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 カブ先生こと仲里惣八が、往診に出ようとしたときだった。
「今日は、村雨菊野さんのところに行くんでしたよね。気をつけてくださいね」
 看護師の山村さんが、カブ先生の背中に声をかけた。
「大丈夫、今日は晴れてるからね」
 そう言って、カブ先生は苦笑した。舗装されていない山道で、雨が降ると土がぬ かるんで、バイクで何度か転倒しかけたことがある。
「そうじゃなくて、出るそうじゃないですか、あのお化けが……」
 しかめっ面をしたのだろうが、ふくやかな顔は笑っているようにしか見えない。天性のお多福顔なのだ。
「ああ、河出の爺さんが言っていた大男の、のっぺらぼうか」
 カブ先生が笑い出した。
「あの爺さん、白内障がかなり進行しているからな。たぶん、マスクでもしている人を見間違えたんじゃないの。あの辺りは植林された檜ばかりだから、今の時期、花粉症の人には辛いだろうからね」
「でも、声をかけたら山の中に逃げたというじゃないですか。あんなところで、知らない人間がうろついているはずありませんよ」
 確かに、村雨の家がある集落は人家も少なく、すべての住民が顔見知りだった。出入りの業者や郵便配達の人間も、ここ何年か変わっていない。それに、声をかけたら逃げ出したというのが気にかかる。
「わかりました。むじなに化かされないように気をつけます」
 カブ先生はそう言って、白髪混じりの蓬髪にヘルメットを被った。
「むじな……、ですか」
 山村さんが太い首を傾げた。小泉八雲の「怪談」で、のっぺらぼうの出てくる話は「むじな」というタイトルで収録されている。むじながのっぺらぼうに化けて、人間に悪さをしているのである。その妖怪譚は江戸が舞台で、むじなとはタヌキ のことをさしているらしい。この地方ではそんな呼び方はしないで、タヌキはタヌキと呼ぶ。それに、化かすのはもっぱらキツネの方である。
 カブ先生が、そのあだなの由来になった愛車のスーパー・カブにまたがって、キイを差し込んだ。一発でエンジンがかかった。思わず歓声を上げた。最近は点火プラグの調子が悪くて、なかなかエンジンが始動しないのだ。
「幸先がいいな。本当にむじなに会えるかもしれない」
 村雨菊野さんの往診に行くときは、いつも一人息子の尊(たける)のことを思い出す。 高校野球の名門校にスカウトされて、甲子園のマウンドに立った郷土の英雄である。その試合の前日、カブ先生のいる旅館に、尊から電話がかかってきた。第一試合なので、郷里からの応援団の一員として、前日から泊まり込んでいた。
「 先生、おれ、自信がないよ。おれのために負けたら、野球部のみんなにも、監督や部長さんにも、わざわざ応援に来てくれている地元のみんなにも、どうやって謝ったらいいかわからないよ」
 カブ先生は嘆息した。体は大きくなったが、内面はまるで変わっていないのだ。いくら励ましても、尊には逆効果 であることを、カブ先生は知っている。考えてみれば、甲子園の大観衆の前で、たった独りでマウンドに立たなければならない重圧は、想像以上のものがあるのだろう。
 尊は、幼い頃から気持の優しい子供だった。いじらしいまでに、相手の希望や期待に応えようとする。尊の高校が甲子園の選抜大会に出場することが決まったとき、山間にある過疎のこの町は、テレビのローカルニュースに取り上げられたりで、大騒ぎになった。町長が音頭をとって、公民館で大々的な激励会が開催された。壇上に立ってしっかりと挨拶する尊の姿を、心身ともに逞しく成長したのだと、カブ先生はまばゆい目で見たものだが……。
「よし、わかった。わしがとっておきの薬を調合してやるよ。それを飲めば、百人力さ。誰でも、仁王さんのような強い心を手に入れることができる」
 高校生の尊が、カブ先生のほら話をそのまま信じたかどうかは疑わしい。だがしかし、尊が試合前にカブ先生の調合した胃薬を飲んで好投したのは確かだった。前評判の高い相手投手と堂々投げ合って、0対1の惜敗だった。その敗戦を誰よりも喜んだのは、尊自身かもしれない。大きな重圧から、ようやく解放されたのだ。
