●NEXT(No.84)

 

「ようするにだ」
 端然とした雰囲気をがらりと変えて潮河は言う。
「枕詞は何のためにあるのかということだ」
 こう熱くなったときの潮河は、一体何が憑いているのだろう。浪人時代からの腐れ縁だ。いつもの潮河といえばそうなのだが、この梅雨の蒸し風呂のような学食でさえスーツを着込んで涼しい顔の奴が、なんだって急に息を荒げて語りモードに入るのか。そこのところはもう五年目になる付き合いの中でも一番分からないところだ。
「味付けみたいなもんじゃない?」
 俺は軽く肩をすくめながら適当に答えてみる。潮河に一人で語らせても面白くない。こうやって混ぜ返してこその会話だ。
「味?」
「ただ母っていうより、たらちねの母と言った方が、ああ母だなあとか感じちゃうとか」
 自分で言いながら思わず笑ってしまった。第一、ああ母だなあと思うほどに親思いではない。だが、潮河ときたら、眉を寄せて真剣な目をしていた。もともと眦の上がった切れ長の目がそんな顔をすると怖い。
「それより、就活試験勉強してたんじゃなかったか?」
 俺は潮河を現実に呼び戻すべく、カラフルな予想問題集をつつく。その本をつかんでいる潮河の手は指が細くてすんなり長い。テレビコマーシャルで皿を洗っているママの手だ。となると、潮河の母親はそんなきれいなママだったりするのだろうか。潮河の美形な女顔が母親ゆずりなら大当たりだが。

「虚無、可能性、空箱、この三つの言葉に共通するのは?」
 つられて俺まで現実逃避するところだった。首を振って目をあげると、熱の消えた潮河がペンを握って聞いてきたところだった。つまらなさそうな視線をページに落している。
「虚無に可能性に空箱?」
 虚無はムナシク何にもないってことで、空箱も何も入ってない箱で、だが可能性ね。俺は思わず爪を噛みかけて、だめだなと思いつく。美幸との約束だ。このガキっぽい癖をなおさないと、同棲やめると言い出したのだ。
 煙草でも吸うかと取り出すと、潮河の顔色が変わった。そうだった、こいつは嫌煙派だった。俺はしぶしぶポケットに突っ込む。
「それよりさ、消失した女って何だ?」
 俺は話題を変えることにする。いたずら心がわいたのだ。俺が来たとき、潮河が一心に書き込んでいたノートにちらりと読めた文章だった。

−消失した女は二十七人−

 どう考えたって、エントリーシートに書き込む内容だとは思えない。潮河は細い目を大きくして瞬きをした。口の端が笑ったように見えた。俺はかすかに不安になる。聞いてはいけないことだったのだろうか。
「話の枕に聞いていくか?」
 語尾は上がっているから一応疑問なんだろうが、この眼差しに断れる人間は少ないだろう。そんな匂いのするしゃべり方だ。話の枕とはなんだ。枕詞の話に戻ったのか。そう言えば、落語の最初にしゃべるマエセツみたいなのが確か枕といったような気がする。
「お前、噺家になるのか?」
 俺の疑問は、突飛だった。けれど、奴の思考の流れには自然なのかもしれない。聞き返すでもなくあっさりと言う。
「いや、脚本家に、なるかどうかについて悩んでいる」
 だから俺が聞き返す羽目になる。
「単なる趣味の予定だったんだが」
 潮河が悩んでいるとは意外だった。基本的に泰然としているから表から見て分からないだけなのかもしれない。演劇に興味も縁もない俺は、かける言葉が見つからずぽかんと口を空けている。気付いて、閉じた。
「よし、聞いてやろう。消失した女の話」
 枕の話だかなんだか分からないが、とりあえず作ったという話を聞けば少しは向いているのかどうか分かるのではないかと思ってしまったのだ。

「それは、中国の隋王朝末期の話だ」
 潮河はおもむろにノートを開いて話し始めた。
 王朝の末期。隋の力は衰えている。皇帝は王朝の力を誇示すべく、大々的な宴を披くことにした。時に皇帝に妃は五十名。皆見目麗しく、若い娘たちだった。皇帝直々の命が李陵という男に下った。すばらしい舞を彼女らに披露させ、皇帝の覇を知らしめるようにと。

