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 この頃は、実藤は人生の時間は一定の速さで流れる川のようなものではなく、伸び縮みする粘液的なものではないか、という気がする。驚くほど濃密な部分と、無意味に間延びした部分が、繰り返しやってきては去っていく。そんな伸び縮みする時間のベルトの上を息を切らせて走っていく自分の姿が見える。交互にやってくる密度の違う時間を走りぬけ、行きつくところは死という名の永遠の闇だ。
 家を建てるのも、業績というやつを残すのも、そんな斑(まだら)な時間の帯にとりあえず、自分の足跡を残そうとしているのではないか。雄鹿が縄張りに小便をかけて歩くのと大差はないが、とりあえずその瞬間、自分はもっとも緊迫感に満ちた濃密な時間の上に立っている。

  篠田節子は、「女たちのジハード」で1997年の第117回直木賞を受賞した。テレビのニュースでそのことを知ったとき、わたしは内心、頷いた。そして、ちょっぴり自信を回復した。
 自分には、世の中の嗜好を感じ取る能力が欠けているのではないか、そんな不安を覚えていた。その根拠は明白である。出版界で高い評価を得て、ベストセラーになっている小説を読んでも、そんなにおもしろいとは思えないのだ。自分の感性は、世の中とはずれてしまっている、そう判断するしかなかった。
 いちおう、流行作家を目指していた身にしてみれば、これは重大な欠陥である。料理人が、お客さんの一般的な嗜好を理解できないようなものだ。これでは、どんな料理をつくったらいいのか、味付けはどうしたらいいのか、途方に暮れてしまう。
 篠田節子は、わたしの一押しの作家だった。同人仲間や読書好きの友人から「何か、おもしろい本、ある?」と訊かれるたびに、篠田節子の名前を上げていた。安心して推薦できる作家だった。わたしが読んだ限り、失望した作品は一つもなかった。「どうしてこの人が直木賞を取れないんだろう?」、そんな直裁な疑問をよく口にしていたものだ。その疑問が、5年ほど前にようやく氷解した。おれの味覚もさほど狂っていたわけじゃないんだなと、わたしは心の中で頷いた。
 篠田節子との出会いは、今回取り上げた「聖域」、その衝撃は強烈だった。冒頭に掲げた一文を読んでいただけたら、「聖域」のテーマがすぐにわかる。「人は何故、生き、死んでゆくのか?」、そうした哲学的な命題に真っ向から挑んでいる。しかも、あくまでエンターテイメントとしてのおもしろさを全面に押し出したままなのだ。こうして書いていても、無謀な試みだと思えてしまう。しかし、最後はいくらかギクシャクしてしまったきらいはあるが、ちゃんと成立してしまっている。こんな小説は、今まで読んだことはなかった……。
 物語の設定をおおまかに説明しておこうか。山稜出版の実藤(さねとう)は、報道と解説を中心としたビジュアル誌から文芸誌「山稜」の編集部に異動してきた。出版部数の低下で赤字が累積する山稜は、月刊から季刊に変更され、編集部の人員も削減されていた。
 実藤は、退社した前任者の篠原の私物を整理していて、「聖域」と題された長編原稿を発見する。それは、比叡山から東北の地に派遣された慈明という僧の物語だった。壮大なスケールの重層的な物語に、実藤は魅了される。しかし、結末部分が欠けていた。実藤はすぐに、篠原に連絡をとった。

「僕は、山稜に掲載できなくとも、単行本にして出したいんですよ。売れるかどうかは、わかりません。しかし確実な評価を得るでしょう。中央集権国家の蝦夷征討にともなって送りこまれる僧の、波乱に満ちた半生、稲作文化と狩猟文化、聖と俗、民俗宗教と組織化された宗教、いくつもの対立を内包しながら、物語が進んでいってます。完成すれば、東北を舞台にした壮大な叙事詩ができるんじゃないでしょうか」

