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笑っていないときにも、その笑い声が男の身体にまとわりついているように見える。ちょうど、鐘が鳴りやんだあとに、まだその余韻が残っているときのように。だから、笑い声がまだ彼の目のなかにも、微笑にも、歩く姿にも、話す言葉のなかにも残っている。

「カッコーの巣の上で」という題名に出会ったのは、東京の西部にある八王子市の映画館だった。わたしの通 っていた大学が八王子にあって、わたしも大学のそばのアパートに住んでいた。三年生のときだったと記憶している。
 本当は、違う映画を観る予定だった。何軒かの映画館が集合しているビルで、窓口を間違えてしまったのだ。お目当ては、同じアメリカ製でも、成人指定のハードコア。二十歳を越えたばかりの頃で、頭の中は異性への興味で満杯だった。土曜日の夜になると、隣室の同級生と連れだって、日活ロマンポルノを観に行った。オールナイト三本立て興業、千円也。いつも吉野屋の牛丼を食べて帰宅するのがコースだった。原悦子の時代、と書けば、頷いてくれる人もいるだろう。
 わびしかった学生時代のことを強調しているのではない。映画館を間違えて入ってしまったときの状況を、理解してもらいたいだけなのだ。例えるなら、腹を空かせて食堂に入ったつもりが、美術館に入ってしまった……。それが、空腹のことなどすっかり忘れて、作品に見入っている。それだけ、ミロス・フォアマン監督の映画が、圧倒的なオーラを放っていたということだ。今でもわたしの中では、「カッコーの巣の上で」が、ベスト・ワンの映画として君臨している。ちなみに、そのときはロードショーではなくて、イザベル・アジャーニ主演の「アデルの恋の物語」が併映されていた。なんとも豪華な二本立てだが、「アデル……」の方はほとんど記憶に残っていない。
 ケン・キージーの原作を読んだのは、今年に入ってからのことだ。図書館の書棚を眺めていて、懐かしい名前に出会った。正直、借りるかどうか躊躇した。映画との出会いから、二十年以上の歳月が流れている。原作を読んでしまうと、青春時代の神聖な感慨に水を差されるのではないか。しかし、杞憂に終わった。映画に劣らず、やはり原作もすばらしい。
 名文として掲げた一節は、主人公であるマックマーフィが、精神病院の新患として登場する場面 の描写である。マックマーフィは、収監されている刑務所から出るために、精神錯乱を装って、精神病院に逃れてきたのだ。

 男はそこに立って、わたしたちを見やり、ブーツ姿のその身体を後ろにそらし、笑い、そしてまた笑う。(……中略……)患者も、医局員も、病棟にいた者はみんな、この男と、その笑いにすっかり度肝を抜かれて茫然としている。(……中略……)ひとしきり区切りがつくまで彼は笑い、そして、ディルームへと入ってくる。笑っていないときにも、その笑い声が男の身体にまとわりついているように見える。ちょうど、鐘が鳴りやんだあとに、まだその余韻が残っているときのように。だから、笑い声がまだ彼の目のなかにも、微笑にも、歩く姿にも、話す言葉のなかにも残っている。

 したたかで、陽気で、男気のあるアウトローの姿が、目の前に浮かんでくるようではないか。しばらく読んでいて、映画でマックマーフィ役を演じたジャック・ニコルソンの姿が、脳裏から完全に消えていることに気づいた。この原作に書かれているマックマーフィのイメージは、ジャック・ニコルソンではない。それが、少しも不快ではないのだ。あの映画の強烈なイメージを凌駕するだけの力を、この原作の人物描写 は有している。
 ケン・キージーについて、少しだけふれておこうか。この作品の訳者である岩元巌さんの解説によると、ケン・キージーがこの小説を書き上げたのは1961年、26歳のときだった。若くして大成功を治めるが、それでどこか調子が狂ってしまったのだろうか。ヒッピーのコミューンを作ったり、麻薬所持で何度か逮捕されている。マックマーフィと同じアウトローになってしまったのである。作品も、これといったものは発表していない。
 キージーの懊悩が、なんだかわかるような気がする。「カッコーの巣の上で」のような作品を書き上げたあとで、いったい何を書けばいいのだ。処女作のあまりに巨大な壁が、キージーの才能を押しつぶしてしまったのではないか。それでも、ケン・キージーの名前は、「カッコーの巣の上で」と共に歴史に残る。それだけの作品だと、わたしは思う。

Copyright(c): Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋

◆「名文美術館」の感想

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