「李陵は今で言うプロデューサとか演出家のような役割だ」

 贅沢な衣裳が用意され、李陵は意気揚々と声をあげた。彼が幼い頃にどこかので見た祭りの風景を再現してみようと考えた。妃選びの必須条件に舞の上手さがあったのだから、彼女らは皆、舞の名手だった。そんな妃達の舞は、李陵の意図をすぐに汲み上げ、華やぎ色香を漂わせ始める。
 隋王万歳、天下泰平、不老長寿、など縁起のいい四語を音楽に合わせて綴っていく。高台から見下ろせばひらひらとした様々な色彩の布を纏った妃たちが蝶の群にも見えた。

「李陵はふと、そこに迷い蝶を見つける」

 明らかに統一した流れを無視した動きをする。薄紅色の衣をたおやかに揺らしながら戸惑うでもなく堂々と、違う動きをしていた。驚いて駆け下りた李陵はその蝶に近づいた。いつしか群から離れおっとりと一人座っている。蓮と彼女は名乗った。
「もう、飽きました」
 肩に手をかけ、もたれかかるように立ち上がった女は李陵の耳元にささやいた。香りが鼻腔をくすぐった。
「外庭で練習したいと、申しておりますのに」
 皇帝の妃などと言えば、とても高貴な身のはずなのに、蓮からは手の届かない尊さを感じなかった。ただ、むき出しの意志に、生身の女に李陵は魅せられた。
 言われるまま、外庭を人払いして本番のように通し稽古を行うことにした。妃たちの舞の稽古場には李しか男は入れない。それを利用したのだろう。李が見るのは妃たちの動きだけである。たくさんの兵士が外で待機していても、見張っているのはあくまでも外敵であった。
 本番さながらの外庭での舞が終った後、後になってやっと李陵は気付いた。着替えにいったはずの妃達が戻ってこない。
「私が謀ったことでございますから」
 蓮はいた。李の耳元に濃い香りのする言葉をおいた。彼女は王宮にただよっている亡国の兆しを感じとっているのだという。そして、蓮は妃達のうちの年若い者を故郷に帰したのだと言った。
「無断で?」
「陛下はこの宴が成功いたしさえすれば、妾たちが何人いようかなど数えることはいたしませんでしょうから。顔も名前も覚えていてはくれませんのよ」
 蓮はくすりと笑う。そんな表情を見るとまだあどけなくも見える。
「李さまなら、残ったものたちだけでも、十分に華やかにできますでしょう?」
 大きな目が覗き込んだ。思わず引き込まれる李陵は京劇の中によくある傾国の美女とはこんな女のことをいうのかもしれないと思っていた。
「あまりいい言葉が浮ばないな」
 消失した女は27人。李陵の頭は半分以下の人数になった妃達で舞う演目を考え始めていた。物語を語るようにストーリーを追った展開で、所々に言葉を形作ろう。高台から観覧するので、あまり細かいことはできないだろう。こんな話はどうだろう。李は蓮にイメージを語る。空箱。虚無、そして可能性。
「ある女が箱をあけた。楽園に様々な悪いものを撒き散らしたあと、空箱の中には虚無が訪れる。しかし、人はその中に可能性を見出した、と」

