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 佑介は、本当にいい人だ、と登美子は思う。一度、佑介を誘惑したことがある。でもその時、佑介は、「オレらって、そういう関係にならない方がいいんでないか?(中略)そういうんでなくて、今みたいに、ちょっとした縁で知り合って、時たま電話して、励まし合う、みたいな関係って、あってもいいべや」と言った。
 それを聞いて、登美子は嬉しかった。もしかすると、佑介は、自分のことを真剣に考えてくれているのかも、と思ったのだ。
 心のどこかで、私の顔が可愛くないから、佑介にさえ、実は相手にされていないのだ、と思ってもいる。だが、登美子は、それに気付かないように、忘れたことにして、生きている。

 いやはや、怪作である。
 
冒頭に掲げた一文は、登美子という看護婦の独白。苦学して看護婦になったのだが、ブランド品を買うためにサラ金に手を出し、勤務の合間にファッションヘルスで働いている。佑介は、そのヘルスの雇われ店長だ。そんな男にも相手にされない女の悲哀が、しみじみと伝わってくる。
 この登美子の独白部分には、5ページが費やされている。その生い立ちから現在の状況まで、詳しく書き込まれている。それだけ登美子が物語の中で重要な役割を担っている……、いやいや、ただ単に、主人公に不利な告げ口をするだけなのだ。“普通”であれば、ほんの2、3行で事足りる役なのだ。
 同じく告げ口役にすぎない林田則子には、4ページが割かれている。冷え切った夫との関係が、グチグチと書き込まれている。それだけこの物語が遠大で、細部の描写までリアルなのか……、いやいや、ストーリーは単純そのもの。北海道を舞台に、元ヤクザの凄腕の殺し屋が、昔の自分のオンナだった女性の子供を守るために、強大な闇社会の組織や腐敗した警察グループと対決する。
 似たような設定の小説や映画を、いくつも思い浮かべることができる。荒唐無稽だが、フィクションの世界では“普通”の物語だ。普通ではないのはその描写である。状況の設定はそれなりに説明されているのだが、肝腎の主人公の内面がほとんど描かれていないのだ。守るべき子供は、何も血を分けているのではない。どうして昔のオンナの家庭をそれほどまでにして守りたいのか、まったく説明されていない。その常軌を逸した行動が、淡々と記述されているだけなのである。
 途中まで読んで、これは確信犯なのだということに気付いた。大筋はできるだけ説明を省いて大胆に描く。そのかわりに、本筋とはあまり関係ない部分を丹念に、そしてリアルに描写する。顕著な例は、持谷という偽名で登場する人物だ。主人公をサポートする重要な役なのだが、最後まで名無しの権兵衛で押し通している。本名を隠すことに何らかの意味があれば納得もするのだが、別段、ストーリーに関係してくるわけでもない。ただし、便利屋稼業で天の邪鬼なそのキャラクターには、名無しの権兵衛がうまくはまってはいるのだが……。
 正直、読んでいてイライラする箇所が何度かあった。大通りを歩いていたはずなのに、いつの間にか小さな路地に迷い込んでウロウロしている。名前にも悩まされた。高田、小林、松尾、松岡等々、名字だけの特徴のない名前が多用されている。しかも、けっこう重い役なのだ。もし、この小説が映像化されたとしたら、いずれも相当なクラスの役者が起用されるはずである。
 しかし、この名前では印象に残らない。途中で突然、高田や小林の名前を出されても、はて、誰だったかなと首を傾げてしまう。しばらく読み進めて、ようやくその人物設定を思い出すといった塩梅だ。こうした迷彩は(おそらく)作為的なものなので、登場人物の一覧表も省いている。
 読後の印象は芳(かんば)しくなかった。実験的な試みは評価できるものの、さほど成果を上げているとは思えなかった。とても「名文美術館」には使えないと判断した。それが、一週間後には心変わりしていた。
 絵画に例えるとわかりやすいだろうか。間近で見ると、ごちゃごちゃしていてよくわからないが、少し距離をおいて全体を眺めてみると、まったく違った印象で目に迫ってくる。この作者は、多視点という特性を使って、多くの人生を一枚の絵の中にちりばめたのだ。その上に、大胆な筆使いでざっくりと、荒唐無稽な物語を描いて見せた。その骨太の線が、様々な人生の陰影を背景にして、力強さや輝きを増して見えてくる──。
 東直己は、ハードボイルド小説の名手である。「探偵はバーにいる」以降、一人称のノスタルジックなスタイルにこだわってきた。少なくとも、わたしが読んだ作品はそうだった。それが一転して、この作品では多視点を採用している。ならば徹底的に、多視点を活用してやろうと考えたのではないか。
 いやはや、快作である。

Copyright(c): Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋

◆「名文美術館」の感想

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