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 空をみあげると、きれいにすみわたっていました。ひとつの雲もありません。ぼくらの家族も、あの空のように、すみきっていたら、どんなに、すばらしいことでしょう。すみきった、あの空にも悲しみがあるのでしょうか。スンナは、いま、どこに、いるのでしょう。どこかで、死んでいたとしても、やはり、この青空の下なのでしょうか。

 今でこそわたしは立派な活字ジャンキーだが、子供の頃、読書に熱中したという記憶はあまりない。いわゆる“文学少年”ではなかった。本が好きになったのいつからだろうと思い返してみると、高校生になってからのような気がする。相当な晩生(おくて)だったのだ。
 アニメやスポ根ドラマに熱中していたテレビっ子のわたしに、活字の魅力を教えてくれた本が二つある。ひとつは太宰治の「人間失格」、次兄の本棚にあった文庫本をこっそり読んで、たちまち“罹患(りかん)”した。こんな人間の恥部まで描いても許されるのだと、文学の凄まじさに震撼した。宣伝になってしまうが、太宰の「人間失格」への思い入れは、自作の「月光の雫」にすべて書いたつもりだ。
 熟れた大年増の妖艶な魔力が「人間失格」ならば、今回、取り上げた「ユンボキの日記」は、清純無垢な少女の魅力だろうか。この本も、次兄の本棚から失敬して読んだ。いっさいの脚色がないどん底の生活のルポルタージュに、わたしは心底、感動した。
 当時のユンボキの置かれた状況を簡単に説明しておこうか。韓国の大邸(テグ)明徳国民学校4年の李潤福(イー・ユンボク)は、10歳の少年だ。みんなからはユンボキという愛称で呼ばれている。長男であるユンボキの下には、8歳の妹スンナ、6歳の弟ユンシギ、5歳の妹テスニがいる。病気で働けない父親にかわって、ユンボキが街角でチューインガムを売ることで、一家の生計を支えている。儒教の教えの強い韓国では、兄弟のなかでも長男は特別な存在だった。

 南山洞(ナムサンドン)から、南の山の下のいまの家へひっこしてきてから、もうひと月たちました。おかねがないので、へや代がはらえなくって、おいだされてここへきたのですが、このバラック小屋は、もとはヤギ小屋だったので、へや代はいらないのです。それで、おかねの心配はありません。
 ぼくは、ねそべったままで、じっと考えてみました。ぼくたちがこんなにくろうするのは、おかあさんがでていってしまったからだと思います。
 ぼくは、南山洞からおいだされたことを考えると、ただもう、おとうさんがにくなります。また。おかあさんのことが、どれくらいうらめしいかわかりません。いま、ぼくたちの生活は、犬やねことまったくおんなじです。
 でも、ぼくは、おかあさんが一日もはやく帰ってきてくれたらと、どれほど思いこがれているかわかりません。


 父親は腕の立つ木工職人で、一時は自前の工場を持って従業員を雇っていたが、無理な作業で腰を痛めてから暮らしは荒廃した。酒癖が悪く暴力をふるう夫に耐えきれなくて、母親は家を出てしまった。ユンボキが6歳、末っ子のテスニはまだ乳飲み子の1歳を過ぎたばかりの頃だった。

 目がさめてみると、そとはぱあっと明るくなっています。ごはんをめぐんでもらいにいかなければと思いながら、へやのすみにおいてあるあきカンをみました。どうして、あのあきカンをみるのがこんなにいやなのでしょう。
 ぼくは、ぱっとたちあがって、ふみつけてやりたいと思いました。しかし、あのあきカンをみるのはいやだけど、なければごはんをもらえないのです。そばでは、弟たちがまだねていました。おとうさんは、もうどっかへでかけたのか、みせませんでした。
 ぼくは、あきカンをもってそとにでて、大明(テミヨン)国民学校のある方へおもらいをしにいきました。

 先生が、希望園につれていかれるから、もう、ガム売りにいってはいけませんよ、とおっしゃいました。そとは、雨がふっています。ぼくは、なんべんかためらったけれども、しかたがないので、ガムをもってまちにでかけました。雨にぬれて歩きながら、ぼくは、どうして、先生のおっしゃることもきかないで、ガムを売ってまわらないといけないのか。こんなことをして、また、市庁や、希望園の職員につかまったらたいへんだ、と思いまがらも、ガムを売ってまわるしか、しようがありません。(中略)食べものさえたくさんあって、勉強さえできれば、どんなにうれしいか、と一日になんべんも、こんなことを考えています。


 希望園は、補導した少年少女たちの矯正施設なのだろう。ユンボキは、希望園に強制収容される恐怖に脅えながらも、ガムを売り歩くしかなかった。街角や喫茶店でガムを押し売りしたわずかな稼ぎで、うどん玉を買って飢えをしのぐ毎日だった。うどん玉も買えないときは、空きカンを下げて食べ物をめぐんでもらわなければならない。学校に行っても弁当を持って行くこともできず、いつも空腹を水で満たしていた。

いくら困難なことが多くて、つらくても、ユンボキは、気持ちだけはしっかりもたなければなりませんよ。生きていくためにガム売りをしていても、よくない人の間にはいりこまなければ、先生はこれ以上うれしいことはありません。ユンボキが、苦労にまけないで、りっぱな人間になることをおいのります。 担任 柳 英子(ユ・ヨンジャ)

