ネット名作館一覧表紙に戻る 中里奈央 作品集

     1

 仕上げの香水を一吹きして寝室から出た。 テーブルと冷蔵庫の間をすり抜ける。
 狭いダイニングキッチンはリビングルームも兼ねているので、床のすき間が見えないほど家具で一杯だ。
 その間に埋もれるようにして、テレビを見ながら化粧している後姿。ほっそりした肩に揺れる豊かな髪に顔を埋めたい衝動に駆られながら、わたしは声をかける。
「それじゃ、行ってきます」
 毎日のことだけれど、声帯が鎧を着けたように硬くなる。愛してほしいのに愛してくれない人間への恨みを抑えるには、自分の感情に強固な蓋をする他ない。そんなわたしを、彼女は冷たい人間だと言う。
 優しい返事が返ってくるわけでもないのだから黙って出て行ってもいいのに、わたしは毎日必ず、きちんと彼女に挨拶をする。まるで、継母の気分を損ねないように神経を張り詰めて暮らしている孤独な良い子のように。彼女は血のつながった本当の母親なのに……。
 でも、そうでない方が良かったかもしれない。他人だったらとうに縁を切り、彼女の傍を逃げ出して、一人で全く別の人生を生きていただろう。
 口紅を塗る手を止めて、彼女が鏡越しにわたしを見た。しわとシミを隠すための厚い化粧は仕事のためだ。母もこれから出かけるのだ。毎晩男の相手をしながら、母はわたしを育ててくれた。
 何も悪いことをしていないわたしを怒鳴り、殴り、押入れに閉じ込めては自分のストレスを解消し、母はわたしと二人で生きてきたのだ。
 若いときの彼女は、今のわたしと瓜二つだった。子ども心にも母親が美しいこと、それが誇らしかったことを覚えている。不摂生と乱れた生活が彼女をすっかり変えてしまった。これはわたしの将来の姿だろうか。


