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 大した理由なんかないんだ。
 きっかけだってわからない。
 物心ついたときから、差別はあった。
 両親にとって、弟は王子様で、僕はそのお相手役だったんだ。お相手役って知らない? 『王子とこじき』っていう小説があるだろ? あれに、王子様がしくじるとかわりに打たれるのが仕事の子供が出てくるんだ。僕はあれだった。
 弟が生まれたのは僕の二年後。名前はダイキ。ダイキが生まれる前、両親が僕をどんなふうに扱っていたかは、よく覚えていない。子供の頃、一番よく聞いていた両親の言葉は、
「しっかりしなさい! お兄ちゃんなんだから」
 これだった。それからもうひとつ。
「まったく、お兄ちゃんは、何をやってもダメなんだから」
 しばらくすると、バージョンが変る。
「ダイキ君を見習いなさい。ほら、言われる前にちゃんとやるでしょ」
 こういうセリフは、だいだい、お母さんを手伝って家事をやるときに言われた。ちゃんとやるったって、小さい子だぜ? ホントのこといったら、ちゃんとなんかやれてなかった。例えば僕が、雨が降りそうなのに気づいて洗濯物を入れようとする。もちろんお母さんが気づく前にね。でも大きいタオルなんかは、上手く取り込めなくて、ベランダで落としたりするんだ。するとたちまち叱責が聞こえてくる。
「何やってんの!」
 こういう時、ダイキは遊び半分でタオルをずるずる引きずったりするんだけど、それは叱られない。
「ほら、ダイキ君まで手伝ってくれて」
 って誉めるんだ。ダイキは誉めてなんでもやらす。僕は叱ってやらせる。僕はだんだんとその法則に気づいた。でもよく聞いてみると、法則通りってわけでもない。
 ダイキがコップを落としたら、
「お兄ちゃんが、ちゃんと見ていないから」
 お風呂場で滑ったら、
「お兄ちゃんが、掃除をしておかないから」
 虫に刺されたら、
「虫除けをつけてあげないから」
 郵便ポストが赤いのも、電信柱が高いのも、
「お兄ちゃんが、しっかりしないから」
 だった。もちろん、僕の失敗は、だれのせいでもない、僕のせいだ。
 でもいいんだ。そんな家事の手伝いのことなんかは、些細なことだ。よくある話で、お兄ちゃんの自覚を持たせようとしたっていう理由も成り立つさ。
 決定的な差別化が起こったのは、ダイキが有名学校の附属幼稚園に合格したときだ。もう、ほんの赤ん坊の頃から受験勉強してたけどね。
「よくやった!」
 って、お父さんは、もう大学に合格したみたいに喜んで会社を早退してきた。お母さんは、時代劇で息子が手柄を立てたみたいに、膝を突いて泣いていた。テーブルには寿司、ケーキ、ハンバーグ、飲み放題のジュース。それから親戚まで集まって、オモチャだの本だの靴だの、プレゼントの嵐。
 ウキウキした雰囲気に俺まで嬉しくなって、ケーキのクリームを舐めようとしたら、ピシャリと叩かれた。見上げたら、お母さんの無表情な目が見つめていた。それからはもう、僕は凍り付いて置物状態だったね。
 だけど、ダイキはいい奴なんだ。僕が置物になって、黙って笑いを浮かべていたら、
「お兄ちゃん、ほら、ケーキ」
 とかいって、僕に先にくれようとするんだぜ? 気、つかってんだよ。頭いいんだ。だから有名幼稚園も受かったのかもしれないな。
 え? 僕? 僕は普通の、公立の幼稚園だったよ。お受験なんかしてないよ。なんでダイキだけ、受験させたんかね? 両親とも、「絶対受かる!」って確信してたところあるよ。
 ところがそのパーティで、親戚の一人が、とんでもないことを言ったんだ。
「お兄ちゃんは、どこも受けないの?」
 決定的だね。僕は自分より先に、両親の反応を窺った。
「あら、だって、お兄ちゃんはね、ダメなのよ、落ち着きもないし」
「でも兄ダイキじゃない? きっとお兄ちゃんだって、できるわよ、ねえ?」
 この、最後の、ねえ?っていうのは、出席者全員に訊いていた。一斉にお世辞の相槌が広がった。