 甲子園での好投が認められて、また左腕という希少価値もあって、尊は実業団の野球部に入った。公民館で大々的な壮行会が開催された。プロ野球のエースを目差してくれという町長の激励に、律儀に応答している尊の姿が、カブ先生は痛々しく思えて仕方がなかった。
 カブ先生の心配は、残念ながら杞憂に終わらなかった。実業団での尊は、さしたる活躍をすることなく、肩を壊して退部した。そして、あの事件が起こった。酒席のケンカで、傷害事件を起こしてしまったのだ。新聞記事では、元甲子園球児という経歴に、無職という肩書きが加わっていた。23歳になっていた。
 尊にとってのアルコールは、カブ先生が甲子園で調合した偽薬の替わりだったのかもしれない。その事件以降、村雨尊は帰郷することもなく、郷里では噂だけの存在になった。田舎町の噂は、残酷で容赦がない。そして、いつまでも消えることがないのだった。

 カブ先生は、5軒ばかり往診を済ませたあとで、最後に村雨の家に向かった。それだけ奥まった場所にあるのだ。あざやかな夕焼けが裏山の空を染めている。もうすぐ5月の声を聞こうという季節だが、日が傾くと風が冷たく感じられる。歩くようなスピードで、でこぼこ道をバイクで登りながら、カブ先生はジャンバーのジッパーを首元まで引き上げた。
 山道の突き当たりに、農家の古びた建物が見えてきた。茅葺き屋根を覆ったトタンが錆び付いている。巨大な重しを乗っけているようで、なんだか家の中の空気まで重苦しくなりそうだ。
 カブ先生は、いつものように玄関の引き戸を開けて中に入ろうとした。しかし、珍しく鍵がかかっている。
「菊野さーん、カブです」
 大声で何度も叫んだが、反応がない。諦めて帰ろうとしたときに、引き戸の曇りガラスに人影が映った。
「すいません、うたた寝をしてしまって……」
 右の脇に松葉杖を挟んだ菊野さんが姿を現した。リウマチを患っていて、とくに右膝が悪いのだ。
「鍵がかかっているから、留守かと思いましたよ」
「なんだか物騒な世の中になりましたからね」
「そういえば、この付近で、のっぺらぼうが出たそうじゃないですか」
 笑い話で言ったつもりが、菊野さんの表情が強ばった。
「いや、余計なことを言いました」
 独り暮らしの心細さを慮って、カブ先生は反省した。
 カブ先生は、診察の前に、仏壇の前に坐った。往診では、急患のとき以外はいつもそうしている。最初は、自分が診察していた故人や友人の仏前で焼香していたのだが、数が増えるにつれて、往診時にはまず仏壇の前に坐るのが習慣になってしまった。患者も家族も、喜んでくれるのだ。
  仏壇には、菊野さんの夫の遺影が飾られていた。セピア色に焼けた写真を見るたびに、息子の尊によく似ていると思う。とくに、やさしそうな目がそっくりだ。
(尊はいくつになったのかな)
 確か30台の後半だったはずだ。尊の父親が病没したのが30歳そこそこなので、すでに父親の年齢を超えている。そう、生きていれば……。母親の菊野さんにも尊からの連絡は一切なく、生死さえも不明だった。
 マッチを擦って、ろうそくに火をつけようとしたカブ先生の右手が止まった。何か、違和感を覚えたのだ。左右のろうそく立てに差し込まれたろうそくは、半分ほどに縮んでいる。左右ともに、同じぐらいの長さだった。
 カブ先生はかぶりを振って、右、左の順でろうそくに火をつけた。その炎で線香を焼いて、線香立ての灰の中に差し込んだ。 合掌して、菊野さんの安息を祈念した。そして、尊のことを……。
 菊野さんの診察は、いつものように居間で行った。血圧良好、心拍数正常、右膝の腫れも、小康状態を保っている。
「体調がいいようですね。じゃあ、いつものようにリウマチの薬と、痛み止めの坐薬を処方しておきます。安定剤はまだありますか?」
 不安や気持の落ち込みを和らげる精神安定剤と、不眠時の寝付きをよくする睡眠導入剤を、頓服で処方していた。