 彼女は無言でわたしを睨んでいたが、目と目を合わせる勇気のないわたしが、テレビのニュースに気を取られるふりをしていたので、すぐにまた自分も視線を戻し、テレビを横目で見ながら化粧の続きに取りかかった。
 わたしの中にある底なし沼のような飢餓感は、ひたすらに彼女の愛を求めている。彼女がいつか優しくわたしを愛してくれる日が来ることを心の底から切望している。だから、彼女の傍を離れることができない。
 彼女はすっかり無口になった。昔のようにわたしを怒鳴ることもない。でも、ヒステリックな声が記憶の底から蘇る。
(この期待はずれの役立たず!)
 それに追い立てられるように、わたしはアパートから逃げ出した。
 一人になるとほっとする。やっと酸素を取り戻したように、自分が生き生きと蘇るのを感じる。
 夜はいつも、わたしに優しい。極彩色のネオン、ピンクサロンの呼び込みの声、通りを行き過ぎるほろ酔い加減の男と女。
 太陽の下では吐き気をもよおすゴミ溜めのようなこの街も、人口の光は陰の部分を闇の中に埋めてしまう。表の看板だけを不自然なほどに明るく照らして……。
 そして、わたしに投げかけられる好色な視線、視線、視線。わたしは、ゆっくりとハイヒールの音を響かせながら、男たちを値踏みする。
 不潔な卑猥さも、むき出しの欲望も、異性を求める切実ささえあれば、それはわたしを陶酔に導く。
 大き目の革のカバン、上等なスーツ、薄くなりかけてはいるが清潔そうな髪の毛……。
「こんばんは、この街の人?」
 男が驚いたように、そして思いがけない幸運を手にしたように頬を緩める。そのまぶしそうな笑顔で、わたしは自分の価値を確認する。男はいつもわたしの鏡だ。
「いや、出張で初めて来たんだ。いいところだね」
 今夜の愛人が決まった。
「わたし、リカ。パパって、ちょっと好きなタイプだわ」
 煙草の匂いが父を思い出させる。わたしが四歳のときにいなくなってしまった父。優しくて、弱くて、母からわたしを守ることのできなかった父。母の支配から逃げ出し、それきり行方不明だ。
 背広の腕に自分の腕をからめ、わたしは、とりとめのない話をしながら男とホテルの門をくぐる。
「リカちゃんは色が白くてきれいだね。スタイルもいいし、まるでモデルだ」
 酔いが男の口を滑らかにさせているらしい。まじめでお世辞など言えそうもないように見えるのに、男はわたしを賞賛する言葉を次々に並べ立てる。
「遠目にも美人だけど、近くで見るともっときれいだ。それに、すごく若いんだね。年、いくつか訊いてもいいかな」
「十八歳になったばかりよ」
 わたしは、初めて男とホテルに入った夜から一年以上つき続けている嘘を言う。でも、あと半年も経たないうちに、わたしは本当に十八歳になる。だから、それは嘘ではなくなるのだ。
 自分の娘以外の若い女には縁のなさそうな男は上機嫌で、
「そうか、十八歳か……」
と言いながら抱きついてくる。
 大きな胸、力強い抱擁……。わたしの体を侵略しようとする性急な
手をそっと押し戻し、にっこりと微笑んだ。
「ねえ、パパ、シャワーを浴びましょう。二人で一緒に」
 まじめそうな仮面はとうにどこかへ消えている。むき出しの好色さが男の顔を卑しく見せているが、ただのオスになってしまったこの瞬間の男ほど、わたしに女としての自分の力を実感させてくれるものはない。
 ここからの数分間が勝負だ。
 わざとゆっくり男の服を脱がせてやり、自分は恥ずかしそうに体をくねらせ、嬌声を上げて男の手から逃げる。胸のボタンをはずしながら背中を向け、自分もすぐに行くからと言って、先に男をバスルームに追いやる。
 シャワーの音が聞こえたら素早く男の背広から財布を抜き取り、中身の札を半分だけ頂く。カードには決して手を出さない。そして、そのまま逃げて終わりだ。 
 上等なスーツを着ている中年過ぎの男は、この程度のことでは警察には行かない。もめごとのタネになるような小さな恥を会社や家族に知られるより、忘れる方を選ぶのだ。それに、出張中の人間とは再び会う可能性もほとんどない。
 最初の頃は、何度も失敗した。男に捕まり、殴られ、警察に突き出される代わりに、快楽の道具として全身の総ての部分を利用された。でもその経験が、わたしを強い女にしてくれたのだ。
 猥雑な夜の中にまぎれると、わたしは足早に横断歩道を渡りながら、バッグに入れた札の厚みを思い出し、口元が緩むのを抑えることができなかった。
 今夜はいい仕事をした。これでまた預金が増える。目標の額までもう少しだ。彼女もきっと、わたしを愛してくれるに違いない。
 そう思うと、幸せでいっぱいになる。過去のどんな苦しみも、自分自身のどんな歪みも、彼女の愛さえあれば癒されるはずだ。母と娘で仲良く暮らせる日はもうすぐだ。