「そうよねえ」
「やってみなきゃ、わからないさ」
 そうしてお義理で、僕は有名私立の小学校を受験することになったんだ。僕は、正直いって、ちょっと嬉しかったよ。子供だからね、単純に期待と注目が嬉しかったんだ。
 だけど、3校受けて、全滅した。
 だってしょうがないよ。全然準備してなくて、いきなり願書もらってきて、受験したんだから。まあ、無理だね。競争率だけ考えたって、飛び入り参加ははねつけられるよ。
 両親はのコメントは簡単だった。
「まあ、しょうがないか。いいじゃないか、普通の学校で。近いし」
「そうよね、無理することないわ」
「普通でいいさ、普通で」
 それだけだった。あれ、僕を慰めてたのかな。あとで考えれば考えるほど、僕を慰めたというより、親が自分を慰めていたように思える。
 でも、その時だって、ダイキは気を遣ってたぜ。単純な奴なら、自分は兄より優秀だって、自慢するだろ? それがないんだよね。学校とか、勉強の話題は一切しない。避けてたんだ。やっぱり賢い子だよ。あの頃はまだ、僕はそんなことまで考えていなかったな。
 二年経って、ダイキは小学生になった。もちろん有名小学校だ。成績はどうだったか、聞いたことはなかったけど、問題なく進級してたと思う。僕は近所の、公立小学校に通ってた。
 ダイキは紺色の制服に革靴、黒いランドセルで通学、僕はユニクロだったね。ダイキは幼稚園の頃は、お母さんが車で送り迎えしてた。小学校からは電車通学になって、送り迎えは駅までになった。
 お母さんがパートに行き始めたのはその頃だったかな。ダイキの学費は、けっこう大変だったと思うよ。僕の家は、普通のサラリーマン家庭だからね。特別財産もないし、中古のマンション住まいで、いろいろ切り詰めてたんだろう。私立の学校って、あれこれお金がかかるんだろうね。催しも多いし。
 僕は、おねだりなんか、ほとんどしたことなかった。一度だけ、進級するときに、自転車を買ってくれって言ったことはあったな。近所で、みんな乗り始めた時だったんだ。なんとなく、記念に買ってくれるんじゃないかって、期待してた。そのときには無理でも、お父さんに相談しなさいとか、誕生日までガマンしなさいって言われるかと思ってた。ところが、それどころじゃなかった。
「何言ってんの!? 私が働きに出てるって解ってて、よくそんなこと言えるわね」
「……だって、みんな持ってるから……」
 お母さんはアイロンをかけながら、僕の顔を見ないで言った。
「うちはね、そんな余裕はないの。中学生になって、通学に必要になったら乗りなさい」
「じゃあ、自転車、乗っちゃいけないの?」
「お年玉を使わないで貯めれば、買えるでしょ? それならお母さん、何にも言わない」
「え〜っ。だって、ダイキちゃんはこないだ、学校の合宿だからって、リュックとか靴とか、いっぱい買ってもらってたじゃない。なんで――」
「ダイキ君は関係ないでしょ!」
 お母さんはアイロンを、ドン、と置いて、僕を見た。アイロンの熱気が僕の顔まで届きそうだった。
「だって、その前だって、学校でヴァイオリンを習うって――」
「それは勉強で使うんでしょ! お兄ちゃんなのに、そんなこともわからないの!?」
「でも――僕だってたまには――」
「あの子と同じように扱って欲しいなら、あんたも合格すればよかったのよ。そしたら何でもしてあげるわ。なんなら、中学、もう一度受験してみるのね」
「――ごめんなさい」
 僕はもう、謝るしかなかったね。子供はいいよね。案外、ごめんなさいで、済むことって多いし。大きくなると、だんだんこの手は効かなくなるかんじだもんなあ。
 いや、あのときの剣幕には驚いたよ。本当にあるんだぜ? ヴァイオリンの授業。あ、正確に言うと、ピアノと選択だけど。
 ダイキをうらやんだろうって? いや、そうでもなかったよ。自分でもそれは意外なんだけどね。お母さんと自転車のことで叱られたとき? あいつ、家にいたっけかなあ? いたら、お母さんもあんなふうには言わなかったと思うな。だから、いなかったと思うよ。
