T-Timeファイル亜木冬彦&赤川仁洋 作品集表紙に戻る


1

(ダメだな)
 秋介(しゅうすけ)は観念した。こんなはずではなかった。優勢を確信して、慎重に攻めをつないだはずだった。それが、のらりくらりとかわされているうちに、一手負けになっている。
「しょんべん、いいですか?」
 相手の男が、ギロリと目を剥いた。
「にいちゃん、往生際が悪いな」
「ついでに首も洗ってきますから」
 首筋をさすりながらそう言って、秋介は立ち上がった。トイレに向かってゆっくり歩きながら、背後に神経を集中した。男が付いてくる気配はなかった。大きく息を吸い込んで、呼吸をとめた。直角にターンして、猛然とダッシュした。鉄砲(文無し)で、賭け将棋をやったのだ。
 脱兎のごとく、会所の外に飛び出した。通行人の間を縫うようにして、全力で走った。路地に逃げ込んで、ゼイゼイと全身で息をしているときだった。
「にいちゃん」
 振り向くと、背後にあの男が立っていた。口元に冷笑が浮かんだ。秋介の背筋に、ぞくりと寒気が走った。鬼の顔だと思った。右手にナイフを握っている。
(やられる!)
 身を翻(ひるがえ)して逃げようとしたとき、ナイフの切っ先が秋介の脇腹を抉(えぐ)った──。


「イチチチチ」
 暗闇の中で、がばりと上体を起こした。ハッとして、自分の脇腹を手でまさぐった。無傷だった。
(夢か。しかし、この痛みは……)
 ズキズキする口元を手でかばいながら、枕元の電気スタンドを点灯した。顔のすぐに、たくましい足が伸びている。
(なんて格好だ)
 まさに、大の字だった。ピンクのネグリジェがめくれ上がって、へその穴まで見えている。笑おうとして、口元が疼いた。手のひらを見ると、かすかに血が付着している。
『ハルは気だてのいい娘(こ)なんやが、ちぃーとばかし、寝相が悪くてな』
 そう忠告した栗田の顔には、右目の上に大きな青痣が残っていた。
 春子が大きく寝返りをうって、彼女の膝がとんできた。秋介は、ダブルベッドから転がり落ちるようにして、その猛烈な膝蹴りをかわした。
(まるで、リングの中だな)
 秋介は、電気スタンドの灯りを消すと、絨毯の上にごろりと横になった。ヤブ蚊が襲ってくる公園のベンチに比べたら、ここは天国だった。
(場外乱闘は、かんべんしてくれよ)
 右手を枕にして丸くなると、たちまち睡魔が襲ってきた。


 ご飯を口に含むと、パサパサしてまるで消しゴムでも食べているようだ。味噌汁は塩辛くて、煮込みすぎたのか、茄子(なす)がぐずぐずに崩れてしまっている。卵焼きは、表面がすっかり炭化していた。
「ゴメンね。あたし、料理が苦手なの」
 春子が謝った。郷里の福井から出て来て五年になるというが、言葉の響きにまだ訛りが残っている。
 秋介は無言で、箸を運んだ。飢えていれば、味なはどうでもいい。空腹を満たすのが先だった。
「その傷、あたしがやったんだね。あたし、寝てるときに暴れるみたいだから」
 秋介がかぶりを振った。
「ベッドから落ちたときにぶつけたんだ」
 食べながら、ぼそりと言った。これ以上の会話をするのが面倒だった。
「あんた、いい人だね」
 春子が、笑顔を見せた。まるで、泣いているような笑顔だった。