     2

 その夜もわたしは、いつものように念入りに化粧をし、ネオンの街を歩いていた。か弱いウサギのふりをしながら、実は狼の目で男を値踏みしながら。
 声をかけられやすいように、ぶらぶらとひまそうに歩いているわたしを、じっと見つめる気配。いつも感じる雑多な男たちの好色な視線とはどこか違う、わたしを見つめて瞬きもできずにいるような、強い感情のこもった真っ直ぐな視線。
 ちょっと躓いたふりをしながら立ち止まり、真っ赤なハイヒールの踵を確かめるように何気なく、でも街路灯の下で美しく見えることを計算に入れながらポーズを取り、その視線をたどった。
 まるで何かに射抜かれたように、わたしを見つめて茫然と立っている中年の男。身なりは良いが、どことなく気の弱さを漂わせている。目が合った瞬間、怯えたように下を向き、再びわたしを見つめる表情には、強い憧れと純粋な愛情のようなものさえ見え隠れする。
 わたしはハイヒールを片方だけ脱いで手に取りながら、痛々しく見えるはずの表情を作り、男の方に少しよろけて行った。
「大丈夫ですか?」
 男は反射的にわたしを支えながら、うろたえたようにそう言った。
「ごめんなさい、靴が足に合わないみたい」
「靴ずれしたの?」
「初めてなの、ハイヒールって。無理なのかな、大人のふりは……」
 気の弱そうな男には、少女のように近づくのが効果的だ。
「まだ未成年?」
「十八歳になったばかりよ。名前はリカ。パパはこの街の人?」
「いや、ちょっと用事があって……」
 わたしを支える腕が震えている。間近で見る男の表情は、世間ずれした中年とは思えなかった。まるで初めて女を愛した少年のように、彼は切ないまでの真剣な顔でわたしを見つめていた。
「今夜、わたしの傍にいてくれる?」
 耳元でそう囁くわたしに、男は操り人形のようなぎこちなさで頷いた。さりげなくハイヒールを履きなおし、男の腕にすがるふりをしながら、自分の方がわたしをリードしているように思わせ、ホテルに誘い込んだ。


「シャワーを浴びましょう、二人で一緒に……」
 いつもなら、二人で一緒にという言葉が男を有頂天にさせ、警戒心を取り払う。でも今夜の男は眩しそうにわたしを見つめながら、こう言った。
「いや、いいんだ。このままで一晩一緒にいよう。でもお金は払うよ。お金を持って帰らないと困るんだろう?」
 今までの男たちと違う……。そう思ったわたしの表情をどう読んだのか、彼は続けて言った。
「ごめん、失礼なことを言っちゃったね」
「ううん、いいの。その通りだもの。親が借金を作っちゃって、わたしが返すしかないの」
「そうか、若いのに苦労してるんだね」
 わたしは男と並んでソファーに座り、何とかして彼をバスルームに追いやらなくてはと、少し焦りながら男の膝に手を置いた。
「パパは他の男の人とは違うのね。わたしを大切に扱ってくれる」
 しおらしい声でそう言ったが、男はわたしの手を握ろうともしない。
「似てるんだ、昔、愛していた人に。さっきは驚いたよ。彼女が歩いてるのかと思った」
 どこか懐かしさを感じさせる微笑み……。そんな優しい表情を男に与える昔の女と、わたしに触れるのが怖いほどの大切な思い出に、その瞬間、嫉妬を感じた。
「恋人?」
「結婚していた。息子もいた」
「どうして別れたの」
「自分の弱さとか、若さとか……」
「そんな理由で別れたの? 子どもがいたのに?」
「嫉妬や束縛や支配に耐えられなかった」
 わたしの中で、わたしという存在の中心の、そのもっと奥の部分が、不意にざわめき出す。
「息子って、何歳だったの?」
「まだ四歳だった。亮太という名前で、おとなしくて良い子だった」
 眠っていた記憶が、今、目覚め始める。
「そんな小さな子どもを置いて別れたの?」 
「あれから十年以上経った。償いをするために、この街に戻ってき
た」
「償い? どんな? お金?」
 思わず演技を忘れてしまったわたしを、男は怪訝そうに見る。
「君に言ってもしょうがないだろう」
 わたしは微笑みながら男の目を見つめ、ゆっくりと立ち上がった。彼の正面に全身をさらしながら、ドレスを脱ぎ捨てる。
「ねえ、パパは初めてよね?」
 こみ上げる笑いを抑えているわたしを見上げる男の顔に、不審の色が浮かぶ。そんな男を真っ直ぐに見つめながら、下着をゆっくりとはずした。念入りに選んだ、わたしの大切な商売道具。柔らかな布が体に沿って足元に落ちる。
「君は……」
「そうよ、体はまだ男。でも、きれいでしょう? わたしがパパを抱いてあげる。素晴らしい経験をさせてあげる」
「お前、まさか……」
 全裸になったわたしを愕然と見上げる男の膝に馬乗りになり、わたしは彼の背広を脱がせ、ネクタイをはずす。
「亮太なのか……」
「そうとも言うわね、戸籍上は」
 男は自分の両手首がネクタイで縛り上げられていることにも気づかないほどの茫然とした様子で、わたしを見つめている。
 昔愛した女と瓜二つの街で拾った女、そして自分が捨てた息子。
 父が出て行った後、いつもあの男にそっくりだと言って母に殴られた。
(お前があいつみたいにならないように、今のうちにその不潔なものを切り落としてやる)
 そう叫びながら、裁ちばさみを振り回して追いかけてきた夜叉のような形相も、男たちからお金を奪うたびに、少しずつ記憶の中で薄れていった。
 彼女が欲しかったのは自分にそっくりな女の子なのだ。彼女が考えるように考え、彼女が望む通りに行動し、彼女のためにだけ生きる忠実な分身。
 それに気づいたときから、わたしは彼女のようになろうとした。彼女のしぐさ、服装、髪型、化粧……。
 ほぼ完璧といっていいほど、わたしは彼女になりつつある。本物の彼女が年々気弱になり、わたしを睨む不機嫌な表情の中にほんの一瞬、怯えとも妬みともつかないような心の揺れを垣間見せることがあるほどに。
 彼女の期待通りの存在になって、思いっきり愛してもらうには、あとはもう体を部分的につくり変えるだけ……。


