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おそらく湿性植物だろう、短い草がいちめんにびっしり生えていて、その窪地のまんなかには、透きとおった水をたたえた沼がひっそりとしずもっている。その沼のほとりに、これはなんの花だろうか、直径が一メートルにもおよぶ、肉の厚い、毒々しく赤い色をした、五つの花弁をもつ奇怪な花がらんらんと咲き誇っている。こんな巨大な花があろうとは信じられぬ ほどの大きさである。しかも、おかしなことに、その花には見たかぎり葉もなければ茎もなく、地上ににょっぽりと花だけが顔を出したようなおもむきで、尋常の植物とはあまりにもかけはなれた構造を示していた。すなわち花だけで生きている植物。それでも花は沼の水に映えて、ときに血のような色に照りかがやいて見えたほど、少なくとも生きているという証拠だけは人間の目にありありと見せていた。

 今回は、日本幻想文学の至宝、「高丘親王航海記」。澁澤龍彦の遺作となった作品である。まず最初に、この物語のベースになっている史実を簡単に紹介しておこうか。
 高丘親王は平城天皇の第三皇子で、嵯峨帝の皇太子に立たせられていたが、「薬子の乱」の政変で廃太子となる。その後、落飾して仏門に帰依した親王は、真言密教の導師である空海に弟子入りして仏道修行に励み、上人の高弟に名を連ねる。そして、西暦875年、日本暦では貞観7年、唐土(もろこし)に渡っていた高丘親王は、広州から天竺を目指して出立する。ときに親王は67歳、その後の消息はわかっていない。
 本書の物語は、高丘親王がふたりの弟子を従えて広州から船出する場面から始まっている。この弟子を従えて天竺を目指すという設定、どこかで聞いたことはないだろうか? そう、中国四大奇書のひとつ、「西遊記」だ。玄奘三蔵が、孫悟空、猪八戒、沙悟浄の三人(?)の弟子を連れて、はるか天竺を目指す。高丘親王の場合はやはり日本的で、渡天に随行するふたりの僧侶、安展と円覚は、さながら水戸黄門の助さん格さんのような役回りを担っている。
 史実からスタートした物語だが、そのあとは、古今東西博覧強記の蘊蓄を駆使して、玄妙な澁澤ワールドが展開する。「西遊記」とおなじく、妖怪変化の類が次々と登場してくるのである。
 人語を解する謎の海物「需良」(じゅごん)。真臘国(カンボジャ)の後宮に幽閉され、国王の愛玩のために改良された単孔の女「陳家蘭」。夢を食べる獏(ばく)が飼育されている盤盤国の「獏園」。好色淫靡の風習で、女性が犬と交わって誕生したアラカン国の「犬頭人」。鏡のような水面に顔がうつらなければ、その人は一年以内に死ぬという南詔国の「鏡湖」等々。
 そして、スリィジャヤ国に咲く、巨大な人食い花がある。巻頭に載せた一文は、親王一行がこの花を初めて目にしたときの情景である。この人食い花は、たちまち人間の汁を吸い取ってミイラにしてしまうという。スリィジャヤ国では、この悪魔の花を使って、代々の王妃の肉身像をつくっている……。この小説がどんな物語なのか、もうわかっていただけただろうか。

 さて、本書が澁澤龍彦の遺作であることはすでに書いた。本の帯には「死の予感に満ちた遺作」と記されている。この作品は、ただ単に伝奇ファンタジーとして読んでも十二分に楽しめる。しかし、遺作ということを意識して読んだならば、作者の辞世の言葉がみえてくる。

そしてつらつら考えてみると、自分の一生はどうやら、このなにかを求めて足をうごかしていることの連続のような気がしないでもなかった。どこまで行ったら終わるのか。なにを見つけたら最後の満足をうるのか。しかしそう思いながらも、その一方では、自分の求めているもの、さがしているものはすべて、あらかじめ分っているような気がするのも事実であった。なにが見つかっても、少しもおどろきはしなかろうという気持ちが自分にはあった。ああ、やっぱりそうだったのか。すべてはこの一言の中に吸収されてしまいそうな予感がした。

 そして、いつの間にか、高丘親王と作者は一体になっている。いや、両者はこの物語で多用されている*アンチポデスの関係というべきか。高丘親王は、もうひとりの澁澤龍彦なのである。大きな真珠を呑みこんだ親王は、それが喉にくっついて腫れ物になってしまい、自分の死期をさとる。これはそのまま、喉の悪性腫瘍で苦しんでいた作者の姿と重なってくる。
 それにしても、だ。この物語の、この文章の軽(かろ)やかさはどうだろう。夢の中でふわふわと浮遊しているようなここちよさではないか。死の暗さは微塵もない。生の、いや、現世の首枷(かせ)から開放されるという喜びがあるばかりだ。
 しかし、天の邪鬼で猜疑心の強いわたしは、本当にそうだったのかと、つい考えてしまう。文章を書くのは面倒で労力のいる作業だ。病魔に蝕まれた体で、本当に楽しんで書けたのだろうか? そのときわたしの脳裏に、澁澤龍彦のある言葉が浮かんだ。
 
〈いずれにせよ、生活の手段としての労働、いやいやながらする労働は、人間性を疎外するだけなので、わたしたちとしては、どうすれば「労働」をできるだけ「遊び」に近づけることができるか、という問題に真剣に取り組まないわけにはいかないのです。〉「快楽主義の哲学」より

 作者は自らの信条を、最後まで貫いたのではないか。澁澤流ダンディズムの昇華、と書けば、俗に過ぎるだろうか。

*アンチポデス:我々の世界の反対側にある世界。昔のヨーロッパ人は、そこには奇妙な生物が暮らしていると信じていた。

Copyright(c): Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋

◆「名文美術館」の感想

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