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 ドアの鍵を開けようとしたときだった。表札の隅の小さな数字が目に入った。鉛筆で「23」と書かれている。鍵を持つ手が止まった。
(徹也義兄さん?)
 ドアを開けると、玄関は真っ暗だった。夏の熱気がこもったままで、部屋の中に人のいる気配はなかった。
(佳奈のやつ、おどかしやがって)
 電灯のスイッチを入れて、ドアの鍵をロックした。チェーンをかけて、おれは苦笑した。チェーンをかけ忘れても、もう佳奈に叱られることはないのだ。
 ダイニングキッチンのエアコンのスイッチを入れると、郵便受けに入っていたものをテーブルの上に投げ出した。チラシやダイレクトメールがほとんどだ。
 椅子にどっかと腰を落として、部屋の中を見渡した。まるで、他人の部屋にいるようだ。佳奈が熱中していた押し花アートの額はすべて取り外されて、黄ばんだ壁がやけに広く感じられた。食器類や生活雑貨もすべて片付けられている。佳奈の気配が、徹底的に拭い去られていた。19年間の夫婦生活の痕跡が、消失してしまった。
(おれの方が捨てられるとは、思っていなかったな)
 右の手のひらに、佳奈の頬を張ったときの感触がよみがえった。ある日、唐突に、目の前に離婚届を突きつけられたのだ。理由を問いただすと、恋人が出来たという。おれは信じなかった。信じられなかった。信じたくなかった。しかし、その翌日、佳奈は相手の男を連れて来た。佳奈より7歳も年下だった。
(あの男、手話もわからないようだったな)
 佳奈は、先天的な聴覚障害で、耳がまったく聞こえなかった。おれと佳奈が手話で話をしているとき、その滝本という名前の男は、ふてくされたような顔でタバコをふかしているだけだった。
(まあ、おれも最初は似たようなもんだった……)
 佳奈と付き合い始めた頃のことを思い浮かべた。筆談が、ふたりの会話の中心だった。見よう見まねで手話を覚えて、どうにか会話が成立するようになったのは、結婚してからのことだった。
 喉の渇きを覚えて、台所に行って冷蔵庫の扉を開いた。缶ビールの他は、パック入りのトコロテンがいくつか入っているだけだ。トコロテンのパッケージを破って、中身を皿に移した。タレと辛子をかけて、テーブルまで運んだ。暑い夏場は、こうしてトコロテンをつまみにビールを飲むのが、おれの一番の楽しみなのだ。
 缶ビールの表面についた水滴で、テーブルの上に「1010」と書いてみる。銭湯の暗号だった。その隣りに、「91」を書き足した。「おおもりや」という定食屋の暗号だった。レジの婆さんが91歳なので「91」。よく釣り銭を間違えていたが、多く渡したことはないという噂だった。「1010」でさっぱりしたあとで、「91」で110円のトコロテンをつまみにチューハイを飲むのが、プータローだったおれの最高の贅沢だった。
 あの頃は、ふたりだけの暗号づくりに熱中していた。筆記するにも、手振りで伝えるにも、数字の方が便利だった。「23」はニイサンで、佳奈の兄の徹也のことだ。「103」はトーサンで、佳奈の父親の修一郎。母親は、暗号にすると「88」なのだろうが、佳奈が物心つく前に亡くなっていた。ひとり暮らしをしている佳奈のことを心配して、徹也も修一郎も月に一度は、佳奈のアパートを訪れていた。家賃を溜めて、体一つで佳奈のアパートに転がり込んでいたおれは、「23」と「103」に遭遇しないように、佳奈とふたりであれこれと対策を立てていた。
(あのパンチは効いたよな)
 それでも、徹也に同棲がみつかって、取っ組み合いの喧嘩になった。体格ではおれの方が勝(まさ)っていたが、気持に負い目のあるおれが、勝てるわけはなかった。でも、それがきっかけで、きちんと就職して、佳奈と所帯を持つ決心がついたのだ。
 トコロテンの入った皿を持ち上げて、箸ですくいあげて口に運んだ。酢醤油の豊かな風味が口いっぱいに広がって、清水の塊が喉元を通り過ぎて行く。無意識に、右の手のひらで頬を二度、軽くはたいた。おいしいという手話の表現なのだ。そう、ほっぺたが落ちるほどに……。
「うまい!」
 口に出してみた。しらじらしい響きだった。言葉に出せば、意味は通じる。しかし、そのことに甘えてしまって、気持がこもっていない。手話は確かに面倒だが、相手に言葉を伝えたいという熱意がこもっている。その動作の一つひとつに、豊かな感情がこめられている。
(いったい、どうして……)
 何度も、同じことを考えてしまう。
(まさか、美佐子のことを知ってたんじゃないだろうな)
 会社の部下で、29歳の事務員だった。3年ほど前に夫と死別して、ひとり息子を女手ひとつで育てている。お互い、遊びだと割り切ってつき合っていた。
(そんなはずはない。美佐子のことに気づいていたら、別れるときにそのことを理由にしたはずだ。それに、佳奈とあの男のつき合いは、一年以上も前からだというじゃないか)
 缶ビールを飲み干して、アルミ缶をクシャリと握りつぶした。美佐子との関係が始まって、まだ半年も経っていないのだ。
(結局、お互いさまだったんだ。おれに、佳奈を責める資格はない)
 新しい缶ビールを取って来るために、立ち上がった。そのとき、頭をぐるりと回して、首筋の凝りをほぐした。美佐子の、肉付きのいいふとももを思い浮かべた。ひざまくらにすると、弾力があって実に具合がいいのだ。あまりの心地よさに、しばらくうたた寝をしてしまった。しかし、目が覚めたとき、寝違えたように首筋が凝っていた。無理もない。20年近くも、佳奈のひざまくらに馴染んできたのだ。
 佳奈は、おれの頭をひざに乗せて、白髪(しらが)を抜くのが好きだった。髪の毛をさわられるのは、男でも気持のいいものだ。白髪を抜くときの痛みも、慣れてしまえば快感になる。佳奈に頭髪をゆだねながら、自分の髪の毛がすべて白髪になってもかまわないとさえ思ったものだ。
 2本目の缶ビールを飲みながら、テーブルの上の郵便物を調べた。佳奈宛ての封筒が、一通だけ入っていた。差出人を確認すると、川上晴子と書かれている。見覚えのない名前だった。
(友達だろうか)
 しばらく、その封筒を睨んでいた。佳奈は今、滝本という男の所にいるはずだった。あとで住所を知らせると言っていたが、いまだに連絡はなかった。
(仕方がないよな)
 自分に言い訳して、封を破った。予想に反して、ワープロで印字された用紙が出てきた。
「川上晴彦探偵社……」
 思わず、口に出して読み上げた。それは、調査費用の入金を確認したという通知書だった。日付がかなり前なので、事務処理のミスなのか、それとも郵送のトラブルなのか。
(佳奈は、おれと美佐子のことを知っていた……)
 15年も前の光景が、脳裏をよぎった。佳奈はひどく思い詰めた表情をして、おれの帰宅を待っていた。今日、大学病院の検査結果が出たという。そのときの佳奈のギクシャクした手の動きを、おれは鮮明に覚えている。