2

 新世界のジャンジャン横町にある将棋会所、一歩クラブが、秋介のホームグラウンドだった。
「よお、色男。さっそく夫婦喧嘩か?」
 秋介が一歩クラブに顔を出すと、ケイちゃんがさっそく声をかけてきた。ケイちゃんのケイは、時計のケイだ。昔は、時計専門のスリ「ケイちゃん師」だったという噂がある。
「ベッドから落ちたんです」
「彼女、そんなに激しいんか?」
 説明するのが面倒で、秋介は無言で頷いた。
「チキショー、うまいことやりよってからに」
 ケイちゃんが本気で悔しがった。
 春子のヒモの栗田は、ケイちゃんの上得意客だった。口八丁手八丁で相手を楽しませながら、勝ったり負けたりを繰り返して、細く長く金をむしり取る。それが、ケイちゃんのやり方だった。
「あの男、見たことあるで。トンボリ(道頓堀)にあるキャバレーに来とったわ。なんでも、あちこちの店に女の子を紹介して稼いどるいう話や。早い話が、スケコマシやな」
 栗田がトイレに立ったときに、常連客のひとりがケイちゃんに告げた。とっちゃん坊やのようなケイちゃんの顔から、いつもの笑みが消えた。詐欺師まがいのことを平気でやる男だが、女性に対しては意外とフェミニストなのだ。ケジラミ野郎──、女を食い物にする男のことを、ケイちゃんはそう呼んでいた。
 トイレから戻った栗田は、三番、棒に負けた。それも、序盤から一方的に攻め潰されるという惨めな負け方だった。
「おっさん、騙しやがったな」
 千円札を三枚、盤上にたたきつけながら、栗田が吠えた。
「にいちゃん、わてが八百長でもやった、いうのんか?」
 ケイちゃんが気色(けしき)ばんだ。
「手合いをごまかしとったやないか」
 ケイちゃんと栗田は、角落ちで指していた。この手合いでは、ケイちゃんが本気を出せば、栗田に勝ち目はない。栗田の棋力は、せいぜいアマの二段程度だろうか。
「勝負は時の運やで。今日はたまたま、あんたの調子が悪うて、わてが冴えとったというこっちゃ」
 ケイちゃんがとぼけた。
「よし、わかった。じゃあ、もういっぺん勝負しようやないか」
 思わぬ提案に、ケイちゃんが口元がゆるんだ。
「望むところや。何番でも相手になるでー」
「ちまちま賭けるんは性に合わん。五万でどうや?」
「えらい剛毅(ごうき)やな。よっしゃ、受けたろうやないか」
 笑いが止まらない。鴨がネギを背負(しょ)って、喧嘩を挑んできた。
「ただし、手合いは二枚落ちやで」
 ケイちゃんの顔から笑みが消えた。
「あんたが落としてくれるんか?」
「あほぬかせ。おっさんが二枚落として、ええ勝負やないか」
 周囲から、失笑が漏れた。自分の将棋はへぼだということを、宣言しているようなものだ。
「わかった。飛車落ちにしようやないか」
 ケイちゃんが値切りにかかった。
「いや、二枚落ちや」
 ケイちゃんがしばらく考えた。
「よっしゃ、飛香落ちや」
 ぎりぎりまで譲歩した。どうしても、鴨鍋が食いたいのだ。
「いや、二枚落ちや」
 栗田が頑なに言い張った。そして、盤上に駒を並べ始めた。
「あほらし。とてもつきおうてられへんわ」
 ケイちゃんが席を立った。
「おっさん、逃げるんか。卑怯やど」
 しらけた空気が流れた。この会所では、もう栗田の相手をする者はいないだろう。
「おれがやりますよ」
 秋介が声を上げた。
「なんや、おまえは?」
 栗田がうさんくさそうな顔で秋介をにらんだ。秋介は二、三日前に旅から戻ったばかりで、栗田はまだ顔を知らないのだ。
「わての弟子ですねん」
 ケイちゃんが愛想笑いを浮かべながら、栗田に紹介した。そして、秋介の耳元でささやいた。
(大丈夫なんやろな)
 秋介は無言で頷いた。
(よっしゃ、わいは四でええよ)
(せいぜい、二ですね)
(おまえ、金ないんやろ?)
 図星だった。旅先で持ち金を使い果たして、素寒貧(すかんぴん)で大阪に戻って来た。昭和四十九年の秋だった。オイルショックの影響で、国中が不況に喘いでいた。賭け将棋の獲物は細るばかりだ。
(じゃあ、三でいいです)
 秋介の譲歩に、ケイちゃんが渋々頷いた。
「何、ひそひそ話しとん? おれは、おっさんと勝負したいんやで」
 栗田がいらだった声を上げた。
「わての代わりに、この男が勝負させてもらいまひょか。わての一番弟子で、榊、言いますんや」
 ケイちゃんが紹介した。
「二枚落ちで五万、それでええんやな。代理でも、ちゃんとはろうてもらうでー」
 秋介は鷹揚に頷いて、栗田の前に腰掛けた。ケイちゃんは口を出さない。秋介の旗色が悪くなったら、黙ってトンズラする魂胆なのだ。
「にいちゃん、悪いな。おれ、プロの八段に、二枚落ちで勝ったことがあるんやで」
 くわえ煙草で栗田が言った。ヘビースモーカーなのか、灰皿が吸い殻でいっぱいになっている。
 秋介は無言で、駒を並べた。多面指しの指導将棋に勝ったところで、自慢にはならない。熟練したプロは、相手に気づかれないように“負けてくれる”のだ。
「タイトルも取ったことのある有名なプロ棋士……」
 鋭い駒音が響いた。あんたの番だと、秋介が栗田の顔をにらんだ。