「それが先生、最近はよく眠れるんですよ」
 そう言って笑う菊野さんは血色も良く、どこか晴れ晴れとしている。
「先生、山ん爺(やまんじい)の話を覚えてますか?」
「ああ、疳の虫を取ってもらったという爺さんですよね」
 菊野さんが頷いた。菊野さんが子供だった頃、山の中に掘っ建て小屋を建てて、世捨て人のような暮らしをしている爺さんがいた。長い髭を生やして、まるで仙人のような風貌だったという。炭焼きで糧を得ていたが、お金ではなく米や野菜などの食料と物々交換していた。お金というものを信用していない、いや、毛嫌いしていたらしい。
 他国からの流れ者で、経歴はおろか名前さえもわからないので、みんなからは山ん爺と呼ばれていた。薬草などの知識が豊富で、医者にかかる余裕のない者は、山ん爺のところに相談に行っていた。実際に、山ん爺の処方する薬草はとてもよく効くという評判だった。
 山ん爺は、薬草だけではなく、様々な民間療法にも通じていて、呪術的なこともやっていたらしい。修験者の末裔(まつえい)だという噂が、まことしやかに流れていた。
 菊野さんが山ん爺に会ったのは、まだ尋常小学校に上がる前のことだった。父親の背負子(しょいこ)に乗せられて、山ん爺の小屋を訪れた。子供の頃の菊野さんは落ち着きのない子供で、手に負えないきかん坊だったそうだ。山ん爺は、大きな目でギロリと菊野さんの顔を睨んだ。体の中まで透視されるような視線だったという。
「疳の虫が仰山(ぎょうさん)おるな」
 山ん爺はそう言うと、菊野さんに両手を出すようにと命じた。山ん爺は、囲炉裏の自在鉤に吊した鍋の表面 をこすって指先に煤をつけると、菊野さんの手のひらに不思議な模様を描いた。文字だったのかもしれない。その煤の上に、塩を溶かした清めの水を振りかけた。そして、呪文を唱えながら山ん爺が菊野さんの手をしばらく揉みしだくと、何やら黒っぽい毛のようなものがニョロニョロとわき出してきた。
「これが疳の虫じゃよ」
 そう言って、山ん爺は鋭い奇声を発すると、再び清めの水を手のひらに振りかけた。不思議なことに、毛のような疳の虫は、そのまま消えてなくなった。疳の虫の消えた菊野さんは、以降は素直な子供になれたのだという。もっとも、菊野さんが我が儘を言ってぐずったりすると、また山ん爺のところに連れて行くぞと言う脅かしが効果 を上げたということもあるのだが。ちなみに、その疳の虫退治の治療費は、大きなかぼちゃが3つだった。
「あの山ん爺に、最近また会いましてね」
 菊野さんの言葉に、カブ先生がエッとばかりに菊野さんの顔を見た。菊野さんが子供の頃に爺さんだった人物が現在も生きているとしたら、いったい何歳になっているのだろう。
「みんな、夢の中のことです」
 菊野さんが笑っている。やられたと、カブ先生も苦笑を浮かべた。昔は、茶目っ気のある明るい人だったのだ。
「夢の中で、山ん爺にまた疳の虫を取ってもらったんです。たくさん出てきました」
「それで、気分がすっきりしたんですね」
 プラセボ(偽薬)効果というものがある。薬効のない偽薬を、本物だと偽って患者にのませたら、実際に効果 が現れることがある。病は気からというが、精神の影響が大きく肉体に作用する。かつて、カブ先生が甲子園のマウンドに立つ尊に渡した胃薬もプラセボである。山ん爺の疳の虫退治も、プラセボ効果 と同じようなものだろう。
「でも、今度の疳の虫は消えなくて、手の中に残っていたんです」
「夢の中の話ですよね?」
 今度は引っかからないぞと、カブ先生が尋ねた。
「それが……」
 菊野さんが右手をのばして、茶箪笥の引き出しから折り畳んだ広告の紙を取り出した。広げると、ひと掴みほどの茶色の毛のようなものが出てきた。
「疳の虫です。と言っても、死骸ですが」
「今度は消えなかったんですか?」