 まあ、あれ以来、おねだりは一切しなかった。できないよ、あんな調子じゃ。うちはもう、ダイキの成功のために、一家全員が協力しなくちゃいけないってモードだったんだ。僕も、そう思ってたんだな。
 ダイキは相変わらず、普通に接してたよ。ヴァイオリンを見せびらかしもしない。家で練習したときもあって、僕が練習を聞きながら言ったんだ。
「すごいなあ、もう弾けるようになったんだ。けっこう上手いんじゃないか?」
「ぜんぜん上手くなんないよ。全員がこのくらいやれるんだ。ちゃんと習ってる子もいるしね」
 あれも気を遣ってたんかなあ? ホント、自信なさげだった。印象的だったのを覚えてるよ。

 やっぱり小学生で電車通学がきついのかな、と思ったのは、あの事件のときからだね。
 ある時、学校から帰ったら、お母さんが泣きそうなのと怒ったのが混ざった顔をして、玄関に立ってた。
「今日、ダイキ君を迎えに行ったら、いつもの電車に乗ってないのよ。これから、学校に行ってくるから」
 僕は驚いた。
「えっ?! ダイキ、どっか行っちゃったの?」
「わからないわ――学校へ行って相談してから、警察に行くかもしれないから、お兄ちゃん、留守番してて」
 警察と聞いて、僕は急に怖くなった。
「お・おとうさんは?」
「今、会社に電話したわ。もう夕方だから、出られるって。ケイタイで連絡取るから――」
 言うだけ言うと、お母さんはすぐに飛び出していった。
 お父さんはなかなか帰ってこなかった。後から聞いたら、通学の途中の駅で、一駅一駅、聞いて歩いてたんだそうだ。事故か、事件に巻き込まれたのか、不安が膨らむばっかりで、さっぱりわからなかった。どんどん暗くなるし、電話もこないから、よけい心配だった。でも、子供だからね、案外、ふらっと一人でダイキが帰ってくるんじゃないかって考えもしたよ。
 玄関に人の気配がしたのは、9時くらいだった。
「ダイキ、帰ってきたの?」
 僕は玄関へすっ飛んでいった。お母さんがランドセルを持ち、お父さんがダイキを抱いていた。
「だいじょうぶなの?」
「ダイキのやつ、電車で寝込んで、終点まで行ってたんだそうだ」
 ダイキの通う学校は私鉄沿線にあり、その路線は、うっかりすると郊外を抜けてかなり遠方まで運ばれてしまう、長い路線だった。
「そこで、保護されてたんですって。迎えに行ってきたのよ」
 お母さんはお父さんからダイキを抱き取ると、部屋へ連れて行った。もう、そのまま寝かせるんだろう。ダイキと僕は、一緒の部屋で二段ベッドだ。
「メシは食ったのか?」
 お父さんが僕に聞いた。やっと思いついたってかんじだった。
「うん、シリアル」
「そんなんで平気なのか?」
「うん」
 僕だって心配だったんだ。
「お前は、学校、近くていいな」
 お父さんは冷蔵庫からビールを取り出し、着替えもしないままでキッチンの椅子に座り、飲み始めた。
「俺もメシはいいか」
「ダイキはどうしたの?」
「疲れたんだろう。朝と夕方の電車は、大人でも大変だからな」
「そんなに大変なの?」
「ラッシュっていってな、ぎゅうぎゅうにすし詰めで新聞も読めないんだぞ。ちょっと事故なんかあると、さらに混んで、カバンはあっちの方に引っ張られるし、靴は脱げそうになるし、ダイキなんか、持ち上げられるか潰されそうになるんじゃないかな」
 ダイキが毎日そんなことになってるなんて、僕には想像もできなかった。
「だから、私が車で送り迎えしたいって思ってたけど、仕事もしなくちゃいけないし」
 お母さんが、勉強部屋から出てきて言った。
「お兄ちゃん、宿題は?」
「したよ」
「本当? 明日のしたくはしたの? あんた、忘れ物が多いんだから、しっかりしなさいよ」
 なぜか今日も小言を言われる僕だった。
「お風呂はいって、もう寝なさい」
「はい――」
「お母さんにはわるいけど、もうちょっとがんばってもらわなきゃいけなそうだな」
「がんばってるわよ」
 僕がキッチンを離れると、親たちは大人の会話を始めた。