3

「わいの二万、忘れんといてや」
 ケイちゃんが念を押した。
「一万五千」
 秋介が訂正した。
「なんでや。わいの取り分は、五万の四分で二万やないか」
「三分です」
「こすっからいやっちゃなー。まあええよ。利子を入れて、一万七千や」
 秋介は、苦笑を浮かべるしかなかった。
 栗田は、金を持っていなかったのだ。敗戦が濃厚になったとき、トイレに行く振りをして逃げようとした。それを、会所にいた常連たちが取り押さえた。
「懸賞(賭け金)がはらえんくすぼりはな、もう将棋が指せんように、中指と人差し指をツメてもらうことになっとんのやで」
 ケイちゃんのホラ話に、栗田が震え上がった。ちなみにくすぼりとは、賭け将棋で食い扶持を稼いでいる輩(やから)のことで、一日中、将棋会所や将棋道場の片隅でくすぶっていることから、その名がついたと言われている。賭け将棋のことを隠語で真剣というので、関東では真剣師とも呼ばれている。
「頼む、一週間だけ待ってくれ。必ず金を用意するから」
 栗田が土下座して懇願した。
「あかんあかん。そのままドロンされたらおしまいや」
 それで、栗田が借金の形として差し出したのが、春子だった。宿無しだった秋介が、見張り役として春子のアパートに転がり込んだのだ。
「ちょっと調べてみたんやがな。あのケジラミ、あっちこっちのノミヤで、チャリンコ(競輪)のツケがたまっとるそうや。しっかり見張っとかんと、女と一緒にトンズラされるで」
 ケイちゃんの警告を、秋介は聞き流した。四六時中、春子にくっついているわけにはいかない。それに、あの春子に対して、栗田がそんなに執着しているとは思えない。最初から流すつもりで、担保に差し出したのではないか……。
「よお、待っとたでー」
 ケイちゃんが声を上げた。秋介が振り向くと、くすぼり仲間の床屋が、軽く手を挙げた。髪結いの亭主そのままに、家業の理髪店を女房に任せきりで、将棋ばかり指している。今日は、男の子の手を引いている。坊ちゃん刈りの青白い顔色をした子供だった。
「どうやった」
 ケイちゃんが尋ねた。
「うまくいきそうや」
 床屋がそう言って、ニヤリと笑った。
「じゃあ、茶でも飲みながら相談しよか。にいちゃん、ケンタの面倒みてくれるか」
 ケイちゃんの言葉に、秋介が不満そうな顔をした。
「悪いな」
 床屋に頭を下げられて、秋介は渋々頷いた。
「ケンタ、お父ちゃんが帰ってくるまで、このおじちゃんと一緒におるんやで」
 ケンタは、不安そうな顔をしたが、コクンと大きく頷いた。
 ケイちゃんとトコヤが会所を出ていって、ケンタが取り残された。泣きそうな顔で、秋介の顔を見上げた。酒焼けした赤ら顔の父親とは正反対の、透き通るような肌の色をしている。床屋の話では、心臓の弁に先天的な障害を抱えていて、医者から激しい運動が禁止されているらしい。
「将棋、できるか?」
 秋介が尋ねると、ケンタが笑顔で頷いた。よじ登るようにして椅子に腰掛けると、さっそく駒を並べ始めた。駒を持つ手つきがサマになっている。
「お父ちゃんとは、何枚落ちでやってるんだ?」
「六枚」
 秋介は、自陣から六枚の駒を取り上げると、駒箱の中にしまった。ケンタは、あからさまに不服そうな顔をした。
「おじちゃんも、お父ちゃんと同じぐらい、強いんか?」
「さあ、どうかな」
 秋介が駒に手を伸ばした。ケンタはもう、前傾姿勢で、盤上に神経を集中している。
(これは、本格的だな)
 ケンタは、両端の歩を伸ばして、六枚落ちの定石通りに指してくる。いい加減に指していては、たちまち押しつぶされてしまう。秋介は、腰を据えて、じっくり読んだ。
「おかしいなあ」
 五番ほど指したところで、ケンタが不思議そうな顔で秋介を見た。
「一番いうのんは、一番上いうことやろ?」
 ケンタが問いかけた。
「そうだな」
 秋介が鷹揚に答えた。
「六枚落ちではボク、二番に一番はお父ちゃんに勝てるんや。でも、おじちゃんには、五番もやって一回も勝てへん。お父ちゃんは、大阪一の将棋指しのはずやのに……」
 秋介は、返答に困った。心の中で、自分の迂闊(うかつ)さを罵った。
「おじさんは、東京の人間なんだ」
 苦しい言い訳だった。でも、それでケンタの表情が晴れた。
「そっか、おじちゃんは、東京一の将棋指しなんやね。どおりで強いはずや」
 秋介は、苦笑を浮かべるしかなかった。