 これは、篠原を前にして自分の思い入れを語った実藤の言葉だ。後述になってしまったが、慈明の「聖域」の原稿も、作品中にかなりの分量を割いて紹介されている。その作中作である「聖域」は、まさしく実藤の言葉通りの出来映えで、ややこしい表現で申し訳ないが、読者はまず慈明の「聖域」に魅了される。つまり、「聖域」の幻の作家である水名川泉の行方を追って奔走する実藤に、読者は自然と感情移入できる、いや、させられる仕組みになっている。心憎い演出ではないか。
 そんな実藤に、篠原は冷淡だった。そんな原稿は焼き捨てろ、水名川泉の名前も忘れろと忠告する。実藤は諦めない。水名川泉の痕跡を徹底的に洗い出した。それで明らかになったのは、水名川泉という作家に関わった人間は、精神に深い闇を抱えて懊悩しながら生きているということだった。はたして、水名川泉とは何者なのか?
 淡い恋心を抱いていた女性ライターの事故死や編集者としてのトラブルで、自分の人生に疑問を覚えた実藤は、「聖域」に対する思いをさらに募らせる。「聖域」の主人公である慈明に自らの姿を重ねて、人の生の意味を繰り返し自問する。果たして実藤は、水名川泉を探し出して、「聖域」を完成させることができるのか? 結論を書くのは評文のルール違反だ。その代わりに、実藤の内面を描写した箇所をいくつか紹介しておこうか。
 
 しかし今、実藤は、魂はあってほしいと痛切に願っている。天国だろうと西方十万億土でもいい。肉体を抜けた魂が帰っていく場所がほしい。それが科学的事実である必要などない。生きていく上の単なる取り決めでいいのだ。そういう事にしておいてくれたら、どれほど安らいだ気持ちで暮らせるだろうか。

 死の後に、残るものなど何もない。先だっていった愛するものも、そして自分自身も……山に登っていくこともなければ、十万億土の彼方にも行きはしない。無くなるのだ。無くなるというのが当てはまらなければ、分子段階まで分解されるまでだ。そして短い間、生を共有した者に残されるのは、ソフトウェアとしての記憶だけだ。
 当たり前のことだ。だれしも認める事実だが、しかし心の底では否定しながら生きていく。三途(さんず)の川を想定し、やがてあの世に旅立つ自分の姿をどこかで信じながら、数十年の生を全うする。足元に口を開けている深い真空の闇、そんなものを突き付けられて、平然と生きていかれる者がいるはずがない。

 戻ってどうするのだ、自分に尋ねた。
 原稿を読み、目と神経にカンナをかけるようにして校正し、書かない作家の尻を叩き、偉い先生の猥談につきあい、飯を食い、排泄し、ローンを払い、セックスをし、子供を作り……。


「聖域」を書いたあとで、篠田節子はまったく同じテーマで二つの長編を書いている。山本周五郎賞を受賞した「ゴサインタン」と、ヒマラヤの小王国を舞台にした「弥勒」。舞台が一段とスケールアップしている。
 わたしには、峨峨たる山を懸命に登攀している作者の姿が見えるようだ。その山は霊峰として畏敬され、タブー視されてきた。その急峻な岩山を、作者は宗教家という装具を身につけることなく、フリークライミングで挑もうとしている。頂上までたどりつけるのか。いや、決して頂上にはたどりつけない、いや、たどりついてはいけないのだということがわかっていても、登るのかもしれない。
 作家の業、などと書けば、安直すぎるか。本当の作家とは、かくあるべきなのだと深く思う。最後に、山本周五郎賞を受賞したときの作者の言葉を紹介して、本稿の締めとしよう。

小説は魔物だ。構想の段階では「私のもの」だが、書き始めれば生命が宿り、勝手に成長し、暴走する。評価もジャンルも関係なく、小説の概念さえ踏み壊し、隙あらば「大説」に成長しようとする。「私」は、この手に負えない魔物に隷属させられる者で、賞をいただいてもこの主従関係は変わらない。力つきるまで、何匹もの魔物の卵を産み落とし、育てるだけだ。彼らが読者の心に夢を力をもたらしてくれることを祈りながら。』(「小説新潮」1997年7月号)

<書籍データ:講談社発行、図書コード ISBN4-06-207000-6>

Copyright(c): Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋

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