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(前略)普通の人は結果から考えるからな。勝てば官軍負ければ賊軍だ。だが実は、結果というやつは、単なる結果というだけのことなんだ。問題はプロセス。プロセスをきちっと管理して、いつどんな場合でもセオリーにのっとった動きをする。今日のお前の状況なら、本職のばくち打ちなら三流どころの奴だって、本能的に、最低十万は手が動くよ。それがフォームだ。ばくち打ちはそのフォームを身につけるために骨身をけずるんだ
「でも、それで、はずれることもあるね」
「ある。そこがばくちさ。さっき競艇場でいったろう。何をすれば当るという保証はない。だが、セオリーを身につけないかぎり、通算打率が悪くなる。ばくちは、強い者が勝つとは限らないが、しかし、通算して、弱い者は絶対に勝てない。


 あらためて作者の紹介をする必要もないだろう。真田広之主演で映画化された「麻雀放浪記」の原作者である。名前の由来も、徹夜麻雀からだと聞いている。朝だ、徹夜だ、をもじったのだ。生前は雀聖として、あの落ち武者のような迫力ある風貌でマスコミにもよく顔を出していた。
 ギャンブル小説の大家、阿佐田哲也が色川武大(いろかわたけひろ)という別の顔を持っていたことは、一般にはあまり知られていない。しかし、本名の色川武大の方が、作家としては表看板なのである。四つの短編を集めた「離婚」で、直木賞を受賞している。色川武大の作品は私小説の系譜にあって、純文学の色合いが強いのだが、軽妙な語り口で重いテーマを含蓄ある諧謔でくるんでしまう。
 わたしは、阿佐田哲也、色川武大ともに、熱心な読者の一人である。その文章の印象を一言で表現するならば“したたか”。どんな題材でも、面白い読み物に仕立ててしまう。話芸にも通じる独特の間合いと当意即妙な語り口に、読者はたちまち魅入られてしまうのだ。ギャンブラーに例えるならば、攻めも守りも強い、変幻自在の打ち手だろうか。活字慣れした偏屈な読者さえいいように翻弄されて、最後には身ぐるみ剥がされてしまう。しかし、それが至福の快感なのである。
 掛け値なしに、文章の達人だと断言できる。それは、文学修行で得た技術や知識などではなくて、数々の修羅場をくぐり抜けてきた“技”や生き延びるための“知恵”がベースになっているように思える。これは多分に、作者の小説のイメージに影響されているのかもしれないが……。
 さて、今回とり上げた「新麻雀放浪記」は、「麻雀放浪記」の主人公、坊や哲のその後を描いたものである。その出だしから、業師の本領を発揮している。

 夢のように年月がたってしまって、私も四十歳になっていた。夢のように、というのは、バラ色だったという意味じゃない。なんだかんだと揉んでいるうちに結局は埃っぽく小忙しく、なしくずしに日が過ぎてしまって、気がついてみたら夢の跡のように何も残らず、もう盛りがすぎていたということだ。

 仲間内で「坊や」と呼ばれていた若きばくち打ちも、腹が出っ張って頭が禿げ上がった中年男になってしまった。「麻雀放浪記」の坊や哲ファンには、かなり抵抗のある設定かもしれない。実は、わたしは「新麻雀放浪記」の方を先に読んだので、そのまま素直に小説の世界に入り込むことができた。しかし、十数年ぶりに再読してみると、「麻雀放浪記」のイメージが強烈で、いささか違和感を覚えてしまう。
 とにかく、坊や哲がよくしゃべるのだ。警察の留置所で知り合った学生(ヒヨッ子)に、ギャンブルのノウハウを指南する。ヒヨッ子は坊や哲を師匠と呼んで慕うのだが、この師匠、蘊蓄ばかり多くて結果が伴わない。ヒヨッ子の強運に乗っかって、かろうじてしのいでいるといった塩梅だ。
 人格破綻者のドサ建に代表されるように、「麻雀放浪記」は勝負の非情な世界を描いている。「新麻雀放浪記」の中年になった坊や哲は、とても優しい……、優し過ぎるのだ。時代の違いもあるだろう。終戦後のギラギラした世情は、もはや過去の時代になってしまった。
 物語としては、「麻雀放浪記」の方が緊迫感があって断然おもしろい。しかし、どちらが好きかと尋ねられると、わたしは躊躇なく「新麻雀放浪記」の方を選ぶ。最初に読んだ当時のわたしが、ヒヨッ子の年齢に近かったからだろうか。師匠の坊や哲の言葉を、まるで人生哲学のように受け入れていた。冒頭に掲げた一文も、その一つだ。結果よりもセオリー、言葉で書くと薄っぺらいが、鉄火場をくぐり抜けてきた男(坊や哲=作者)が語ると、ズンとくる重みで胸に響いてくる。
 少々長くなるが、他にもいくつか紹介しておこうか。