4

「大将、これが対戦表でおます」
 ケイちゃんが、チラシの裏に書き込んだトーナメント表を、多賀谷の前に差し出した。多賀谷元(はじめ)、新世界のタガゲンの名前は、その「つぶし屋」という異名と共に、全国の真剣師たちに恐れられている。すでに五十代の半ばを過ぎているはずだが、痩身に地味な背広を着込んだ容貌は、秋介が大阪に来た五年前とほとんど変わっていない。
 チラシのトーナメント表は、床屋の店の近所にある稲穂神社が、毎年秋祭りに開催する将棋大会用のものだった。その小さな将棋大会に、一歩クラブを根城にするくすぼり軍団が、参加しようというのだ。
 きっかけは、子供同士の喧嘩だった。小学三年生のケンタの同級生で、原口ユウスケという生徒がいる。その父親が、全日本アマ名人戦の大阪代表になった実力者なのだ。今年の六月に行われた全国大会でも、ベスト8に入っている。そのことを自慢していたユウスケに、ケンタがくってかかった。
「大阪一の将棋指しは、うちの父ちゃんやで」
 激しい口論になった。いじめられっこで、いつもはおとなしいケンタが一歩も引かない。取っ組み合いの喧嘩になって、相手に馬乗りになられても、ケンタは降参しなかった。わいは大阪一の将棋指しやから、赤の他人の髪の毛いじっとる暇はないんや──、夫婦喧嘩のときの床屋の言葉を、頑なに信じていた。
 じゃあ、どっちが強いか将棋で決着をつけよう、子供らしい結論だった。原口親子は毎年、稲穂神社の将棋大会に出場した。その大会に、ケンタも親子で参加すると約束してしまったのだ。
 困ったのは床屋だった。全国的に名の知られたアマの強豪に、まとも戦って勝てるわけがない。かといって、息子の顔をつぶすわけにはいかない。親兄弟や女房にまで疎(うと)んじられている床屋にとって、ケンタだけが味方だった。思い悩んだ床屋は、くすぼり仲間のケイちゃんに泣きついたのだ。
「山崎の名前がないようやな」
 トーナメント表を見て、多賀谷が尋ねた。
「榊のにいちゃんが戻って来たんで、後方支援に回ってもらいます」
 ケイちゃんの言葉に、四十年輩の男が、むさ苦しい顎髭を撫でて見せた。通しのサインだった。床屋の形勢が悪くなったときは、その通しのサインを使って、山崎が加勢する計画なのだ。
「金のメドはついたんか?」
 多賀谷が尋ねた。
「賞品の大型カラーテレビ、電気屋に五万で引き取ってもらえることになっとります。大将は二万、わてらに一万づつでええですね?」
 ケイちゃんの確認に、多賀谷が小さく頷いた。そして、もう一度、トーナメント表に視線を落とした。稲穂神社の将棋大会の世話役が、床屋の幼なじみで、トーナメント表の組み合わせを任せてもらえるように頼んだのだ。どうやら床屋は、その幼なじみの弱みを握っているらしい。
 トーナメント表は、ABCDの四つのブロックに分けられていた。それぞれ、十名前後の名前が書き込まれている。床屋とケイちゃんがAブロック、Bブロックに秋介、Cブロックに多賀谷の名前があった。全員、シードされている。問題の原口はDブロックで、一回戦からの登場だった。
 くすぼり軍団が予定通りに勝ち進めば、Aブロックの代表決定戦で、床屋とケイちゃんが対戦することになる。それを勝ち上がれば、Bブロック代表の秋介と対戦する。
(おれが勝ち続ければ、タガゲンと決勝か)
 心がざわめいた。そんなことをすれば、仲間の顔をつぶした秋介を、多賀谷は全力で屠(ほふ)りにかかるだろう。多賀谷とは、もう一年近く対戦していない。それだけ秋介の力を認めたのだ。盤上で対峙すれば、全力で斬り合うことになる。そのための舞台と懸賞が必要だった。
「わしを、ここに入れてくれんか」
 多賀谷が指さしたのは、Dブロックの原口の隣だった。みんなの顔色が変わった。
「大将、相手は全国のベスト8でっせー」
 床屋が思わず口を挟んだ。その顔を、多賀谷がギロリと一瞥(いちべつ)した。
「あんた、わしが負ける、いうのんか」
 床屋の顔が青ざめた。
「どうせぶつかるんなら、早いとこつぶしておいた方がええやろ?」
 こともなげに言い放った。
「やったあ!」
 座敷の方で、ケンタの歓声が聞こえた。振り向くと、ケンタが誇らしそうに、指でVサインをして見せた。その向こうで、引退したプロ棋士の遠藤が、好々爺とした笑顔を見せている。
「よろしゅうたのんます」
 床屋が深々と下げた。


5

 体に圧迫感を覚えて、目を醒ました。安っぽい香水のにおいが充満している。唇に、ぬめりとしたものがかぶさってきた。アルコールの熟したにおいが鼻孔に進入した。秋介は、力任せに相手の体を押しのけると、手を伸ばして電気スタンドを点灯した。
 ベッドの上に仰向けになって、春子が強ばった顔でにらんでいた。ギャバレー用の厚化粧のままだ。素顔のおっとりした顔が、したたかな夜の女に変貌している。
「何さ、もったいぶっちゃって。あんた、栗ちゃんの後釜なんやろ。だったら、やることはちゃんとやってよね」
 口調まで変わっている。
「おれはただ、質草の見張りをしているだけだ」
 春子の顔がひきつった。
「あばさけんなまぁ(ふざけないでよ)。うら(わたし)は物じゃねえんだ」
 春子の叫びが、肺腑まで響いた。
「悪かった……」
 ぼそりと言うと、秋介はベッドから降りて、身支度をした。荷物は小さな旅行鞄だけだ。
「ちょっと待ってよ」
 春子に呼び止められた。
「栗田には、ちゃんと話をつけておくよ」
 秋介がそう言って、玄関に向かおうとしたときだった。
「行かないでよ!」
 背後から、抱きしめられた。振りほどこうとすると、さらにしがみついてくる。
「行かないでよ、お願いだから……」
 泣き声になっていた。秋介が振り返ると、ようやく腕の力を緩めた。顔を覗き込むと、マスカラが涙で滲んで、黒い隈取りができている。思わず、秋介の表情がゆるんだ。春子が、秋介の胸に飛び込んで、子供のように泣きじゃくった。
(まいったな。一張羅のワイシャツが台無しだ)
 もう一つ、困ったことがあった。下半身が高ぶっている。それを察したように、春子がぐいぐい体を押しつけてくる。
(まいったな)
 心の中でつぶやいた。


