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川はくさかった。広場はくさかった。教会はくさかった。宮殿もまた橋の下と同様に悪臭を放っていた。百姓とひとしく神父もくさい。親方の妻も徒弟に劣らずにおっていた。貴族は誰ともいわずくさかった。王もまたくさかった。悪臭の点では王と盗人と、さして区別 はつかなかった。王妃もまた垢まみれの老女に劣らずくさかった。
 これは、匂いの物語だ。空前絶後とはこの小説のことをいうのだろうか。匂いをテーマにした作品は他にもあるだろうが、これほど徹底的に描き切ったものは皆無。そして、今後も現れないだろうとわたしは確信している。これだけの巨大な“匂いの金字塔”を前にしては戦意喪失、挑戦する気力も失せてしまう。
 まずは、冒頭に掲げた文章の迫力を味わってほしい、いや、嗅いでほしい。何やら鼻先に、汗くさい体臭がぷんぷんただよってくるようではないか。しかし、安心してほしい。匂いには悪臭もあれば、芳(かぐわ)しい匂いもある。今度は極上の芳香を、作者の筆にて思う存分、嗅いでいただこうか。

 娘の肩の汗、油くさい髪、性器からにおい立つ魚の匂い。途方もなく快い匂いだった。娘の汗は海風のように初々しく、髪の生えぎわはクルミ油の匂いと似ていた。性器の辺りは百合の花束。肌は杏子(あんず)の花の香りがした……これらすべての要素を組み合わせたとき、ようやくこんなにも豊かな、こんなにもバランスのいい、摩訶不思議な芳香が生じる。これまで彼が香水として嗅いできて、ひそかに匂いの貯蔵部屋でつくり出したつもりになっていたもの、そのすべてが突如として無意味きわまるものに下落した。何百、何千の匂いといっても、この一つの香りと較べれば何ものでもない。

 物語の設定を簡単に説明しておこうか。舞台は18世紀のフランス、ジャン=バティスト・グルヌイユはパリのフェール街で生を受けた。歓迎されての誕生ではなかった。母親は今まで私生児を4人、産み落とすとすぐに殺して捨てていた。グルヌイユも同じ運命をたどるはずが、泣き声でその存在が発覚、母親は過去の嬰児殺しの罪で首を刎(は)ねられる。この母親の描写がまたすごい。この短い文章だけで、彼女の置かれた環境や世相までが体感できる。
 
母親はまだ若かった。二十五になったばかり。まだまだ見ばえがいい。歯だって結構そろっている。髪もふさふさしている。痛風もちで性病を患い、目まいの発作がなくもないが、どれも大したことはない。もっと長生きできる。もう五年か、あるいは十年。ことによると結婚して、ちゃんとした子を産むことだってできるかもしれない。
 
 グルヌイユは修道院の費用で、私設の託児所を経営している乳母に育てられることになった。グルヌイユは生まれつき、特異な体質を持っていた。体臭というものがまったくないのだ。そのせいで、グルヌイユは周囲から疎(うと)んじられて、嫌悪されることになる。そのかわりに、神はすばらしい才能を彼に与えた。天才的な嗅覚である。グルヌイユは、言葉を覚えるよりも早く、嗅覚によって周りの世界を完全に了解していた。

 匂いで嗅ぎとった世界のゆたかさと、ことばの哀れむべき貧弱さ。そのおそろしいかけ違いを前にして、グルヌイユはことばの方を疑わないではいられなかった。他人との交わりでどうしても必要なとき、彼はしぶしぶそれを用いるだけだった。
 
 8歳のときにグルヌイユは、修道院からの養育費が途絶えたために、皮なめし職人の徒弟として売られる。そこの奴隷のような生活を生き抜いたグルヌイユは、ようやく自由な時間を手に入れる。グルヌイユの前に、巨大な匂いの王国の門が開いたのである。グルヌイユはパリの街中を、匂いを求めて彷徨した。
 
いつも初めて立ち入ったかのように鼻が働く。ムッとする匂いの堆積を嗅いだだけではない。その匂いのことをことこまかに嗅ぎ分けた。彼の鋭敏の鼻は太い匂いの束を、いちいち糸にときほぐした。もうそれ以上ほぐしようのない細い糸にまで選り分ける。その糸を綯(な)ったり、ほぐしたりするのは、とてつもない喜びというものだった。

 グルヌイユが魅惑された究極の場所、それは匂いのデパートである香水屋だった。とくにバルディーニの店には、香水のあらゆる原材料が貯蔵されている。なめし皮を届けるためにバルディーニの店を訪れたグルヌイユは、ここが自分の居場所であると確信する。そして、嗅覚だけを頼りに、その場で最高級の香水を調合してみせる。天才的な調香師が誕生した瞬間だった──。
 まだ物語の半ばだが、この辺りでやめておこうか。この小説には、「ある人殺しの物語」という副題がついている。匂いと殺人がどう結びつくかは、読んでからのお楽しみ。娯楽小説としても、一級品のおもしろさだ。1985年にドイツで発刊されると、たちまちベストセラーになったのも頷ける。
 それにしても、今回は引用文が多くなってしまった。それだけ作者の表現力に圧倒されたということだろう。文章は目で読むものだ。そして、匂いは鼻で嗅ぐものだ。その匂いを、視覚でしか伝わらない文章で表現するのだから、卓越した技量が要求される。今回、十数年の時を経て再読、そして確信した。パトリック・ジュースキントは天才である。この異色作は、必ずや後生にも愛でられる古典となるだろう。
 最後に、匂いに対するグルヌイユの、いや、作者の“主張”を載せておこうか。わたしはこの一文で、すっかりオルグ(洗脳)されてしまった。ちなみにわたしは、犬年生まれなのです。
 
グルヌイユは知っていた。人間は目なら閉じられる。耳だってふさげる。美しいメロディや、耳ざわりな音に応じて、両耳を開け閉めできる。だが、匂いばかりは逃げられない。それというのも、匂いは呼吸の兄弟であるからだ。人はすべて臭気とともにやってくる。生きているかぎり、拒むことができない。匂いそのものが人の只中へと入っていく。胸に問いかけて即決で好悪を決める。嫌悪と欲情、愛と憎悪を即座に決めさせる。匂いを支配する者は、人の心を支配する。

Copyright(c): Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋

◆「名文美術館」の感想

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