●T-Timeファイル ●バックナンバー ●表紙に戻る


言葉に詰まって彼が黙ると、私は、誰の人生でも当人にとっては興味深いのだ、悲劇その他を含めて、と思った。誰にも人に告げたい話がある――問題は、それを読みたいと思う人が少ないこと、読むために金を払う気持ちになる人はさらに少ない点だ。
 わたしがディック・フランシスを読み始めたのは、6年ほど前からに過ぎない。名前だけは知っていた。英国の元競馬騎手による本格競馬サスペンス。たまに目にする書評は、その面 白さを絶賛していた。でも、競馬だろ? という思いが心の底にあって、読んでみようという気にはなれなかった。
 麻雀や将棋など、勝負事は嫌いではないのだが、自分でプレイしない賭け事は、どうも体質に合っていないようだ。子供の頃から“幸運”というものに懐疑的で、「どうせ当たるわけがない」と諦めている。たとえ当たったとしても、「こんなことで、自分の乏しい運気を無駄遣いしていいのだろうか」と考えてしまうような性格なのだ。こんなシニカルな人間に、賭け事を愉しめるわけがない。
 私事に話がそれてしまった。フランシスの競馬シリーズで、最初に読んだのは「利腕」だった。「アメリカ探偵作家クラブ最優秀長編賞」という肩書きに惹かれたのだ。「大穴」で活躍した義手の調査員、シッド・ハレーが再登場する。いや、面白かった。競馬界の内側にいた人の書いた小説だけに、その重厚な迫力に圧倒された。競馬うんうんを抜きにしても、小説として、そしてサスペンスとして、一級品に仕上がっている。それで、一気に「競馬シリーズ」に没入……、ではなかった。
 わたしは、読んだ本のタイトルと日付を記録するようにしているのだが、その手帳によると、再びフランシスの本を手にするまで一年半近くのブランクがある。「黄金」そして「興奮」と続けて読んだ。これで完全にはまってしまった。とくに「興奮」を読んだときの興奮は、今でも鮮明に残っている。最初から最後まで、一気に読了してしまった。以来、一カ月ほどの間に6冊読んでいる。そのからまたしばらくのブランクがあるのは、近所の図書館が所蔵している「競馬シリーズ」を読み尽くしてしまったからだ。
 隣町の図書館をあちこち回って、フランシス本を漁った。多いときには、一カ月に10冊も読んでいる。その魅力に、どっぷり頭まで浸かってしまった。これだけ熱中したのは、柴田錬三郎以来だろうか。思うに、柴錬の剣豪モノとフランシスの「競馬シリーズ」には共通点がある。主人公のストイックな性格だ。一流の騎手だったフランシスの描く主人公は、清廉潔白なナイトの精神を宿している。
 柴錬の描く美剣士と同様に、悪くいえばステレオタイプ。登場する主人公の設定や名前は違っていても、読者のイメージする人物像に大きな差異はない。たとえば、競馬シリーズを映像化するとして、同じ俳優が扮装を変えるだけで、ほとんどの作品に主演できるのではないか。悪口を言っているのではない。それだけ読者は安心感を持って、物語に没頭することができるのだ。
 ここまで書いて、最初に「利腕」を読んだあとで、しばらくブランクがあった理由に思い当たった。シッド・ハレーは、「競馬シリーズ」の中では異色のキャラクターだ。隻腕ということが、彼の精神に暗い影を落としている。それだけより人間臭く、物語的にも陰影が深まっているのだが、わたしの憧れるヒーロー像とは微妙にずれている……。これはむろん、個人的な嗜好に過ぎない。
 さて、今回、ディック・フランシスを取り上げるに当たって、どの作品を選ぶかでは大いに迷った。本命ならば……、いや、大穴だったら……、競馬を比喩に使うとややこしくなる。「本命」も「大穴」も、「競馬シリーズ」の代表作なのだ。ここは小穴狙いで、書評で取り上げられることが少ない「標的」を押しておこうか。主人公の設定が興味深い。元サバイバルのプロで、新進の作家なのだ。
 フランシスはマンネリを嫌って、毎回、主人公の設定には趣向を凝らしている。画家、カメラマン、ワイン商、俳優、映画監督、会計士等々。徹底的なリサーチと巧みな舞台設定で、競馬の世界とミックス、極上のカクテルに仕上げてしまう。その中でも「標的」は、円熟した技の冴えを存分に発揮している。70歳を目前にしたフランシスの筆は、老練ではあるが老けてはいない。
 冒頭に掲げた一文は、主人公のジョン・ケンドルが、自伝の出版を希望する調教師に対して抱く感慨だ。この短文で、作家という職業の困難さをすべて表現してしまっている。これは技巧ではなく、作者の人間性から滲みだしてくる言葉だ。フランシスは、人生の達人でもあるのだと思う。
 作品の内容に触れるスペースがなくなってしまった。でも、それでいいのだ。ディック・フランシスの作品は、すべてが面白いのだから。現在、早川書房から出版されている「競馬シリーズ」は、ハードカバー本を含めて38作品。すでに引退を表明しているフランシスの新作を読めるのは、未訳の「shatterd」(原題)を残すだけになってしまった。やがて、漢字二文字のタイトルを冠せられて、菊池光さんの訳文で出版されるはずである。
 その本を手にする日を、わたしはとても恐れている。「競馬シリーズ」はこれで最後なのだ。その読後の寂寥感を癒してくれる作家に、これから出会うことができるだろうか? わたしの答えは、甚(はなは)だ懐疑的なのである。

Copyright(c): Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋

◆「名文美術館」の感想

●バックナンバー ●表紙に戻る