「実は転勤の話しが出てるんだ。もう少し先だけど」
「左遷じゃないでしょうね」
「いや、お約束のコースだよ」
「じゃあ、将来に繋がるってわけ? でも、ダイキの学校もあるし――」
「いいよ、単身赴任で――」
 そんな話が聞こえたけど、そのときには良くわかんなかったよ。
 風呂に入ってきて、部屋に入り、明日の時間割を見た。確かに僕は慌て者なんだ。すぐ曜日を間違えて、ぜんぜん違う仕度をしちゃうクセがあった。
「お兄ちゃん」
 声が聞こえて、僕はびっくりした。
「寝たんじゃなかったのか」
「怒られるとおもったんだ」
 寝たふりをしていたらしい。
「今日、どうしたんだ? 電車で寝てたのか」
「うん、寝たのはちょっとだけで、目が覚めたんだけど、降りたくなくなって――」
「ふうん――」
 ダイキは顔に影があるみたいに、暗い顔になっていた。疲れているみたいだ。
「じゃあ、山が見える方まで行ったのか?」
「うん、ずっと前にみんなで行った、遊園地も見えたよ」
「お腹すいたろ?」
「うん、駅でパン買って、また電車に乗っちゃった」
「面白そうじゃんか」
「うん――」
 ダイキはクスクス笑った。
「お父さんとお母さんに叱られた?」
「ちょっとね。そうでもないよ」
「じゃあ、よかったじゃん」
「うん、今度は一緒に行きたいね」
「そうだね、電車乗ろうね」

 考えてみたら、僕はダイキとあまり遊んだことがなかった。お父さんやお母さんと一緒の時は別 にして、兄ダイキ二人では、近所の公園にも行っていない気がする。
 もっともずっと前の、ダイキが幼稚園に行く前には、少しはあったと思うけど、覚えていないな。遊びでも何でも、すぐに、
「お兄ちゃんも一緒に」
 って言うんだ。お母さんが買い物に行こうかって言っても、絶対、
「お兄ちゃんも一緒に」
 って言う。でも、お母さんが、あんまり来て欲しくなさそうだったら、遠慮するけどね。
 ある時、学校から帰る途中、駅前通りの公園で、一人でブランコに揺られている子を見つけた。ダイキだった。
「ダイキ! なにしてんの?」
 僕は駆け寄って聞いた。だってダイキはいつも、お母さんの迎えの車で帰ってきていたんだ。
「お母さんと一緒じゃなかったの?」
「うん、なんか、逢えなかったんだ」
「ふうん――スーパーとか、寄ってるんじゃないかな?」
「わかんない…」
 でもダイキは怒っているふうじゃなかった。なんか楽しそうだった。
「お兄ちゃん、どっか行くの?」
「うん、友達んとこ行って、自転車乗らせてもらうんだ」
「ほんと!? 僕も行っちゃだめ?」
「え? いいよ」
 別に、二人で行っちゃいけない、とは言われていない。
「じゃあ、行こうか…」
「あっ、お兄ちゃん、宿題は?」
 ここで、僕は、ハッとした。
「あるけど、あとでやるよ」
「じゃあ、僕もあとでやろう」
 僕たちは連れ立って、公園を出た。
「友達の自転車ってどんなの?」
「新しいんだぜ。マウンテンバイクっていうんじゃないかな」
「すごいね! お兄ちゃん、乗れんの?」
「ちょっとだけ。まだ練習中」
「僕も乗りたいな」
「危ないよ、今日は見てるだけにしな」
「やだ、僕もちょっと乗りたいよ」
 僕たちはウキウキしていた。
 友達は快く自転車に乗せてくれた。新しいから、自慢する相手が増えたことが嬉しかったんだと思う。頭の片隅で、チラッと、お母さんに黙ってダイキを連れ出して大丈夫かな? という不安が浮かんだけど、すぐに小さくなった。すぐに帰ればいいんだ。暗くならないうちに――。

 なのに、僕たちが家に帰れたのは、もう日が暮れてからだった。しかも、友達の家にお母さんが車で迎えに来た。
 ダイキが怪我をしたんだ。もちろん、そんなひどくはなかったんだ。救急車を呼ぶほどではね。――でも、最悪だった。
「ダイキ?! ダイキはどこ?」
 家の前の道で車の音がしたのと、ほとんど同時に、玄関からお母さんの声が聞こえた。友達のお母さんがすぐに飛び出した。
「まあ、すみません。迎えに出ていただいて」
「何があったんですか?」
