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 誰にも、救ってもらえない。
 優希はクスに訴えかけた。
 わたしは、誰からも、救ってもらえない。
 救ってくれる人は、どこにもいない……。
「いるよ」
 そっと背後から聞こえた。
 弱々しい、涙まじりの、いまにも消え入りそうな声だった。
「ここに、いるよ」
 もうひとりの声もした。
 肩にぬくもりを感じた。
 耳もとに、泣いている息づかいがあった。
 両側から肩を抱かれ、クスの幹に置いた手の上に、それぞれの手のひらが重ねられた。
 優希の喉から叫び声が洩れた。どうしようもなかった。大きく声が溢れ、叫ぶようにして泣いた。

 一昨年にベストセラーになった話題作だ。幼児虐待という重いテーマを、真っ正面から描いている。野球で例えるならば、うなりを上げる豪速球。これだけ球威のあるボールを投げられる作家は、そうはいない。受け止める側も、しっかりと構えていないと最後まで読み切れない。
 物語は、過去と現在が交互に進行する構成になっている。小学校6年生の久坂優希は、愛媛県内にある総合病院の児童神経科に入院する。そこでモウルとジラフに出会う。児童神経科は「動物園」と蔑称され、患者はそれぞれの症状にちなんだ動物のあだ名がつけられていた。モウルはモグラの英語名で、ジラフはキリン、そのあだ名の裏には、過酷な幼児体験がひそんでいる。優希はルフィンと呼ばれるようになる。イルカのドルフィンからとったものだ。
 それから1年後の春、3人は恒例の退院記念の登山に参加する。西日本一の霊峰で、頂上に登れば「神に清められ自分たちは救われる」と優希は頑なに信じていた。そして、事件は起きた……。優希の父親が滑落死したのだ。事件は、事故として処理された。
 “現在”は、その17年後が舞台だ。優希は神奈川県川崎市の病院で、看護婦として働いている。モウルは弁護士、ジラフは刑事になっていた。3人は、それぞれの複雑な思いを胸に、再会を果たす。しかし、それが呼び水となったように、殺人事件が発生する。容疑者は優希の弟の聡志だった。聡志を擁護するモウルと、聡志を追うジラフは激しく対立する。聡志は、17年前の父親の死に疑惑を抱き、真相を探っていた。優希の心の奥深くに封印していた闇が、平穏な日々を蝕んで行く……。

 冒頭に掲げた一文は、優希が児童神経科に入院していたときのものだ。優希は嵐の日に病棟を抜け出して、森の中に入る。優希を探しに来たモウルとジラフと共に、クスの大木の根本にある大きなウロで一夜を過ごす。やがて、3人は、互いのひどい幼児体験を告白する。風雨に身をさらして、絶望の思いを吐露する優希に、モウルとジラフが寄り添う。幼い魂が触れあう一瞬を、けれんみのない正攻法で瑞々しく描いている。

 カーテンの内側から、妙な音が聞こえてきた。
 食いしばった歯の間から洩れてくる、苦しげな息づかいのようだった。ベッドのシーツをかきむしってでもいるのか、布のこすれる音も聞こえる。
 カーテンにさえぎられているのもかかわらず、傷ついたいきものが、必死に痛みに耐えている姿が、ジラフとモウルには見える気がした。
 苦痛を自分の内側に抑え込もうと努めている、彼女の想いが、カーテンの揺れと重なって、波のように、ふたりの心に寄せてくる。

 これは、優希がまだジラフやモウルに心を開く前の場面だ。彼女の悲しみが、苦痛が、ぐいぐいと波のように読者の心に寄せてくる。作者は一貫して、こうした直裁で真摯な描写で、登場人物の一人ひとりを丹念に描いている。その背景や言い分がしっかりと書き込まれているので、圧倒的なリアリティを持たせることに成功している。しかし……。
 この小説は推理小説である。そのことを前提として、この物語は成立している。それを充分に理解していながら、どうしても心のどこかで思ってしまう。サスペンスにしてしまったのが残念だと。謎解きの部分は、よく練られていてさすがだとは思うのだが、当然ながら作意を感じてしまう。豪速球を見せられてきただけに、最後の謎解きの部分が変化球に見えてしまうのだ。換言すれば、それだけ作者の構築した空間が、リアルで迫力があったということだろう。

 今、この書評を書いていると、二ヶ月ほど前に読了したときとは印象がかなり変化していることに気づく。幼児虐待がテーマだけに、読後感は重苦しいものだった。結末も決して明るくはない。だが、今は、爽快感にも似た思いを抱いている。それは、この小説が「生きること」に否定的ではないからだろう。根っこの部分で、人間の生命力を肯定している、いや、信じている。
 「永遠の仔」は、心の闇を描いた小説だ。その深い闇のカーテンが時間とともに薄れてくると、確かに存在する希望の光が、輝きを増して見えてくる。

Copyright(c): Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋

◆「名文美術館」の感想

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