「あんた、秋に生まれたんでしょ?」
 春子が尋ねた。秋介の左腕を、勝手に枕に使っている。
「そうだな」
 秋介が肯定した。本当は、夏の暑いさなかに生まれたのだ。予定よりも一ヶ月はやい早産だった。
「あたしは、一月に生まれたのよ。一月三日が誕生日なの。三が日に生まれたから、おめでたいので春子なの。いつまで待っても、春の来ない春子さん」
 春子が笑い声を上げた。
「どうして、栗田にくっついてんだ?」
 しばらく返事がなかった。
「やさしい……、からかな」
「あいつは……」
「うん、わかってる。あたしのおめでたい頭でも、よーくわかってる」
 互いに無言だった。
「あんた、お父さんのこと、好き?」
 唐突な質問だった。しばらく考えた。
「そうだな」
 曖昧に肯定した。確かに、子供の頃は親父のことが好きだった。だが、秋介がまだ幼いときに、家業の八百屋を放りだしてホステスと駆け落ちしてしまった。
(恨んでいる?)
 自分に問いかけた。違うと思った。
「あたしは、大嫌いだった。ひっでぇ、だわもんでね」
 春子が含み笑いをした。
「福井弁で、なまけ者のことを『だわもん』ていうのよ。賭け事と女に目がなくて。救いはお酒かな。一滴も飲めない下戸だった。そのかわりに、煙草ばかり吸ってたっけ。そばに寄ると、ヤニ臭くてね。それで、肺ガンになって死んじゃった」
 アッケラカンとした口調だった。
「似てるのよね」
 ぼそりと言った。
「栗ちゃんもお酒が飲めないのよ。頭の中は競輪のことばかりだし、女にはだらしない。歯なんか、煙草のヤニで真っ黄色。うちの父ちゃんによく似てるわ」
 愉快そうに笑った。
「でもね、そのことに気づいたのは、最近になってからなんだ。あたしって、おめでたいでしょ?」
 秋介は答えなかった。
「あんた、寝ちゃったの?」
 カーテンを透過する街灯の明かりで、春子の瞳の位置がわかった。
「ああ、もう寝てるよ」
 春子が体をすり寄せた。
「あんた、いい人だね」
 秋介の耳元でささやいた。


 翌朝、目を覚ました秋介は、自分の体に異常はないかどうか、手足を動かしてみた。大丈夫だった。痛みはなかった。
 春子はぐっすり寝入っている。あの寝相の悪さが嘘のように、秋介の隣でおとなしく眠っていた。
(なんて顔だ)
 秋介が笑みをもらした。化粧を落とさないまま眠ったので、ひどい顔になっている。黒い涙の跡が、頬に残っていた。
(まいったな)
 心のなかで嘆息した。


6

「にいちゃん、明日のこと、忘れんといてや」
 一歩クラブを出るときに、床屋に念を押された。稲穂神社の将棋大会は、明日なのだ。
「父ちゃん、あのおじちゃんも大会に出るのんか?」
「そうやで」
「でもあのおじちゃん、東京の人間やで。なんで大阪の大会にでるのん? 東京のもんが一番になったら、あかんのんとちゃう?」
「心配せんでええ。今度の大会は、お父ちゃんが絶対、一番になったるさかい」
 後ろで床屋親子の会話を聞きながら、秋介は会所の扉をくぐった。
「すいません」
 アーケードの歩道に出たところで、声をかけられた。振り返ると、ずんぐりした男が立っていた。結婚式の帰りなのだろう。白いネクタイに古びたモーニングを着込んでいる。借り物なのか、だぶだぶだった。
「ここの常連さんですか?」
 男の問いかけに、秋介は鷹揚に頷いた。
「榊秋介さんという方が、この会所にいると聞いて来たんですが……」
 男の顔をまじまじと見た。秋介と同年輩で、二十代の後半だろうか。酒が入っているのか、目が赤く充血している
「おれに、なんの用ですか?」
 警戒心を隠さなかった。一度も会ったことのない男だった。
「じゃあ、あなたが……」
 人なつっこい笑顔が現れた。
「岩田という名前を覚えてないですか?」
 秋介はしばらく考えて、かぶりを振った。
「松江の将棋会所で、イカサマをやられて困っていたのを、あなたに助けてもらったそうですが……」
 ようやく思い出した。二年ほど前に、ケイちゃんに誘われて、広島の山間にある田舎町まで指導対局に行ったことがある。そこで、比婆の大猿という異名を持つ往年の真剣師と勝負するはめになったのだが、その帰りに、山陰まで流れたのだ。
「確か、福井から出張で来たとか言ってたな」
 イカサマの手口は単純だった。盤面に覆いかぶさるようにして、相手の王将を凝視する。いかにも攻めに集中していると見せかけて、左手の袖口に隠し持っていた針金を操作して、自陣の駒を移動させるのだ。
「そうです。その福井の岩田です。わたしの友人なんですがね。わたしが大阪に行くというんで、自分の替わりにお礼を言ってくれないかと頼まれたんです」
 ようやく事情が飲み込めた。
「ああそうですか。わざわざどうも。じゃあ、おれはこれで」
 秋介は会釈して、男から離れようとした。今さら、名前も忘れていた男に興味はなかった。
「ちょっと待ってください。このまま帰ったら、岩田に何も報告できません。よかったら、食事でもご馳走させてください。新世界には、ふぐのおしいし店があると聞いて来たのですが……」
 秋介の足がとまった。大阪名物のてっちりも、しばらく食べていない。ふぐのしこしこした歯ごたえや、鍋の残り汁でつくる雑炊の味を思い出して、秋介は生唾を飲み込んだ。