「潮河、お前ちゃんと考えてるのか?」
 俺はとうとう耐え切れずに声をあげた。最初でこそ潮河の視線はノートに向けられていたがいつしか、宙を見つめていることに俺は気が付いていた。別にその方角に、かわいい子がいるというわけでもない。食堂の天井はやや黄ばんでいるだけだった。
「やはり隋に京劇は変か」
 潮河は小さくつぶやいた。目は窓の外を見ていた。雨が降っているだけだ。勢いこんで突っ込みたくなる。
「あのな、最後のくだりはどう考えたってパンドラの箱だろう?」
「なんだ、気付いたのか」
 こんな適当な話を延々とそらで語れるぐらいなら、企業の歯車になるのは寂しいことだろう。しかし、こんな話を書いてる暇があれば就職活動にせいを出せばいい。文章力はあるのだから。
「お前、もっと真面目に就職活動すれば絶対決まるって」
「俺は真剣だ。だが、どっちも同じだけ重要だから、悩むんだ」
 視線をちらと合わせたとき、俺はあれと思った。潮河がこんな困ったような顔をしているのを見るのは初めてのような気がする。社会に出るというプレッシャーがこんな奴にもかかるのだということに、俺はかすかな安堵を覚えていた。
「で、お前はまだしばらくいるのか?」
 潮河は俺に尋ねながら、立ち上がった。話は終ったということらしい。表情は一番最初の無表情に戻っている。
「ああ。藤本が来る。俺、美幸に部屋追い出されてさ」
 俺と潮河と藤本。三人で浪人時代から程よく適当につるんできたが、どうやら就職が決まっていないというところまで同じときた。
「傘返しておいてもらえないか? 一昨日借りてたんだ」
「あれ、お前最近藤本と会ったの? あいつへこんでただろ? 俺やお前と違ってセンサイだからな」
 それよりも、潮河が用事もないのに人と交流があるということ自体にささいな違和感を感じる。そんなに藤本と仲がよかっただろうか。まあ、それでも友人としてそこそこは心配しているのかもしれない。これもやっぱりほとんど表にでないから気付かなかったのかもしれない。
「変な奴だよな。細かいことが気になって仕方がないらしい」
「お前の方が十分変だよ」
 俺の偽らざる気持ちが、思わず声に出た。声もいつになく低いトーンになっていた。
 なんだと思う。きっと本当にたまたま会っただけだろう。今日の俺のように。こいつにそんな気遣いがあるとは思えない。潮河は聞こえたのか聞こえなかったのか。俺に黒い傘を一本押し付けて、自身は別の傘を手に持っていた。
「潮河の母の枕詞は、たらちねじゃあだめそうだな」
 手を見て思い出し俺はつぶやいた。潮河が笑った。出会った頃はこいつを笑わせるのがどんなに難しかったことか。肩を震わせて笑っているとなると、かなり当りなのかもしれない。つぼは全く分からないが。
「ああ、そういえば」
 肩を揺らしながらスーツ姿が、振り返った。
「・・・・・・えっと、瀬戸、だったな」
「またかよ。勘弁してくれよ」
 まただ。人の名前を忘れる。わざわざ最後に確認していかなければ、名前も分からずに話していたなんてこっちは気付かずにすむのに。悪気がないことは知っているが。
「お前の名前もいい名前だ」
 潮河は傘をもった手を振って言った。満足そうな声だった。何をほめているんだろう。愛想のつもりだろうか。分かり難い。そう考えながら視線をあいつに送って、俺は気付く。そうだ、いつもの潮河だ。
「その傘、俺のだろうが」
 食堂の入り口、ガラスによりかかったあいつは平然と言う。
「瀬戸は藤本と一緒に帰るんだろ? 傘を持たない友人に一本ぐらい貸してくれ」
 にこりと、いや、にやりと微笑みやがった。悪意はない。ただ、何か歪んでいる。唇がいつもより赤く見えるが、こんな時の目も怖いのだ。外はどしゃぶりになっている。俺は、仕方なく黙って見送った。背中を睨んだところで、あいつはなんとも思わないだろう。

