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「い、いえ――わたし、そう思いましたものでございますから……。あんなことを仰言いましたので、もう、わたしが、お世話を申し上げては、いけないのではないかと」
 そう云うや、朝路は、栗鼠(りす)のような素迅い身ごなしで、主馬之介のわきをすりぬけると、台所へとんで行ってしまった。
 ――奇妙な娘だ。
 ほめられたならば、よろこぶべきなのに、叱りつけられたよりも、もっと強い打撃にして、心を傷めた――その感情の動きを、主馬之介は、この上もなく哀れなものに思わずにはいられなかった。
 ――あの娘は、本当に、今日まで、たった一度も、ほめられたことがなかったのだ!


 今回は新年号ということで、本欄では初めての時代小説。柴錬(しばれん)こと柴田錬三郎の風貌は、わたしが中学、高校に通っていた頃に、テレビ番組にちょくちょく顔を出していたのでよく覚えている。白髪交じりの蓬髪(ほうはつ)に、渋い和服をいつも着込んでいた。まさに、剣豪小説の大家の雰囲気をただよわせていた。当時のわたしは、映画の「眠狂四郎シリーズ」の原作者として、氏のことを知っているに過ぎなかった。ご存じ、市川雷蔵の当たり役である。しかし、眠狂四郎の原作を読んだことさえなかった。
 余談だが、テレビで市川雷蔵の眠狂四郎を見るたびに、わたしは幼い頃に次兄に言われたことを思い出す。「おまえの本当の父親は、遭難して日本に流れ着いた宣教師なんだぞ」。わたしの生来の淡い栗毛をからかったのだろうが、わたしはしばらく、そのことを信じていた。思い悩む思慮もない幼い頃のことで、ただ事実として受け入れていただけだ。いつの間にか、そうしたやりとりがあったことさえ忘れていた。そして、テレビで眠狂四郎の映画を見て、次兄の言葉が鮮明に脳裏によみがえったのである。確認はしていないが、次兄のたわいのない冗談も、出所は眠狂四郎の映画にあったのだろう。
 わたしが柴錬の剣豪小説を読み始めたのは、大学を卒業する頃からだと思う。それこそ、耽溺するように読み漁った。小説の真の面白さを、柴錬によって開眼させられたと言ってもいいだろう。その端緒となったのが、この「美男城」なのである。20年以上も前に購入した文庫本を書棚から取り出してみると、あちこち染みが浮き出して、かつての“美男”も相当にくたびれている……。
 あらためて言うまでもないが、柴錬の剣豪モノの魅力は、主人公の美剣士の造形にある。いささかステレオタイプのきらいはあるが、憂愁の面影を秘めたストイックな剣の達人に、男でもしびれてしまうのだ。
「美男城」にも、御堂主馬之介(みどうしゅめのすけ)が登場する。舞台は戦国時代、関ヶ原の戦いの後日談だ。主馬之介は徳川方の侍大将として小隊を率い、縦横無尽の活躍で大功をたてる。漆黒の甲冑(かっちゅう)、母衣(ほろ)をまとった主馬之介の英姿は、大阪方にとってはまさに死神であった。しかし、合戦の後、牢人として一人、累々たる屍の野をさまよう主馬之介の姿があった。
 関ヶ原の戦いは、揖斐郡日坂(いびごおりひさか)の城主、伊能盛政の裏切りによって、形成が逆転した――。石田三成の策略で、大阪方1万2千の精鋭が徳川軍の背後を突くべく、美濃の間道を潜行していた。それを阻んだのが、豊臣恩顧の豪族であり光成とも親交が深かった伊能盛政なのである。伊能盛政は報償として美濃一国を要求、刎頸(ふんけい)の友である光成を裏切った卑劣な行為は、徳川方の兵士からも唾棄された。
 御堂主馬之介の秘められた素性は、この伊能盛政の嫡男であった。幼い頃から父親を憎悪していた主馬之介は、城主の後継の座を捨てて出奔、名を変えて一介の牢人として生きてきたのである。徳川方に参戦した理由も、父親への復讐の想いがあったからだ。
 自分の父親の破廉恥な寝返りを知った主馬之介は、侍として生きることに虚しさをおぼえ、勲功と栄達の道を捨てて、再び野に下ったのだ。懊悩した主馬之介は、父を斬って自らの生命も断つ覚悟で、故郷の揖斐郡日坂を目差す――。
 今、20年ぶりに再読してみると、歳月の隔たりを感じないわけにはいかない。そして、自分が年を取ったのだとつくづく実感する。面の皮が厚くなってしまった今の感性では、物語のロマンに浸ることができないのだ。本には、出会うべき年齢や時期がある。あの頃に柴錬の剣豪小説に出会えたのは、とても幸運だったと思う。

 さて、冒頭に掲げた一文は、朝路という下婢(はしため)と主馬之介のやりとり。伊能盛政は、その卑劣な行為の代償として、配下の者にも見放されて非業の死を遂げる。焼け落ちて廃墟となった城跡を一人で守っていたのが、下婢の朝路なのである。

「お前は、この世の中で、いちばん心のきれいな娘だ。……行って、ぐっすり、やすみなさい」

 献身的に身の回りの世話をしてくれる朝路に、主馬之介はそう声をかけてやる。その言葉に、朝路は強い衝撃を受ける。あれは本当のことではないのだと、主馬之介の言葉の真意をあれこれ思い悩んでいるうちに、夜が明けてしまった。
 猟師の娘だった朝路は、父親が熊に殺されて、7歳のときに城内に引き取られた。炊事、洗濯、掃除にこきつかわれて、誰一人からもやさしい言葉をかけてもらえずに育ったのである。 野生児のような朝路の純真な心音が、情感たっぷりに描かれている。
 男にとって、朝路は理想の女性である、と書けば、世の女性たちの顰蹙(ひんしゅく)を買うだろうか。少なくとも、わたしの女性観は、柴錬作品の影響をかなり受けているようだ。
 文庫本の巻末の解説文によると、「美男城」は中村(萬屋)錦之助主演で映画化されているという。その映画を観ていないので勝手なことは言えないが、正直、錦之助は御堂主馬之介のイメージではない。それにしても、朝路は誰が演じたのか、わたしはとても気になっている。

Copyright(c): Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋

◆「名文美術館」の感想

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