7

 玄関のドアをたたく音で、秋介はむくりとベッドから起き上がった。まだ、眠ってはいなかった。大会のことが気になるのだ。多賀谷の顔が脳裏にちらついた。決勝まで行けば、多賀谷と対戦することができる。その誘惑に、勝つことができるだろうか……。もともと、八百長は大の苦手なのだ。勝つための八百長ならば、まだ許せる。負けるために将棋を指すのが気にくわない。
 ドアの外で、春子が騒いでいる。壁の時計を見ると、すでに夜中の二時を回っていた。
「ごめん。鍵がどこかにいっちゃったのよ」
 春子が千鳥足で、部屋に入って来た。
「お邪魔します」
 連れがいた。雑賀(さいが)だった。一緒にふぐ屋に入ったときに、同郷ということで、春子のことを少し話した。問われるままに春子の店の名前を教えたのだが、まさかこのモーニング姿のままで、キャバレーに遊びに行くとは思っていなかった。
「じゃあ、三人で飲み直そうよ」
 春子が、台所の流しの下から、一升瓶を持ち出してきた。ちゃぶ台の上に湯飲み茶碗を三つ置いて、酒をなみなみと注いだ。
「かんぱーい!」
 春子が歓声を上げて、湯飲みの酒をあおった。
「今日は、楽しいな。いい男がふたりも、あたしの相手をしてくれるんやもん」
 ひとりではしゃいでいた。雑賀はにこやかな笑みを浮かべて、春子の相手をしている。酒に強い男だった。ふぐ屋に入っても、食べ物にはあまり手をつけないで、ふぐのヒレ酒ばかりを飲んでいた。相当な量を飲んだはずだが、挙動に乱れはなかった。 
「店に、栗田という男が来てたんですよ」
 春子がトイレに行っているときに、雑賀が話しかけてきた。 
「ハルちゃんに、ソープの店に移ってくれないかと頼んでいるみたいですね」
 秋介は無言で、湯飲みを口に運んだ。栗田のやりそうなことだった。どうせ、ヤクザ関係の店なのだろう。借金の形に、春子を差し出す魂胆なのだ。
「悪いが、先に寝かせてもらうよ」
 湯飲みの酒を飲み干して、ベッドの布団の中にもぐりこんだ。春子と栗田の問題なのだ。他人が口を挟むことではない……。
「あれ、秋介さん、どうしたの?」
 トイレから戻った春子が尋ねた。
「少し酔ったみたいで、先に寝るそうです」
「せっかく友達が遊びに来たのに、そりゃあかんざぁ。うらが起こしてくるべ」
 福井弁で言った。
「もう充分じゃけ、このまんま寝かせてあげておくんねの」
 雑賀が応えた。ふたりの笑い声が聞こえた。
「あんた、おもっしぇ人やのぉ。よし、今夜はうらが、朝までつき合うてあげるから」
「ほやほや。それがええ」
「よし、乾杯しよ」
 その夜は、何度も乾杯する声が繰り返された。


8

 祭囃子が聞こえてくる。天高く、どこまでも秋晴れだった。
 稲穂神社の社務所の座敷が開放されて、将棋の対局場になっている。すでに一回戦の対局が開始されていた。
 多賀谷と原口も対戦している。大阪を代表するアマの強豪で、全国的に名の売れた原口の対局には、観戦者がたくさん集まっていた。一回戦をシードされているくすぼり軍団のメンバーも、その中にいた。
「ちょっとええか」
 ケイちゃんに声をかけられて、秋介は廊下に出た。
「もし、大将が負けたら、にいちゃんが優勝してや」
 秋介は驚いた。
「しかし、床屋さんが……」
「あいつが原口に勝てると思うか?」
 返事に困った。
「まだにいちゃんの方が目があるわ。大型テレビ、持って帰らんと、足代もでえへん」
 この男には、いや、くすぼりには、実利しかないのだ。
「多賀谷さんが負けると思ってるんですか?」
 秋介の問いかけに、ケイちゃんが目を剥いた。
「大将が勝つに決まっとるやないか。ただな、もしものときのことを考えとくんが、軍師というもんやで」
 そう言って、ニヤリと笑った。