 それから三十分後、ビニール傘をさして藤本はやって来た。俺のぼおっとした目に映る藤本のつぶれかけのスニーカーは水を吸ってくぐもった色に見える。
「あれ? 俺の傘。潮河に会ったのか?」
 椅子の背にかけておいた傘を手にとって藤本は意外そうに言う。
「ああ、お前に傘、ありがとうだってさ」
 気持ちも通訳しておくのが、俺の二人の腐れ縁の友人への情だと心につぶやく。
「全く、あいつは」
 藤本はため息をついた。俺は、それに負けないくらい大げさに息を吐いてみる。
「どうしたんだ?」
 いぶかしげに聞いてくる。俺は、とりあえずの疑問を口にしてみる。
「そう言えば、虚無と可能性と空箱に共通って何だ?」
「お前も聞かれたのか」
 ということは藤本にも同じ質問をしたらしい。この三つの言葉の共通点はそんなに面白いことなのだろうか。
「藤本のことだから、ワケ分からんとかいってしつこく聞き出したんだろ?」
 この二人の会話は、俺にしてみれば言葉が足りなかったりするのだが、後でどちらかに説明してもらえればそれでいい。
「瀬戸、か」
 何かに思いあたったようで、藤本は黙る。そして、言う。
「なるほどね。お前もか」
「あ?」
「23画は、いい画数なんだそうだ」
「へえ、藤本も占いは自分にいいことが書いてあれば信じる口か?」
「いや、潮河が言っていた」
 俺は、また言葉を失う。最後にそういえば、いい名前だとか何とか言っていたのは画数のことだったのだ。今日は潮河という人間の新しい一面を見る日になった。下手をするとこれまで俺は潮河の何を見てたのだろうとすら思えて来てめまいがした。
「それで、虚無とえっと、可能性と空箱の共通点の話はどこにいったんだ?」
 そうだ、何度も枝にそれていく。話の枕だとかナントカ言ったのはようするに、答えがないからはぐらかしたということだろうか。そう思っていると、湿った布の匂いをさせて腰をおろしながら、藤本は笑った。
「全部画数が同じ23というわけだ。その上、俺の名前も、潮河もだろ。全くあいつが何を言いたいのか分からん」
 消失した女という文字で、ノートのネタをからかおうとしたら、枕といいながら遠回しで延々と、中国の皇帝の話をされたのだと言った。就職活動に必死になるのが馬鹿馬鹿しいってことかと、ひねくれた口調は藤本の癖だ。そしてむっつり黙り込む。
「言いたかったのは、結局、おれたち皆、いい名前ってことでいいんじゃないか?」
 俺は思い付いていた。
「はっ」
 藤本が鼻で笑う。小鼻が膨らんで鼻の穴が大きく見える。藤本と潮河は頭の回転が速くて、いつも俺の思考をおいていくくせに感情的な同調性というのがないらしい。
「俺も聞いた。消失した女の話。そんなフレーズが二人ともノートを見ようとして同じように目に入って気になってっていう話の展開がそもそも、潮河の計算だったら?」
 どこまでが素なのか。わざとノートに一文読める文字で書いていたのかもしれない。最後に名前を確認してみせたのも、潮河当人にしてみれば茶目っ気みたいなものだったら。
「いい画数だというためにか?」
「そもそも、おかしいだろ。人嫌いの潮河が、大入りではない時間にしても食堂で一人なんて」
 他にも変なところがある。
「雨、だしな」
 藤本も思い当たったらしい。雨の日。潮河はできるだけ授業に来なかった。
「あいつのひねくれようからすれば、話も枕が重要なんだろう」
 俺の言葉に藤本は息をはきだしうなだれながら頷いていた。いつもより髪、特にもみあげがととのっているのは今日か明日か、就職試験があるのかもしれない。
「枕詞が好きらしい。たらちねがいいとか、あの熱いモードで言いはじめてた」
 そうだった。俺も一番最初にそんな話をしていた。そして藤本は思い付いたようにつけたした。
「会って一言、23画はいいってだけなら、女子高生が雑誌の最後の占いページを見ながら騒いでいるのと会話の内容が変わらないか」
 だからつまり、と俺は自分の言葉を思い出すのだ。
「枕は、味付け、か。潮河味はわかりにくいな」
「本当にあいつは、友人なのか?」
 藤本の疑問。俺は、考え込む。
「潮河的に俺たちが友人なんだろう。あいつは友人と思う人間の傘しか借りないらしいから」
「俺もそれは聞いたことがあるな、全く悪びれないところが恐ろしい」
「まあ、俺は他人の傘さえ持っていかなけりゃ、あいつを珍友と呼んでもいいかと思うが」
 変な味もつきつめれば珍味なのだから、味のある友人ぐらいでいいのだと思う。多分。衝動的にスルメを買いたくなるぐらい、たまには必要だ。
「え? 瀬戸、お前の傘が?」
「藤本に傘を返しておいてくれといいながら、俺の傘を持って行った」
 肩をすくめる俺に、ちょっと笑いながら藤本は自分がさしてきたビニール傘を渡してくれた。笑った顔はかなり久しぶりに見た。俺はその手をにぎって藤本の目を覗き込んでやった。潮河と違ってつぶらな目をしているから、睨むのに気が引けなくていい。

「それで、ものは相談なんだが、藤本。今日おまえんち泊めてくれ」

 こうして、やっと俺の話が始められる。

 

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