 いくぶん皮肉を込めて、カブ先生が尋ねた。山ん爺の疳の虫退治のからくりを、カブ先生なりに推測していた。疳の虫の正体は、塩である。濃い塩水を手のひらに振りかけて表面 を擦ると、摩擦熱や体温で水分が蒸発して、塩だけが残る。その塩と煤が混じり合い、手のひらの皺に溜まったものが捩れて、黒っぽい毛のようなものができあがる。水をかければ、塩はまた溶けてしまう。
「山ん爺が言うには、大人の疳(癇)の虫は質(たち)が悪くて丈夫なので、こうして死骸が残ってしまうんだそうです」
 真面目な顔で菊野さんが答えた。
「でも、夢の中の話なんですよね?」
 菊野さんが頷いた。
「夢から覚めたら、この疳の虫の死骸を握りしめていました」
 フームと、カブ先生は顔を近づけて、疳の虫の死骸を眺めた。
「触ってもいいですか?」
 菊野さんの許可を得てから、つまみ上げた。
「これは……」
 動物の毛の感触だった。
(むじなの毛かもしれないな)
 心の中で呟いた。

 外に出ると、辺りが薄暗くなっている。
「うん?」
 バイクに近づいたカブ先生が破顔した。バイクのシートの上に、茶虎の猫がうずくまっていた。首輪をしていないので野良猫だろうが、ふくやかな体型で毛並みもつやつやしている。カブ先生の顔を見て、甘えるようにニャーと鳴いた。人慣れしているようだ。
「さては、むじなの正体はおまえさんかい?」
 のどを撫でてやると、猫はむっくりと体を起こして、気持ちよさそうに伸びをした。そして、シートから軽々と跳び降りると、カブ先生の足に頬を擦り付けた。
「わしの処方する薬よりも、おまえさんの毛の方が霊験あらたかなようだな」
 猫の相手をしているうちに、家の前に軽のワゴン車が停まった。しばらくして、上下のトレーナー姿の女性が降りてきた。買い物で大きく膨らんだレジ袋を両手に下げている。 倉橋尚美、農協の訪問介護部門のヘルパーをしている。カブ先生の姿を認めて、彼女が頭を下げた。猫が彼女に駆け寄った。
「いつもご苦労さま。この辺は店がないから、買い物も大変だ」
 ヘルメットを被りながら、カブ先生が声をかけた。
「へっちゃらです。あたし、買い物が好きなんですよ」
 そう言って尚美が、笑顔を見せた。5年ほど前に、離婚して実家に戻って来たが、見違えるように元気になっている。
「じゃあ、菊野さんのことをよろしく」
 荷物を置いて猫を撫でている彼女に声をかけて、カブ先生はバイクにまたがった。
「それから、あいつにも伝言を頼む。一度、顔を見せに来いとね」
 彼女が、びっくりしたような顔で振り向いた。カブ先生は、左手を大きく振って、ボールを投げる動作をした。彼女は一瞬、怯えたような表情を浮かべたが、すぐに微笑を浮かべて頷いた。カブ先生の気持が伝わったのだ。カブ先生がバイクをスタートさせた。
 ひょっとしたら、と思ったのは、仏壇のろうそくを見たときだ。右利きの菊野さんがろうそくに火をつけるときに、いつも右側から点火する。ほんの僅かな時間だが、右側のろうそくの方が左側よりも長く燃えているわけで、それを繰り返すうちに、右側のろうそくの方が短くなってくる。しかし、今日のろうそくは同じ長さだった。ということは、左利きの者がろうそくに火をつけている……。
 菊野さんの精神状態が良好なのも、一人息子が帰って来たからだろう。菊野さんは、薬を断る口実に、山ん爺の話を持ち出したのだ。疳の虫の死骸うんぬ んは、いかにも茶目っ気のある菊野さんらしい演出だった。
 しかし、カブ先生が尊の存在を確信したのは、倉橋尚美の顔を見たときだ。尚美は、尊の一級下で、中学校のときの野球部のマネージャーだった。尚美の笑顔は輝いていた。とても幸せそうな顔をしていた。それに、あの買い物の量 は、独り暮らしの菊野さんには多すぎる。
(マスクなんかつけてこそこそする必要はないんだ。おまえは今でも、郷土の英雄なんだからな)
 窪みにタイヤがとられて、カブ先生が悲鳴を上げた。 


Copyright(c): Fuyuhiko Aki 著作:亜木 冬彦

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