 局面は、相矢倉の戦形になっていた。プロの棋戦でもよく指される、本格的な将棋である。秋介は意外だった。普段の多賀谷は、矢倉を採用することはほとんどなかった。定型にこだわらない奔放な手将棋が、多賀谷の将棋だった。
「今日の大将、なんか変やで」
 床屋が不安を口にした。この一戦が、すべてなのだ。くすぼり軍団以外、この対戦の重要さをわかっている者はいない。観衆は当然、原口が勝ち上がるものと信じている。多賀谷の実力を知る者は、いや、多賀谷のことを知っている人間さえいないのだ。
 それは、原口も同じだった。銀行マンらしい端正な顔に微笑を浮かべて、淡々と指し手を進めている。年齢は四十そこそこか。学生時代から全国の舞台で活躍している男だった。
「おもしろいですな」
 遠藤が話しかけてきた。七段の元プロ棋士として、この大会の審判長と指導対局を任されている。ケイちゃんに命じられて、床屋が強引に売り込んだのだ。くたびれた藍染めの羽織袴を着込んだ風貌は、まるで時代劇の老剣士のようだった。
「矢倉がですか?」
 秋介が尋ねた。
「ここまでの棋譜は、アマ名人戦の大阪代表予選の決勝とまったく同じです」
 遠藤が答えた。
「多賀谷さんが、相手の棋譜の研究を?」
 らしくないと思った。
「これは、多賀谷さん、いよいよその気になったかな」
 遠藤が含み笑いをした。
「以前から、表の舞台に出てみないかと、多賀谷さんに勧めていたんです。もう、真剣師が裏の世界で生きていける時代じゃない」
 その通りだった。いつも食いつめている秋介が、身に染みてわかっている。
「表の試合に出れば、そこそこの賞金が出る。アマのトップに立てば、プロ棋士との対戦のチャンスもある。今度は、プロ棋士を食えばいいんです。名前が売れれば、向こうから獲物が集まって来る」
 秋介は唖然として、遠藤の顔を見た。
「榊さんもどうですか? プロ棋士は食いでがありますよ」
 頬が紅潮して、体の芯がゾクゾクした。
(こんなちっぽけな大会じゃなくてもいいんだ。全国の舞台で、タガゲンと戦うことができたら……)
「さあ、いよいよ激突だ」
 遠藤の言葉で、秋介は盤上に視線を戻した。多賀谷が歩を突き捨てて、戦端を開いた。
「大阪予選の決勝では、原口が相手の攻めを受けきって、安全勝ちしています。原口の受けの強さは、アマではトップクラスですからね」
 腰の重たい将棋なのだろう。取りこぼしが少ないので、長年、安定した成績を上げられるのだ。
 多賀谷は、いつもの多賀谷だった。無表情、無造作に、駒を移動させる。秋介の方が興奮していた。多賀谷は、自分の力が全国に通じるかどうか、試すつもりなのだ。いや、違うと思った。全国レベルがどれほどのものか、原口の力を試すつもりなのだ。
 いつの間にか、原口の顔から笑みが消えていた。
「失礼ですが、一歩クラブの多賀谷さんですか?」
 多賀谷が鷹揚に頷くと、原口の表情がさらに強ばった。多賀谷の名前は、アマの強豪棋士の間でも噂になっていた。
 原口が長考する場面が多くなった。多賀谷の攻めは執拗で、払っても払っても、あらゆる方面から絡みついてくる。しかし、原口の受けも強力だった。多賀谷に決め手を与えない。多賀谷が根負けしたように、自陣の守備を強化した。相手に手を渡したのだ。
「あかんがな」
 床屋が嘆息のような声を上げた。原口の顔に精気が宿った。チャンス到来、これで攻守が入れ替わった。原口が攻めて、多賀谷が受ける。原口の持ち駒の桂馬が、多賀谷の角と交換になった。ひどい駒損である。しかし、多賀谷はノータイムで、盤上の角と差し違えて得た桂馬を、相手陣に打ち込んだ。
「うん?」
 原口が、怪訝そうに多賀谷の顔をにらんだ。観衆がざわめいた。金の頭にタダの桂馬を打つという鬼手(きしゅ)だった。
「お見事!」
 遠藤が小さく叫んだ。その金は、原口陣の玉頭を守る要の駒だった。桂馬を払うために前に出ると、陣形がガタガタになってしまう。かといって、その桂馬を放置すると、数の力で圧倒されてしまう。多賀谷が相手に手を渡したのは、桂馬を得るための餌だったのだ。
 原口の眉間に皺が寄った。盤上に顔を近づけて、多賀谷が打った桂馬を凝視する。そのまま動きが止まった。みるみる顔が紅潮した。やがて、血の気がスーッと引いた。小さく頷くと、上体を起こして多賀谷の顔を見た。穏やかな表情をしていた。
「負けました」
 そう言って一礼した。観衆がどよめいた。大番狂わせが起こったのだ。多賀谷だけが、平然としていた。


9

 Bブロックの代表決定戦だった。秋介の前には、モーニング姿の男が坐っている。雑賀だった。秋介について来たのだ。トーナメント表を見て突然、自分も参加したいと言い出した。秋介がダメもとで床屋に尋ねてみると、欠員がひとりいるという。床屋の口添えで、雑賀の名前がトーナメント表に書き込まれた。
「あんた、原口さんと顔見知りみたいだね」
 秋介が尋ねた。トイレの前で、雑賀と原口が談笑しているところを見かけたのだ。
「アマ名人戦で対戦したんですよ。二回戦でしたが、見事にひねられました」
「すると、あんたは県代表……」
「福井県代表です」
 秋介がやれやれとかぶりを振った。
「人が悪いな。おれを騙してたのか?」
 今度は、雑賀の方がかぶりを振った。
「酒の席では、将棋の話はしないことにしているんです。酒がまずくなる」
 そう言って、紙コップのふるまい酒をぐびりと飲んだ。
「それに、将棋は口でするもんじゃない……」
 秋介の顔を見て、不敵な笑みを浮かべた。秋介は無言で、駒を並べ始めた。了解したという意思表示だ。
「やあ、これは、強そうな助っ人が現れたな」
 そう言って雑賀が破顔した。秋介が振り返ると、鬼が立っていた。小さな赤鬼だ。しゃくり上げるように、強面(こわもて)の顔が上下している。
「どうした?」
 秋介が、セルロイドのお面を外すと、泣きはらしたケンタの顔が現れた。
「あいつに負けた」
 そう言って、泣きじゃくった。子供のトーナメントで、原口の息子のユウスケに負けたのだろう。
「誰が悪いんだ?」
 秋介が問いかけた。
「負けたのは、誰が悪いんだ?」
 さらに問いつめた。ケンタは答えない。いや、答えられない。
「おまえが弱いから負けたんだろ?」
 ケンタが悔しそうな顔をした。
「だったら、人前でメソメソするんじゃない。泣くんなら、ひとりで泣けよ」
 ケンタが泣きやんだ。涙のたまった目で、秋介の顔をにらんだ。
「おまえなんか、お父ちゃんがコテンパンにやっつけてやるからな」
 叫ぶように言って、駆けだした。秋介の手に、鬼の顔が残された。
「子供は苦手でね」
 ばつの悪そうな顔で、秋介が言い訳した。
「女も苦手ですか?」
 雑賀が尋ねた。
「どういう意味だ?」
「ハルちゃんのことです。どうするつもりですか?」
「あんたには関係ないことだ」
 吐き捨てるように言った。
「それに、おれにも関係ない……」
「あのまま放っておくつもりですか? ハルちゃん、ソープに売られてしまいますよ」
「それは、春子が自分で決めることだ。嫌なら栗田と別れればいい。おれには関係ないことだ」
 雑賀の顔が強ばった。しばらく、互いに睨み合っていた。先に口を開いたのは、雑賀だった。
「この将棋に、ハルちゃんの権利を賭けてください」
「権利?」
「質草なんでしょ? 栗田に貸している五万の。わたしが負けたら、五万円はらいます」
 そういうことかと、秋介は小さく頷いた。
「ひとつ、訊いてもいいか?」
 雑賀が頷いた。
「おれに勝ったら、春子をどうするつもりなんだ?」
 雑賀はしばらく考えていた。
「福井に連れて帰ります」
 きっぱりと宣言した。
「よし、受けよう」
 真剣が成立した。
「前もって言っておきますが、わたしは強いですよ」
 雑賀が、真面目な顔で忠告した。秋介が苦笑を浮かべた。憎めない男なのだ。
「一種の特異体質なんでしょうね。酒が入ると、頭が冴えるんです。どんどんいい手が思い浮かぶようになる。酒を飲んでいたら、原口さんにも勝っていたはずです。まさか、ああした公(おおやけ)の対局で、酒を飲みながら指すことはできませんからね」
 そう言って雑賀は、紙コップの酒をまたぐびりと飲んだ。
「将棋は、口では勝てないよ」
 秋介がぼそりと言った。対局の開始を告げる太鼓の音が響いた。


