不成功に終わる人というのは、自己に無意識のうちに自信喪失させるような暗示をかけている。おれはもうダメだとか、終わりだとか、始終ボヤいたりして、自分を奈落の底に落ちこませるような自己暗示をね。 逆に、伸びる人というのは、いつも自分を向上させるような暗示をかけてますよ。 ここに、わたしゃ分かれ道があると思う。自信をつけるのと奈落の底へ落ちるように仕向けてるのとでは、これ、天地の差がありますよ。 (中略)頭の出来ぐあいなんというのは、人間、そう違ったものがあるわけじゃない。いくらいいからって、脳ミソが人の倍も三倍もあるわけじゃなし……。その、ちょっとしたことだと思いますよ。 今回は小説ではなく、自伝的な手記である。広島の郷土訛りもそのままに、口語体で書かれている。まるで、座談の名手のそばで、おもしろい話でも聞かせてもらっているような愉しさがある。随所に人生全般に対する提言がちりばめられているのだが、経験から生み出された“実践的な哲学”だけに、少しも説教くさくないのだ。機知に富んだ比喩やユーモラスな例え話がまた楽しい。 著者の升田幸三について、簡単に説明しておこうか。戦後の将棋界を代表する名棋士で、棋界の最高位である名人をはじめ、数多くのタイトルを獲得している。「新手一生」を呼号して、既成の常識を覆す新定跡を数多く創出。直情径行の信念の人で、「陣屋事件」に代表される数々のエピソードを残している。1991年、心不全のため永眠。 今回は、いっさいの解説をはさまない。いや、はさめない。じっくりと、人生の達人の名言を味わっていただきたいと思っている。 将棋というのは、勝負ではあるけれども、やはり娯楽であり、遊びのものです。とすれば、楽しみのあるものにしなければいけない。 ぼくは、いくら名文を書いたといっても、読んでツヤのない文、楽しみのない文を書いてもしかたがないと思う。文章のことはよくわかりませんが、読んでいてそういう気がする。 一時期、ぼくは、神の前に出てもひるまない、そういう将棋を追求した時代があるんだが、突きすすめたものは、そこにきびしさがあり、鋭さがあっても、ならべてみると、なにか楽しいものがあるもんですよ。 文章でいえば、なるほど書いている人は血へどが出るほど苦しんで書いている。が、出来あがったものに、その苦しみだけしか出ていない作品は、もひとつってものじゃありませんか。 いのちがけで書いたが、そのいのちがけのなかに遊べるという境地に達したとき、読む人にもまた楽しさが伝わる、そういうのがホンモノだろうと思います。 ◆ 将棋自体の若いとき、過程として、どの構えなら誰が相手にきてもい大丈夫、といったような専門をひとつ、克服しておくことが必要ですね。どれもこれもひと通り知ってるというだけでは、天下はとれない。 ◆ イチかバチかのやけっぱちみたいなことをやるのを勝負師という人があるが、これは大間違いです。そういうのは勝負師とはいわない、賭博師という。賭博師でも下のほうで、カモかお客のたぐいだろうな、あれ。競輪や競馬へ行っても、いつもすってばかりいるアホウですよ。家を狂わすやつだ。 ◆ 一心になれる人というのは、自分の人生を完成しますな。世にいう成功者の秘訣というのは、これなんじゃないかと思う。 ◆ 将棋でもそうそうですが、いざというときに力を発揮できる人というのは、だいたい決断力のある人ですね。ない人は、重心が高すぎるというのか、調子が浮いていて、どうも萎縮してしまうきらいがあるようです。 Copyright(c): Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋 |