てて部屋に戻っていった。

 囚人たちも間もなくその事態に気付いた。
「なくなってるぞ! 」
 誰かが発したその声で彼らは一斉に窓に駆け寄った。
「なくなってる! 」
 諦め顔の看守を尻目に、囚人たちはありとあらゆる手段を尽くしてこの事態を歓迎した。皿を投げる者、踊りだす者、涙を流す者。刑務所の中で祭が始まったようだった。
「あれがないのなら、こんな所簡単に抜け出せるじゃないか! 」
しかし、23号房の年老いた囚人だけは疑い深い顔を崩さなかった。彼は言った。
「騙されてはいけない」
 騒いでいた囚人たちは一瞬にして静まりかえり、彼の言葉に耳を傾けた。彼はここの誰よりも長くここに住んでいたし、それはとりもなおさず彼が他の誰よりも悪人である証であったから。彼はここの英雄だった。 
「どういうことだ? 」
 若い仲間の質問に、長老は苦い顔で答えた。
「我々は囚人だ。囚人である我々に都合のいいことが起こっていい筈がない。それが起こったということは、後になって何か別にもっと恐ろしい事が起こる前兆に違いない。不幸というのは、しばしば幸福の後にやってくるものだからな。そうでなければ、これは政府の罠だ。わざわざ脱走しやすい環境を提供して我々を煽り、罰するための陰謀なのだ。わかるだろう、諸君? 我々は彼らの手の上で踊らされた結果、自らの首をギロチンに突き出してしまうことになるかもしれないということだ」
 彼は皺だらけの顔を巡らせて囚人仲間をゆっくりと見つめた。
「そうではないかね? 」

 五月十七日、ブラジリアン日報一面:刑務所の壁消失!? 
「十三日、ブラガンサ刑務所を囲む塀が一夜にして消失するという事件が起きた。警察当局は事件の真相究明を急いでいるが、手がかりとなるような情報が依然として充分に得られておらず、現在は捜査も難航している。同刑務所長によると原因は全く不明であり、急な事に塀の再建のめどは立っていないという。同刑務所は市に対し、新しく塀が建てられるまでは万一に備えて市民を刑務所周辺に寄り付かせないよう呼びかけるよう要請した。市の広報課に取材したところ、周辺住民への配慮は充分に行っており、当分慎重に事態を見守る予定だという。本紙はこの事件を知った地元住民に話を聞いた。
『いや、驚きましたな。私はこの喫茶を何十年もここでやってますが、こんな事は初めてですよ。うちの常連さんは、中の身内を思って一日中あの塀を眺めながら過ごしている方ばかりなんだが、みんなあれがなくなって喜んでます。刑務所の運動場が見えるようになりましたからな、時々運動している身内が見えるんですよ』(刑務所に隣接するカフェ経営・六十七歳)
『びっくりしましたわ、だってねえ、あの塀がなくなったなんて言うでしょう? 娘が教えてくれたんですが、あの子も驚いて走って知らせに来ましたわ。まあ今のところ脱走とか暴動とかが起きていないそうで、それはよかったなと思いますけれど』(近所の主婦・四十三歳)
『担当する被告に接見した際そのことについて尋ねてみましたがね、神妙な顔で自分たちは何も知らないと首を振るばかりでしたよ。まあ、あの様子じゃ脱走なんてとても考えられないでしょうな。あれ以来、なぜか彼らはそろって模範囚のような態度を取り始めたそうですから』(弁護士・五十五歳)
『いや、何とも面白い話だと思います』(見物の公務員・五十八歳)

 五月三十日、ブラジリアン日報二十七面:ブラガンサ市長免職か
「ブラガンサ市議会は二十八日、市長に対し正式な意見書を提出する決定をした。これは同市刑務所の一連の騒動において、市長が私的に事件の現場を視察し、一般人を装って事態を面白がる発言を本紙に寄せた事が明らかになったことから、議会が市長の適性を問い直す運動を開始したことによる。これが受け入れられれば、市長は自らの進退について決断を余儀なくされることになるだろう。なお、渦中の市長はこれについて不謹慎だったと認めているが、公の場での言明は避けている模様である」

 

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