10

 局面は、終盤の難所を迎えていた。形勢はほぼ互角、一手指した方が良く見える。
「お代わり、お願いします」
 雑賀が、紙コップの酒をぐいと飲み干して、法被(はっぴ)姿の役員に催促した。観戦者たちの間から、歓声が上がった。この大酒飲みの将棋指しは、すっかり人気者になっている。
(おもしろいな。全国には、こんな男がたくさんいるのか)
 秋介の全身の血がたぎっていた。雑賀の将棋は、正統派の筋の良い将棋だった。しかも、実戦で徹底的に鍛え込まれている。どんな手を指しても、強烈に反発してくる。まるで鋼(はがね)だった。その迫力は、雑賀が酒を鯨飲するごとに増してくるようだ。
 しかし、秋介の手つきは自信に溢れている。こうした終盤のネジり合いになれば、誰にも負けない。多賀谷にも勝てると思っている。
 盤上に集中している秋介の耳に、笑い声が聞こえた。秋介が顔を上げると、赤鬼がにらんでいた。真っ赤に充血した目で、秋介の顔をにらんでいる。
(悪ふざけをしやがって……)
 秋介の脳裏に、何日か前に見た夢の光景がよぎった。賭け金が払えなくて、ナイフで腹を抉られたのだ。その相手の顔が、目の前にある鬼の顔と重なった。
(縁起でもない)
 秋介はかぶりを振って、盤上に視線を落とした。


「大丈夫か?」
 秋介が声をかけると、石段に坐っている雑賀が、真っ青な顔で頷いた。
「さすがに、飲み過ぎました」
 弱々しい声で、雑賀が答えた。トイレにこもって、三十分近くも出て来れなかったのだ。秋介を破ってBブロックの代表になったものの、次の対戦を棄権するしかなかった。それで、Aブロック代表の床屋が、不戦勝で決勝戦に進出した。しかし、その相手は多賀谷ではなかった。
『こんなあほらしい将棋、やっとれるかい。あとはあんたらで、なんとかなるやろ』
 Dブロックの代表決定戦を前にして、多賀谷が帰ってしまったのだ。懸賞のつかないぼんくら将棋に我慢できなかったのか、決勝で床屋に勝ちを譲るのがいやだったのか。多賀谷がいなくても、床屋にはくすぼり軍団の副隊長格の山崎がついている。
「本当に、春子を連れて帰るのか」
 秋介が念を押した。
「おれの嫁さんになってもらいます」
 雑賀の口調に迷いはなかった。
「春子がいやがったら?」
「土下座してお願いします」
 生真面目な顔で答えた。秋介は苦笑を浮かべた。憎めない男なのだ。
「あいつの料理は最悪だぞ」
「だったら、おれが料理をつくります」
 秋介が小さく頷いた。
「あんた、いい人だな」
 アパートの鍵を、雑賀の手のひらに落とした。そのまま立ち去ろうとする
秋介に、雑賀が声をかけた。
「おれ、ハルちゃんのこと、幸せにしますから」
 秋介は、振り返らなかった。
 石段を降りて、鳥居をくぐるときだった。法被姿の若い娘とすれ違った。その娘のたくましい素足を見たとき、雑賀に大事なことを言い忘れていたことに気づいた。
(もう、おれには関係ないことだ)
 口元の傷痕に手をやって、やさしく撫でた。決勝戦の開始を告げる太鼓の音が、夕焼けの空に響いた。

【参考サイト】
KIYO home page」の「福井県の方言」
志田村のスーパーネット局」の「方言変換道場」


Copyright(c): Fuyuhiko Aki 著作:亜木 冬彦

◆「酒呑童子」の感想

*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が文華別館に収録されています。
*榊秋介シリーズNo.1「盲目の勝負師」、No.2「子連れ狼」、No.3「観音菩薩」もお楽しみください。
*タイトルバックに「気まぐれ写真」の素材を使用させていただきました。


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