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「あなたは、ルコと寝ましたか?」
 男の表情が一瞬で凍り付き、とても長い時間をかけて、溶けた。


 もう、5年ぐらいになるだろうか。本を読むときには、小さな手帳を傍らに用意するようになった。気に入った台詞や、さすがだなあと感嘆する文章に出会ったときは、その手帳にそっくり書き写 す。文章修行のつもりだったが、さらに有り体に白状すれば、パクってやろうという気持も少々。そのまま使えば盗作だが、自分流にうまくアレンジできれば財産になる。
 しかし……、いや、やっぱりというべきか、あとで手帳を読み返すことはほとんどなかった。今回の企画は、その手帳の再利用と、わたしが感銘を受けた作品の紹介にある。私見かもしれないが、文章の上達法は「書くこと」と「読むこと」に尽きるのではないか。その一方の軸である読書に、この企画が少しでも役立つことを願っている。読者の嗜好が多様化していることを承知で、断言しよう。ここで取り上げる作品は、最高に“面 白い”作品ばかりだ。
 前置きはこれぐらいにして、記念すべき第1回に取り上げる作家は、本多孝好氏。『MISSING』というタイトルの短編集を昨年、上梓した。本多さんにとっては、初めての単行本になる。1971年生まれというから、まだ20代だ。デビューが1994年で、『眠りの海』で第16回小説推理新人賞を受賞している。それから、年に短編をひとつというじっくりしたペースで、作品を発表している。
 受賞作である『眠りの海』を読んだ時は、その重厚な作風に好感を抱きながらも、まだまだ青いという印象を受けた。ホラー的な要素のある作品だけに、書き手の作為が鼻についてしまったのかもしれない。しかし、二作目の『祈灯』で驚かされた。瞠目したと言ってもいい。文章の質が明らかに違っている。例えれば、上等な蒸留酒のような味わいだろうか。人物や構成も、その人格や背景がよく熟成されている。『祈灯』には、幽霊ちゃんとあだ名されている少女が登場する。わたしは、『眠りの海』に出てくる本物の幽霊よりも、この人間の幽霊ちゃんの方がはるかに怖い。
 三作目の『蝉の証』、推理小説としては、この作品が一番よくできている。会話から溢れてくる上質のユーモアが、スウィンギィなジャズを聞いているように心地好い。こんな短編を書いてみたかったんだよな、そんな羨望さえ覚えてしまう。それは、作者が“素”の部分で勝負しているからだ。特異な世界を扱っているわけではないし、大がかりな仕掛けを用意しているわけでもない。日常的な材料を使っているだけに、料理人の腕前が誇示されている。
 そして、四作目の『瑠璃』。サスペンスの枠を飛び越えて、これはもう青春小説だ。「僕」と四歳年上のいとこの「ルコ」の関係を、檸檬の切り口さながらに、瑞々しく描いている。せっかくだから、ストーリーを少し紹介しておこうか。瑠璃色の目をしたルコは、高校を中退して、自由気ままに生きている。どうして学校をやめたの? 僕の問いかけに、飼っていた犬が死んだからとルコは答える。飼い犬の死で、人生が限られていることを悟ったのだという。
「私はもっと主体的に生きてみたかったわけ」
 そんなルコも、やがて妻子のある男と恋愛をして、結婚、そして離婚……。こうして書いていると、凶悪事件が多発している現在においては、平板な物語でしかない。しかし、とても面 白いのだ。実際に読んで、細部に満ちている鮮烈なエスプリを味わってもらうしかないだろう。
 さて、冒頭に掲げた文章が出てくるのは、最後の方だ。僕の元に、見知らぬ 男が訪ねてくる。男は、ルコの手紙を言付かっていた。役目を果たして立ち去ろうとする男を、僕は呼び止めた。

「失礼な質問だと思われたら、答えなくても結構です」
 男は首を傾げた。
「あなたは、ルコと寝ましたか?」
 男の表情が一瞬で凍り付き、とても長い時間をかけて、溶けた。


 唐突な問いかけが、ピタリとハマっている。男は、「とても長い時間をかけて」、ルコとの想い出を振り返ったのだ。同時に、読者もまた、ルコの人生を振り返る。無免許運転で車をボコボコにして、ダース・ベーダーのせいにするルコ。学校のプールに忍び込んで、下着姿で泳ぐルコ。僕の姉の結婚式があった日、泣きはらした目で、「私と寝たい?」ときいたルコ……。心憎いまでのタイミングではないか。
 こうして、発表された年代順に作品を読んでいると、作者の飛躍を目の当たりにしているようで、ワクワクしてくる。推敲に推敲を重ねて、とことん磨き上げたという真摯な姿勢が伝わってくるからだ。次は、どんな作品を読ませてもらえるのだろう。それだけに、五作目の『彼の棲む場所』は、いささか残念。書き手の疲弊のようなものを感じてしまったのは、わたしの杞憂(きゆう)だろうか。

Copyright(c): Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋

◆「名文美術館」の感想

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