「全勝はできないのか」
「普通はできない。それは理想だ。一生を通じて、災いに会わない者は居ないよ。そのかわり、全敗もない」

「さっきからいってるだろう。五分五分そこそこが本来だと」
「勝てるということは、原点になることか」
「そうだよ。負けるというのも、本来は、原点になることのはずだ。勝ち進んで、ふっと県境を越してしまうと、今度はまるでバランスをとるように、ツキが離れてしまう。息を吸ったり、吐いたり、だな」
「なんだ、原点なのかね」
「原点でいいじゃないか。それが生きるということだ。また、生きていくために、人は誰でも、しのいでいかなくてはならないから、ばくちをやろうとやるまいと、ツイたりツカなかったりしているんだ。(後略)

(前略)ところが原点というやつが、ひととおりじゃなくて、千差万別、人間の数ほど種類があるんだ。若い頃は俺もな、物事は勝ちと負けがあると思っていたんだが、だんだんそれの実態が見えてくる。勝ちといったって、無限に近く形があるんだよ。早い話が、トップをとって勝ちだと思う奴も居る。べつの奴は、充分楽しめたからこれでいいと満足している。不ツキのわりに負けなかったなと喜んでいる奴も居る」
「そんなことないよ。勝たないで、何が嬉しいものか」
「客観的にいってもだ。その夜のことが原因で身体をこわす奴だっている。まァいろいろだよ。今の俺の実感でいえば、お前にエラーをさせたくない。人生は所詮、いいとこ原点だが、それ以下の人生はたくさんあるからな」

「強いとか弱いとか、お前たちはいってるが、それは予選の考え方なんだ。ヒヨッ子同士なら、まァ強い弱いもあるだろうね。だがそうやって準々決勝、準決勝と進んでいくうちに、弱い奴なんか居なくなる。強いというのは特徴じゃない。かりにあるとすれば、現在のおねいちゃんのように、初日からたまたま勝ち放しの奴だ。だがこれは、どこまでも連勝はできない。これに勝のは、すぐにでなければ、そうむずかしくない。いつかは勝てる」

「勝負なしかね」
「ああ。正確にいうと、負ける奴は居るが、勝つ奴が居ねえんだ。木刀を持って、ただにらみあってるんだ。いつまでも。それで、バランスを崩した方が負けさ。何が尺度になるかというと、時間だよ。時間稼ぎだ。そのうち、時間切れで、おのおの、トータルが出てしまう。刻一刻の状態でいえば残る奴は居るんだが、トータルの成績を比較すると、自分も相手も似たり寄ったりなんだ」


 ばくちのことを語っているが、卓抜した人生論になっている。この本を読んでから十数年、わたしはすでに坊や哲の年齢を越えてしまっている。今回、再読してみて、「人生は所詮、いいとこ原点」という坊や哲の言葉に、わたしは全面的に賛同する。その通りだと思う、いや実感する。喜びも哀しみも、楽しみも苦しみも、長い目で見ればプラスマイナスゼロに帰する──。
 そう考えたとき、この本を初めて読んだときの興奮がよみがえった。あのときわたしは、この人(坊や哲)の言っていることは真実なのだと直感した。もちろん、作者の巧妙な語り口に、手もなく丸め込まれてしまったきらいはある。たぶん、それが本線だ。しかし、わたしは、若造だった頃の自分の直感を、少し誇らしい気持で思い返している。

Copyright(c): Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋

◆「名文美術館」の感想

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