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貴様は幾つになっても好い子のならうと思つてゐるからいけないのだ。俺達は自分自身を喰ひ盡して、初めて真剣に他に鋒を向ける権利と強味が出来るのだ。滅びよ! 新しく生きんだ。俺達は決して生活なんといふことを苦にしてはいけない。俺達がいよいよ食へなくなる、と、そこにより以上の生活の道がちやアんと開かれて待って居るんだ。それが事実と云ふものだ、わかり切った事なのだ。俺達はどん底に落ち込んで初めて最貴最高の生命を呼吸することが出来るのだ。

 先月号で太宰治のことに触れたので、今回は同じ津軽出身の葛西善蔵。葛西は大正時代に活躍した私小説作家で、太宰とは年代が離れているため、顔を合わせたことは一度もなかった。しかし、葛西の作品や生き方は、太宰に多大な影響を及ぼしている。太宰自身、そのことを表明しているし、「善蔵を思ふ」という短編まで書いているほどだ。
 無頼派と呼ばれた太宰のお師匠さんのような人物なので、その生涯はやはり、破天荒だ。大酒飲みで、生活能力は皆無。妻との間に三人の子供をもうけたが、生活の糧は妻の実家からの仕送りに頼るというていたらくだった。
  当然のごとく生活は破綻。郷里の津軽に引き上げるも、翌年には妻子を残して単身で上京。下宿先で身辺の世話をしてくれた若い女性と深い仲になってしまい、子供までできている。友人知人たちから借金をしまくり、下宿の代金は踏み倒す。出版社から前借りして、温泉旅館に籠もるが、小説を書かずに芸者を上げての放蕩三昧だ。最後は肺結核で、42歳の生涯を終えている。
 典型的な破滅型の作家で、それは確信犯でもあった。冒頭に掲げた檄文のような文章は、芸術至上主義者として生涯を文学に捧げるという決意表明でもある。せっかくだから、この続きも紹介しておこうか。

 それは決して空想と云うものではない。真理だ。信じて斃るゝ者には悔なし──聖書にも立派に言つてある。南無、信仰なくしては叶ふまじ、俺達は一切を否定してこそ初めて真の絶対鏡に到達することが出来るのだ。そしてそこには夜と云うものがない、太陽が雲母の如く降り注いで居る、無辺無際涯の廣い廣い河原なんだ。そこには一本の草も一本の木も、一物の不純なものも生息して居らない。唯無量無数の焼爛れた石塊ばかりなんだ。そして選ばれたる俺達は、賽(さい)の河原の子供の如く、指を爛らし爪を剥がして、たゞたゞ再生の一念にその石塊を積み重ね重ね不断の精進を続けなければならないのだ。

「悪魔」は、葛西の処女作「哀しき父」に次ぐ第二作である。当時の葛西は、葛西歌棄の号を用いていた。

 良吉にはつまらなくて、醜くゝて、憂鬱で仕方ないのである。電車の窓から、何をくよくよの濠端の柳を見て通り給へだ。その柳の黄色く干乾びた葉が、此頃のうそ寒い風に、何の風情もなく、つまらなく、風に吹かれて、散つて行く。そんな風に人間と云うものが、活物(いきもの)と云うものが、彼の疲れたまなこに映るであろう。彼は彼の仲間達と、ある儲からない雑誌をやつて居る。その校正で毎月末には一日か二日、下町の印刷所へ出かけて行く。ところがその印刷所のヘンな汚い二階が、ヘンに彼に気に入って、どうやらその日が心待ち待たれるやうになつてゐたのである。

 その印刷所の二階で、良吉は仲間のKと一緒に、朝から文芸雑誌の校正をやっている。その日を心待ちにしていたはずなのだが、いっこうに鬱屈は晴れない。印刷所を出た良吉は、いっぱいやろうとKを酒席に誘う。

「いや、僕は止そう。君だけやるならやり給へ。斯う云うとまた君の反感を買ふだろうが、僕はもうこれからは君とは飲むまいと思つてゐるんだ、それは芸術的気分の上から──。君と飲むと苦しくなつて堪らない。どこまでもどこまでもまつはりついて来るんで僕までが変な気になつてしまふ。屹度あと二三日は憂鬱に閉される。僕はまア止さう」