「うちの子と一緒に自転車に乗って遊んでたんです。それで転んで――」
「お兄ちゃん!? いるんでしょ!」
 呼ばれて、僕はすごすごと玄関へ出た。お母さんの声は、今まで聞いたことがないくらい怖かった。
「ダイキは?」
「あっちでテレビ見てる…」
「あ、奥にいます…」
 僕と友達のお母さんを押しのけて、お母さんは玄関から上がりこんだ。
「ダイキ?」
 テレビを見ていたダイキがふり返った。顔中、擦り傷だらけだ。
「ダイキ、大丈夫なの?」
「うん、ちょっと痛いだけ。最初、血がいっぱい出たけど、もう止まった」
「どこも、痛いとこないの? 歩けるの? 手は動くの?」
 お母さんは、ひとしきりダイキの手足を撫で回していたけど、いきなり振り向いて、僕の頬を叩いた。
「あんたが誘ったんでしょう!」
 僕は弾かれて、廊下に転がった。
「ダイキは、いつもの所に待っていなかったのよ! あんたが駅まで行ったんじゃないの?」
「そんな…お兄ちゃんのせいじゃ…」
 友達のお母さんが、抱き起こしてくれたけど、僕のお母さんの剣幕に驚いていた。
「お兄ちゃんのせいじゃないよ。僕が――」
「ダイキは黙ってなさい。かばうことないの! 宿題もしないで、私に黙ってこんなところへ来るような子じゃないのは、知ってます! ちゃんと説明しなさい!」
「さいしょ、僕が自転車に乗って…」
「あんたのことはいいの」
「次にダイキが乗って…」
「ダイキは乗れないでしょ、一人じゃ。ウソ言わないの!」
「僕が後ろを押えてたんだ。でも急に自転車が動いて、押えられなくなって…」
「それでダイキが落ちたのね?」
 そうだ。サドルからずり落ちて、顔からアスファルトへ激突した。自転車は、ダイキが乗るには大きすぎた。
「やっぱり、お兄ちゃんのせいじゃないの」
 お母さんはダイキを抱き上げ、僕の腕をつかんで、立ち上がらせた。
「さ、帰るわよ」
「あの、大丈夫だとは思いますが、一応病院に――」
 友達と、そのお母さんが、すっかりびびって廊下に立っている。
「もちろんです。これから行きます」
 僕は友達にバイバイもできずに、そのまま引きづられて車に乗り込んだ。
 僕は泣いた。車の中でも、病院で診察が終わるのを待っている間も、家に帰ってからも、ずっと泣いた。声は出さなかったけれど、
「いつまで泣いてるの!」
 と叱られても、涙がボロボロ流れて、止まらなかった。一生分の涙が流れそうだった。
 つられてダイキも泣いた。母が言った。
「なんでもないって、病院じゃ言ってたけど、やっぱりどっか、痛いんじゃないの?」
 それっきり、僕はダイキとは、本当にどこへも出かけなくなった。

 小学校最後の夏休みを前にして、僕の通っている学校で、進路相談の面接があった。三者面談じゃなくて、親だけが呼ばれる。
「面談? 公立の中学に進学するのに、面接なんて必要なの?」
 お母さんはそういって、面倒くさそうに顔を曇られた。僕だって、そんなの必要だとは思わなかった。公立の小学校を出たら、当然、近くの公立中学に行くのだと、思っていたからね。
「でも、最近、中学受験する人、多いんだって。だから、一応、親の考えを確かめておくんだって、先生が」
「一応、ね。仕事、早めに切り上げなくちゃ」
 その日、お母さんは担任の先生との約束の時間から、少し遅れた。僕はプールで泳ぎながら、校門と校舎の時計を、しょっちゅう見ていた。約束は3時半。時間を過ぎてから、お母さんが汗だくで駆け込んできたのが見えた。
「考えていたより、時間がかかっちゃって」
 あとでそう言っていたけど、考えたら、両親とも、ほとんど僕の学校に来たことがないんだ。授業参観も運動会も、来たのは2年生くらいまでだったと思う。
「仕事が忙しいんだ」
 と、お父さんは言い、
「ダイキの学校のイベントと重なるのよ」
 とお母さんは言った。
 実際、ダイキの学校のイベントには、マメに行っているみたいだったな。ああいう学校って、イベントの時には、絶対親が行かなきゃいけないんだって。ホントかな?