 日記には数カ所、ユンボキの担任である柳先生の言葉が加筆されている。柳先生は、ユンボキが日記帳を使い果たすと新しいノートを買い与え、ときには自分の弁当をユンボキに食べさせている。

 先生、ぼくは、おとうさんの病気さえよくなれば、ごはんを食べられなくても、かならず学校へいきます。ぼくはいま、ヤギかいの少年になっています。ヤギのせわをしないと、うちのものが、みんな、うえ死にします。

 父親の病気が悪化して、その薬を買うためにユンボキは、近所のヤギの世話をすることになる。それでもユンボキは、向学心を失うことはなかった。

 夜の十時三十分ごろ、家に帰るとちゅうでした。ひとりの年とったおじいさんが、中央洞(チュンアンドン)の一けんの店のまえにすわって、涙をながしていました。きものは、それほどよごれていませんでしたが、はきものはぼろぼろでした。どうも、せいしんいじょうで、家をとびだしたらしい、と、とおりがかった人たちがいいました。ぼくは、そのおじいさんがかわいそうになりました。ポケットに手を入れて、きょうかせいだおかねをかぞえてみると、二十円しかなかったので、二円だして、おじいさんの手ににぎらせました。家にかえりながら、あのおじいさんは、こんばん、どこで夜をあかすのだろうと、気にかかりました。

 どんな悲惨な情況に陥ってもへこたれない正義感とあふんばかりのやさしさが、本書の一番の魅力だろうか。さて、冒頭に掲げた一文だが、長兄として、家出したスンナを思うユンボキの心情が込められている。
「おとうさん、おにいさん、わたしは、おかねをたくさんもうけて、うちに帰ってきます。スンナをさがさないでください。」
 こんな書き置きを残して、スンナは家を出てしまったのだ。
 もう一度、冒頭の文章を読んでもらいたい。文豪と称される大作家でも、こんなにも美しい文章は書けないだろう。むろん、ユンボキにも、二度と書けない。まさに、一期一会の文章だ。何かを表現するという行為は、技術だけではないのだとつくづく思う。これは、架空の世界を描く小説にも当てはまる。作者の熱い思いがこもっていない作品は、いくらテクニックが優れていても、読者を感動させることはできないだろう。

 この日記は、1963年6月から翌年の1月まで綴られている。そして、1964年11月に、「あの空にも悲しみが」というタイトルで上梓(じょうし)された。韓国でたちまちベストセラーになり、二度にわたって映画化されている。日本でも1965年6月に「ユンボキの日記」として翻訳出版されて、ベストセラーになった。大島渚監督により、映画化もされている。残念ながら、わたしはどの映画も観る機会はなかった。
 一躍、有名人になった、いや、なってしまったユンボキ少年のその後だが、「ユンボキが逝って─青年ユンボキと遺稿集─」(白帝社)に詳しく書かれている。日記の印税や映画の原作料で、ユンボキは中学、高校を卒業することができた。妹のスンナも家に戻り、ようやくユンボキ一家にも幸福が訪れたかに思えたが、経済状態はさほど好転しなかった。ユンボキは、貧困のために大学進学を断念している。
 韓国は、日本以上に学歴社会だ。高卒の学歴では、これといった職場は得られない。友人たちは、「あの空にも悲しみが」の主人公であることを履歴書に記すように勧めるが、ユンボキはそれを頑なに拒んだ。
「世の中に対して一回世話になっただけでもこんなに頭が上がらないのに、今こうして大人になって、もう一度そんな立場に置かれたら、ぼくは永久に自分自身で生きられなくなるだろう」
 結果的には、自分の貧しい境遇や家庭の恥部を晒して生活の糧にしてしまったことに、ユンボキ少年の心は深く傷ついたのだ。また、少年のときは事実であり真実であった物事が、青年の目には違って見えてきたのだろう。彼は、将来を約束した恋人にさえ、自分があの有名な「イ・ユンボキ」であることを隠していたという。
 社会人となったユンボキも、貧しかった。しかし、妻の親戚筋の紹介で、大手の会社に就職できたことで、ようやくユンボキの生活も安定する。ユンボキは二児の父親になっていた。ユンボキは、このささやかな幸福を守るために懸命に働いた。そして、家庭では優しい夫、父としての役割を完璧に果たした。だが、そのための過労が重なったのか、ユンボキは持病の肝炎を悪化させる。病院で診察を受けるが、病状は重くそのまま入院、そのわずか半月後に永眠した。1991年1月25日、38年の生涯だった。
 ユンボキ青年は、日記の中のユンボキ少年のように、前向きに、そしてひたむきに生きようとしたのだと思う。人々の期待やイメージを裏切りたくなかった。そして、少年の頃のやさしさと正義感を失うことなく、最後まで懸命に生きたのだ。
 その対極にある「人間失格」の太宰治は、自らの作品に殉じるかのように、39歳で自殺している。ユンボキと太宰、わたしにとっては生涯忘れ得ぬ本の作者である二人が、ほぼ同年齢で亡くなっているのは、単なる偶然なのだろうか……。

<書籍データ:太平出版社発行、図書コード ISBN4-8031-1801-9 C8397>

Copyright(c): Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋

◆「名文美術館」の感想


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