「抱いてあげるわ。男は初めてでしょ。息子とやるのも、もちろん初めてよね」
 じわじわとこみ上げてくる怒りに任せて、わたしは彼のズボンを乱暴に脱がせる。
「亮太……」
「亮太として抱いてほしい? そうよね。そうしてあげる」
 男の顔が歪み始める。それは愛情でも後悔のせいでもない。ただの恐怖だ。その露骨な恐怖が、わたしの怒りを炎のように燃え上がらせる。
「初めての経験をさせてあげる。痛いのは最初だけよ」
 そう言いながら、わたしは脱がせたばかりの靴下を男の口に詰め込んだ。それから、拳を握り締めて男の顔を思いっきり殴りつけた。ソファーの背もたれに跳ね返された頭を押さえつけ、無理やりこちらを向かせる。
 涙を浮かべた情けない顔は、わたしの怒りを増幅させるばかりだ。
「見てよ、よく見て。自分が捨てた息子を」
 もう一度殴ると、男の目の下の皮膚が裂け、血が噴き出した。わたしの指輪がまともに直撃したらしい。男の痛みが拳から伝わり、わたしの全身を駆け回る。そう、痛いのはわたしの方。
「朝まで一緒にいてあげるわ。いいえ、朝までじゃ足りないわね。この先一生、死ぬまで一緒よ。思いっきり償わせてあげる。方法はいくらでもあるわよね、パパ?」
 下半身をむき出しにし、両手を縛られ、口には自分の靴下を詰め込まれ、涙と血を流しながら怯えている男の滑稽さが悲しくて、わたしはいつまでも笑い続ける。

Copyright(c): Nao Nakazato 著作:中里 奈央(ご遺族)

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中里 奈央(なかざと なお)
某大学哲学科卒業。「第4回盲導犬サーブ記念文学賞」大賞受賞。「第1回日本児童文学新人賞」佳作入選。「第3回のぼりべつ鬼の童話コンテスト」奨励賞受賞。
自らのホームページ(カメママの部屋)を運営する傍ら、多くの文芸サイトに作品を発表。ネット小説配信サイト「かきっと!」では、有料メールマガジン「かきっと! ストーリーズ」の主力作家として活躍。平成15年10月17日、病気のため逝去。

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