 僕は文化祭には行ったことあったよ。
「お兄ちゃんも一緒に来て」
 って、例によって言われたから。文化祭は小学校から高校までが一緒にやってて、屋台も出て、お祭みたいだったなあ。僕の学校は、町内会の盆踊りみたいに、盛り上がりがイマイチだ。だからお母さんは来ないのかもしれない。
 そうそう、それで三者面談。
 夕方、帰ってきたお母さんは、なんだか怖い顔していた。僕は、絶対、担任の先生から、僕のことで注意されたんだと思って、もうビクビクしてた。どうだった? とも聞けなかったよ。ところが、ご飯を食べ始めたとき、いきなりこう言ったんだ。
「あんた、私立の中学、受けたい?」
「え?」
 一瞬、なんのことか、わかんなかった。
「中高一貫教育の学校、行きたいかって聞いてんのよ」
「なんで…?」
「今日、先生が言ったから」
「ウソだよ、そんなの」
 僕は、遠い昔、小学校を受験した時のことを思い出していた。あんまり、楽しい思い出じゃない。
「僕、絶対ダメだよ。落ちるよ」
「ウソじゃないわよ。受けたらどうかって、ホントに言われたんだから。うちは、ダイキが私立行ってるし、お兄さんだって、やればできるって。あんた、そこそこ成績いいんだってね」
「そんなことないよ」
 学校での、僕の好きな時間は、給食と体育、次が算数と理科。あんまり得意じゃない――と思う。
 両親はあんまり僕の成績にも興味ないみたいだった。テストの点が良くても、
「公立で成績がよくてもねえ」
 って言われてた。ヒネてなんかいなかったよ。そんなもんかと思ってた。なんせ小学校受験で失敗してるからね。大したこと無いんだって、自分でもそう思ってたよ。
「あんた、どうなの?」
 もう一度聞かれて、僕はお母さんの顔を見た。困ったような顔だ。きっと困った出来事なんだ。
「――僕、いいよ――」
「そう? 受けないの?」
 いいよっていうのは、そういう意味かどうか、あんまり考えてなかった。どっちでも良かったんだ。
「うん――」
「そう……でも、お父さんにも聞いてみるわ」
 それを聞いて、僕は、そそくさとご飯を食べて、テレビも見ないで部屋にこもった。お父さんが帰って、相談しているところを見たくなかったんだ。どうせお父さんも、困った顔をするんだろうと思った。
「お兄ちゃん、受験すんの?」
 部屋に入ると、ダイキが聞いた。
「しないよ」
「え〜なんで? すればいいじゃん」
「やだよ、どうせ落ちるもん」
「わかんないよ、そんなの。ホントは頭いいかも」
「お前とは違うよ」
「僕なんか、まぐれだよ〜。そんでさ、お兄ちゃんが受かったら、今度は僕がお兄ちゃんの学校に行くよ。交代すんだ」
「今の学校、やなの?」
 僕はびっくりして聞いた。ダイキの学校は、いいところだと思い込んでいたんだ。
「う〜ん、学校はいいけど、めんどくさいんだ。お母さん、うるさいし」
 そんなもんかな、と僕は半信半疑だった。ダイキの行ってる学校は、ヴァイオリンをやったり、勉強もきっとすごく難しいんだと思う。
「一応、受けるだけ、受けてみたら?」
 あくる朝、お母さんが言った。
「ウソ、なんで?」
「お父さんが、やるだけやってみなさいって」
 僕が起きる時間、お父さんはもう家にはいない。とっくに会社に出かけてる。
「ホントに? お父さんが?」
「嫌ならいいのよ、無理しなくても」
 それからすぐ、お母さんはダイキと車に乗せて駅に向かった。僕は朝ごはんを食べながら、考えた。学校へ行ってからも考えた。
 そして、その夜、お母さんに言ったんだ。
「僕、やってみるよ」
「え? 何を?」
「中学受験」
 お母さんは、笑いも怒りもしないで、僕を見返した。こういう目で見られないためには、きっと受験しなくちゃいけないんだろうと、あの時僕は考えたんだ。
「本気なのね?」
「うん」
「じゃあ、やってみればいいわ」
「どうすればいいのかな? 塾とか行くの?」
