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飲みこんだとたん、わたしの脳は狂ったように混乱した。わたしは、頭蓋骨の中が実際にひっかきまわされるように感じ、沸き返るような音が耳を満たした。わたしは、口の中の味にものどを満たす香りにも気づかなかった。彼のするどい灰色の目がわたしの目を焼きつくように見つめているのだけが見えた。薬を飲んだことで生じた心の混乱や頭の中の騒動動揺は、はてしなくつづくように思われた。

 H・G・ウェルズ、SF小説の草創期の巨人である。「タイムマシン」「透明人間」「モロー博士の島」等々、映像化された名作も数多い。科学者としても一家を成したウェルズは、その専門知識を空想の広野に解き放って、現在のSF小説の基盤を築いた。
 しかし、今回、取り上げる「故エルヴシャム氏の物語」は、この本を編纂した出版社には申し訳ないが、SFというよりも、怪奇小説の範疇に入るのではないか。SFという分野を開拓したウェルズは、そうしたジャンル分けが確立されていない時代の作家だったわけで、こうした怪奇小説の短編も数多く残している。
 この作品を初めて読んだのは、わたしが中学生のときだった。確か、イギリスの怪奇小説を集めたアンソロジーの中の一編だったと記憶している。読後の印象は“パーフェクト”、予想外の展開に大いに驚かされたのだが、読み終わってみるとこれ以外の結末はあり得ない。いや、そう信じ込ませるだけの圧倒的な説得力を、この物語は有している。
 今回、30年のときを経て再読しても、その印象はまったく変わらなかった。まさに不朽、あくまで私見であるが、これだけ完璧なストーリーの物語をわたしは他に知らない。そこで、ちょっとしたゲームをしてみたいと思う。文芸サイトをぶらついていると、ときたま犯人当てクイズに遭遇することがある。自作の推理小説を途中まで掲載して、読者に犯人を予想してもらうという遊びである。
 ここでみなさんに予想してほしいのは、この物語の結末である。もちろん、既読の方はすでに結末を知っているわけで、今回はどうかご容赦願いたい。
 では、物語の舞台設定を説明しようか。エドワード・ジョージ・イーデンはロンドン大学の医学生である。幼くして両親を亡くし、おじに養子として引き取られた。そのおじも四年前に死亡、彼の遺産と奨学金でかろうじて医大に通っている。住居は下宿先の小さな二階部屋で、家具もみすぼらしく、隙間風が吹き通るありさまだった。
 その貧乏学生のイーデンに、願ってもみない幸運が訪れる。見知らぬ老人が、自分の遺産をすべて相続してほしいと申し出たのだ。ただし、ひとつだけ条件がつけられていた。健康状態を調べさせてくれという。イーデンはその条件を承諾、老人の指示に従って、徹底した肉体の検査を受ける。
 その検査結果に、老人は大いに満足した。そして、はじめて自分の身分を明らかにした。驚いたことに、その老人は、世界的に有名な哲学者だった。イーデンは遺産と共に、その大哲学者の名前までも受け継ぐことになる。死期が近いことを悟った老哲学者は、自分のすべてを若くて頑健な医学生に譲渡することにしたのだ。
 その祝いの席で、老人はポケットから小さな紙包みを取り出して、その中のピンクがかった粉をキュンメル酒のグラスに入れた。
「これがなんだかは、きみの想像にまかせよう。だが、キュンメル酒は──この粉をちょっぴり入れると──天国(ひんめる)になる」
 そして、二人は乾杯する。冒頭の一文は、イーデンが謎の粉末の入ったキュンメル酒を飲みほしたあとの描写である。
 ここまでで、この小説の三分の一ぐらいだろうか。このあとの結末を想像して、あるいは創造していただきたい。老人の本当の目的はいったい何だったのか? 小説のタイトルが重要なヒントになるはずである。ちょっと難しいかな。もう一つだけ、ヒントをあげようか。
 
 気がつくと、それまでまったく見たことのない景色を窓から眺めていた。夜空は雲におおわれ、たたみかさなった綿毛雲をすかして、夜あけのかすかな薄あかりがさしていた。地平線すれすれのところで、雲の天蓋のへりの一部が、血のように赤くなっていた。下界では、すべてのものが暗くてはっきりせず、遠くには山々がかすみ、ぼんやりひとかたまりになった家々から尖塔がそびえ立ち、木々はインクをこぼしたようで、窓の下方には、黒い茂みや灰白色の小道が、格子模様をなしていた。

 これは、老人と祝杯を上げた翌日、イーデンが目覚めたときの描写である。果たして、この見知らぬ部屋は何処なのか?
 答えは、自分でこの小説を読んで確認してほしい。もし、あなたの予想が当たっていれば、大いに誇る価値がある。あなたのストーリーセンスは、相当なレベルにあるはずだ。ちなみに、最後に小粋などんでん返しが用意されていて、この短編をさらに味わい深いものにしている。そのどんでん返しさえも洞察できていたとしたら、あなたの文学センスは世界的な文豪レベル……、かもしれない。

 最後に、訳文について触れておこうか。ウェルズの短編は、日本でも何度も取り上げられて、異なる出版社で独自のアンソロジーが組まれている。そのため、同じ作品でも翻訳者が違うケースも多い。今回は、「創元推理文庫」から刊行された「ウェルズSF傑作集=2」の阿部知二さんの訳文を使用させていただいた。

<書籍データ:東京創元社発行、図書コード ISBN4-488-60704-7>

Copyright(c): Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋

◆「名文美術館」の感想

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