 仲間からも、酒癖の悪さを敬遠されているのだ。それでも良吉は強引にKを誘って、日本酒のホールのドアを開けて中に入った。

 それから二人は飲んで、感激し合つて、また飲んで、また感激し合つて、さうしてさうして続けて行つた。無論二人は酔って来た。

 これで、前出の檄文のようなセリフが飛び出すのだ。言行一致という言葉があるが、書行一致、葛西ほど自分の吐き出した言葉に誠実だった作家はいない。すべてを犠牲にして、小説を書くことだけに生涯を費やした。いや、家族や周囲の人間、あげくは自分の体さえも犠牲にしなければ、何も書けなかったというべきか。
 葛西の作品は、当時の文壇の重鎮だった田山花袋や菊池寛から「酔漢のクダ」「創作ではなく雑文」と切り捨てられたこともある。わたしが読んだ葛西の作品の中では、いわゆる小説らしい小説は、「馬糞石」だたひとつだけだった。あとは、自らの悲惨な生活や貧困を、克明に写生した作品ばかりだ。
 これは、葛西の資質が、小説家ではなく詩人にあったからではないかとわたしは考えている。詩人は創造するのではなく、感じるのだ。自らを感光紙として、対象物を写し出す。葛西が言葉を“写す”ためには、対象物である周囲の環境を刺激的な空間に仕立てる必要があった。それが、生活の破壊なのだ。そして、自らを感光紙と化すためには、世俗の煩悩を洗い清めるための大量の御神酒(おみき)が不可欠だった。葛西は鯨飲して、荒涼たる生活を言葉に写した。
 そんな葛西の資質を証明するようなエピソードが、葛西の弟子の嘉山磯多によって描かれている。「足相撲」という私小説で、当時の嘉山は雑誌の編集者として、葛西の家に通っていた。肺結核を悪化させた葛西は、口述筆記に頼らなければ小説が書けないほどに体が消耗していた。

 私は自分の雑誌の用事を早目に片付けて午さがりの郊外電車にゆられて毎日通った。口述が渋って来ると逆上して夫人を打つ蹴るは殆ど毎夜のことで、二枚も稿を継げるとすっかり有頂天になって、狭い室内を真つ裸の四つん這いでワンワン吠えながら駈けずり廻り、斯うして片足を上げて小便するのはをとこ犬、斯うしてお尻を地につけて小便するのはをんな犬、と犬の小便の真似をするかと思ふと畳の上に長く垂らした褌(ふんどし)の端を漸(ようや)く歯の生え始めた、ユウ子さんにつかまらせてお山上りを踊り乍ら、K君々々と私を見て、……君は聞いたか、寒山子、拾得(じつとく)つれて二人づれ、ホイホイ、君が責めりや、おいら斯うやつてユウ子と二人で五老峰に逃げて行くべえ。とそんな出鱈目の馬鹿巫山戯(ふざけ)ばかしやつた。

「酔漢のクダ」「創作ではなく雑文」と酷評された作品を、葛西はこうして身を削るように苦吟して生み出していた。創作するのではない。神の啓示を求めるがごとく、心が感光して言葉が写るのをひたすら待ちわびるのである。ひとたび原稿用紙に神が降臨したならば、歓喜の舞いを奉納するのは当然ではないか──。そこには、芸術の神に帰依した殉教者の姿があるばかりだ。こうした純朴さが、エゴイストといわれた葛西の本質ではなかったか。
 冒頭に掲げた一文を、もう一度、読んでもらいたい。「俺達がいよいよ食へなくなる、と、そこにより以上の生活の道がちやアんと開かれて待って居るんだ。それが事実と云ふものだ、わかり切った事なのだ。」、なんともはや、楽天的ではないか。「より以上の生活」が、物質的な豊かさではなく、精神的な高みなのだとわかっていても、だ。実際、葛西は、作(葛西は小説のことをこう呼んでいた)さえ書けばなんとかなる、と思っていて、なんともならないで袋小路に追い詰められて、愕然としている。そのときの悲惨さを書いていてもなお、どうにかなるだろうという余裕……、いや甘えがどこかに残っている。この無邪気な童心が、愛憎や生活の苦悩を薄い甘皮でくるんで、葛西の作品にほのぼのとした“照り”を与えている。かくして、「酔漢のクダ」は、芸術の高みまで昇華した──。
 最後に、葛西善蔵の人柄を示すエピソードをもうひとつ紹介して、終わりとしようか。

「葛西にほれこんだおじいさんの酒屋がいてね、葛西はちっとも払わないんだけれども、『そんな不景気な顔をして……』なんていって、年の暮れになるとコモカブリを玄関にドカンとおきに来る。そのころのカネで七百円くらい酒代がたまったけれども、ちっとも催促しないんだ。そうして葛西が最後に住んでた家も、その酒屋が敷金を払って葛西をそこへ住まわしてやったんだね。そうして葛西が死んだら、香典が七百円集まった。そうすると酒屋はその中から借金を返してくれなんていわないで、逆にね、葛西は近所の評判が悪かったもんだから、近所の人たちに『ほら、死ねば七百円も香典が集まる人だ』って、吹聴して歩いてた」(広津和郎「朝日ジャーナル」1962年1月7日号)【「椎の若葉に光あれ」鎌田慧(講談社)参照】

※当欄で引用している作品の原文は、古い漢字体を使用しているため、わたしの判断でその多くを現在の当用漢字に直させてもらいました。また、繰り返し記号などもWeb上では表示できないため、いくつか変更させていただきました。そのことを、おことわりしておきます。

<書籍データ:新潮社発行、図書コード ISBN4-10-150001-0>

Copyright(c): Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋

◆「名文美術館」の感想


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