「ダイキのときとは違うからね。学校で聞いてみたほうがいいんじゃない? 友達で、いないの? 誰か受験する子」
「いると思う」
「じゃあ、聞いてみなさいよ。あとはお父さんに聞いてみて。お母さんはダイキのことで忙しいから」
 僕は土曜日を待って、お父さんに聞いた。そしてまず、お小遣いをもらって、参考書と問題集を山ほど買ったんだ。とりあえず、ちょっとまじめに勉強してみることにした。
 それから、友達と同じ塾にも行ってみることにした。それまで、行ったことなかったから、ぜんぜん自信なかったけど、雰囲気はわかるだろうっていう、お父さんの意見だった。
「お兄ちゃん! 受験すんの?」
 ダイキは、なんだか嬉しそうだった。
「うん、どうなるかわかんないけど、試しにだよ」
「すごいな! どこの学校行くの? 僕と同じとこ?」
「ええっ ダイキんとこは難しいよ。中学正は募集少ないんじゃないか」
「そんなことないよ。一緒に行こうよ」
「お兄ちゃんは、小学校のとき、受からなかったから、今、こんなに苦労するのよ。ダイキは良かったわね」
 僕らのやり取りを聞いて、夕飯の後片付けをしながら、お母さんがそう言った。
「そんなの、良くないよ」
「なに?」
 台所のシンクで、水音が止まった。僕は嫌な予感がした。
「僕、考えたんだ。お兄ちゃんが中学受かったら、僕は今度はおにいちゃんの学校へ行くよ。交替だよ、いいでしょ? お母さん」
「何言ってんの?! ダイキ」
「だってさ、僕、これからずっとあの学校なんでしょ? 飽きたよ、つまんない。別の学校行きたいなあ。お兄ちゃんと一緒なら、ガマンして行くけど」
「ダイキ! もう一度言ってごらんなさい! ダイキをあの学校に通わせるために、お母さんがどれだけ大変だったか、わかってるの?!」
 楽しいプランを打ち明けるような顔をしていたダイキが、たちまち凍りついた。僕も凍りついた。
「こめんなさい……お母さん」
 解っても解んなくても、あやまるに限る。でもこの時、お母さんの怖い顔はなかなか消えなかった。
「今まで、ダイキはこんなこと言わなかったのに、お兄ちゃんが中学受験するなんて言い出すから、変なこと考えるのよ」
 そう言ったっきり、台所に戻って、お父さんが帰ってくるまで、何にも言わなかった。
 夜、ベッドに入ったダイキは、参考書を眺めている僕にVサインを出した。
「お兄ちゃん、やっぱり、僕と同じ学校行こうよ。交替がダメなら、一緒がいいな」
 僕は迷ったよ。その夜考えて、あくる日もずっと考えてた。中学受験していいのか、受かればいいのか、落ちたほうがいいのか、さっぱりわかんなくなった。
 ダイキは凄く期待している。でもお父さんとお母さんはどうなんだろう?
「お兄ちゃんも受験ですって? さすが優秀なのねえ」
 なんて、近所のおばさんに言われると、一応、お母さんも嬉しそうだ。
「そんなことないのよ、近頃は、誰でも受けるだけは受けるもの」
 とは言ってるけど。
 受かったら、ダイキはどうなるんだろう? 落ちたら、どうなるんだろう?
 そんなことを考えているうちに、秋が過ぎて、冬になって、受験の日が来てしまった。
 そして、本当にだらしがないことに、僕はまた失敗した。3校受けて、玉砕したんだ。(次号、後編に続く)


Copyright(c): Hisae Ishii 著作:石井 久恵


◆ 「スケープゴート」の感想


*タイトルバックに「
CoCo Style 」の素材を使用させていただきました。

*石井久恵さんの作品集が、文華別 館 に収録されています。
*光文社が一般公募していた「奇妙におかしい話」(阿刀田高選、文庫457円)に石井さんの作品が入選、収載されています。


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