 ワタシハ、コドモガウメナイカラダナノデ、ワカレテクダサイ

(くだらん芝居をしやがって!)
 おれは立ち上がって、玄関に走った。靴をスリッパのようにつっかけて、そのまま廊下に飛び出した。エレベーターが来るのが待ちきれなくて、階段を駆け下りた。マンションの外に出てからも、タクシーを探して歩道を走った。ようやくタクシーを呼び止めて乗り込んだときには、息が完全に上がっていた。
「横須賀まで。急いでるんだ!」
 かすれた声で行き先を告げた。「23」は今、横須賀に住んでいる。
「お客さん」
 タクシーが走りだして、しばらくしてからだった。運転手に呼びかけられた。
「それ、何かのおまじないですか?」
 おれは初めて、自分がやっていることに気づいた。左手の甲を、右の手のひらで撫でるように、くるくると円を描いている。顔が火照るのがわかった。
「いや、なんでもないんだ」
 とても人前でしゃべれる言葉ではなかった。


Copyright(c): Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋

◆「アイシテル」の感想

*この作品は、2003年7月の課題テーマ「ところてん」を題材にして、掲示板で発表したものを再編集しました。トライアングル掌編文学賞の課題テーマである「消失」「23」「まくら」にも挑戦してみました。
*タイトルバックに、「
CoCo*」の素材を使用させていただきました。
*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が文華別館に収録されています。


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