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小さい時分から情事を商品のように取扱いつけているこの社会に育って、いくら養母が遮断したつもりでも、商品的の情事が心情に染みないわけではなかった。早くからマセて仕舞って、しかも、それを形式だけに覚えてしまった。青春などは素通 りしてしまって、心はこどものまま固まって、その上皮にほんの一重大人の分別 がついてしまった。

 わたしの近所にある公立図書館では、毎年秋になると、所蔵している本の一部を市民に放出するのが恒例になっている。増える一方の蔵書を整理して、収納スペースを確保するのが目的だろうが、「こんな本まで出しちゃうの」と、こちらが心配になるほどの立派な本が大量 に放出されている。 無料の古本市のようなものなので、毎回楽しみにしているのだが、つい欲張って大きな荷物を抱えて帰ることになる。そして、今度はその収納場所に頭を悩ます次第となってしまう。
 この「老妓抄」は、その放出本の棚に入っていた文庫本なのだ。岡本かの子の代表作が9編、収録されている。図書館のラベルが貼られていないので、市民からの寄贈本だろうか。迷った末に、とりあえずといった感じで、手提げ袋の中に入れておいた。今では、その偶然の出会いを、心より感謝している。
 わたしが岡本かの子作品を初めて読んだのは、「過去世」という中編だった。わたしがつけている読書手帳によると、読了したのが1987年の4月。もう13年以上も前なのだが、今でもその文章の香気だけは、強く印象に残っている。例えるならば、和装の臈長けた令夫人からただよってくる匂い袋の香気。上品でふくいくたる芳香なのだが、女性の、いやオンナの肌のなまめかしい匂いが秘められている。
 さて、冒頭に掲げた一節は、表題作の「老妓抄」から選んだ。芸者屋を営んでいる老妓(年老いた芸者)が、遠戚 の子供を貰って養女にしている。芸者屋の表店とは住まいを隔離して、その養女を普通 の娘として女学校に通わせているのだが……。そうした特異な環境に育った思春期の少女を、鮮やかに描出している。耳年増のこまっしゃくれた少女の顔が、目の前に浮かんでくるようだ。
 こうしてかの子作品をまとめて読んでみると、天性の名文家なのだということが実感できる。形容の言葉だけで、読者をすっぽりと抱擁 してしまう魔力を持っている。

 こうやって自分を真昼の寂しさに憩わしている、そのことさえも意識していない。ひょっと目星い品が視野から彼女を呼び覚ますと、彼女の青みがかった横長の目がゆっくり開いて、対象の品物を夢の中の牡丹のように眺める。唇が娘時代のように捲れ気味に、片隅へ寄ると其処に微笑が泛(うか)ぶ。また憂鬱に返る。

 これは、老妓の物憂い姿態を描いた部分。「老妓抄」は最晩年の作だけに(岡本かの子は51歳で死去)、こうした老成された筆の冴えが全編に行き渡っている。同じ本に収載されている「食魔」の中の一文と比べてみようか。

 だが、今宵の闇の深さ、粘っこさ、それはなかなか自分の感じ捉えた死などという潔く諦めようものとは違っていて、不思議な力に充ちている。絶望の空虚と、残忍な愛とが一つになっていて、捉えたものは嘗め溶し溶し尽きたら、また原形に生み戻し、また嘗め溶す作業を永遠に、繰り返さでは満足しない執拗さを持っている。

 この執拗なまでの生々しい表現も、かの子文学の魅力なのだろうが、文章の質が明らかに違っている。岡本かの子は、いかにして「老妓抄」の境地にまで到達することができたのか? その秘密を知りたくて、遺族の記した二冊の本を読んでみた。一つは、岡本かの子の子供である画家、岡本太郎の「一平 かの子 心に生きる凄い父母」。もう一冊は、夫である漫画家、岡本一平の「かの子の記」。

 世俗的にいう賢い女、女らしい女とは、およそ縁の遠い、猛烈な女性だった。
 生きている間は、私生活においても八方破れ。したがっていろいろと批評され、嘲笑され、誤解されとおして死んだ女。
 実際、彼女の産んだ子供である私でさえ誤解したくなるぐらい、猛烈な性格だったが。
 しかし私は誤解のカタマリみたいな人間こそ、すばらしいと思う。純粋であり、純粋であるがゆえに誤解される。そしてどこまでが誤解であって、実体がどうなのか、自他ともにわからなくなってしまうくらい、スケールの大きい、──やはり母にはそういう、いいしれない豊かさ、悪くいえば妖怪的な趣があった。(岡本太郎)

だが、その女というのは、いわゆるの女ではない。生まれつき近代や人生の矢を負うて、自分の傷口をなめながら、赤子のまま膨らんで大きくなったような女だ。女とはいえないかもしれない。そしてその赤子の泣声には希有の人生の哀音があった。(岡本一平)

 両氏ともに、かの子女史が童女のような純粋な性格であったことを、繰り返し強調している。あらゆることに純真なるがゆえに、世俗を受け入れることができず、傷つき懊悩した。そして、最後は宗教に救いを求めた。「最初は基督(キリスト)教に触れてみたが飽きたらず、だんだん仏教の大海に流入いたしました」(岡本一平)。安直な結論だが、その懊悩の深さ、絶望の深さが、かの子文学を「老妓抄」の高みまで押し上げたのではないか。
 わたしは、水の中で溺れている姿をイメージする。苦しみもがけばもがくほど、さらに深みへと落ちてゆく。そして、最深部の底に足が触れた瞬間、決死の力で蹴り上げる。苦しみが深いほどに、その反発力は強烈なものになる。
 自分の姿を振り返るに、わたしは力なくかぶりを振るだけだ。世俗の澱んだ水にどっぷり浸かって、もはやもがく意志も力もなく、ただただ流されて行くばかり……。

 作品の内容について、少し触れておこうか。「老妓抄」は、男を飼う物語だ。老妓はふとした気まぐれで、発明家志望の青年のパトロンになる。それは、肉体的な関係を求めているわけではなく、若いときに自分ができなかったことを、青年にやらせようと思っているからだ。しかし、その青年は次第に生気を失い、人生の目的を見失って行く。まるで、甲羅を経て化けかかった老女に、若い男の生気が吸い取られているかのように。
 「老妓抄」に限らず、「鮨」「東海道五十三次」「家霊」「食魔」と、この文庫本に収載されている作品には、妄執妄念の異形の人を題材にしたものが多い。そうした主人公を、巻末の解説で批評家の亀井勝一郎は、「化物 」と断じている。
 
岡本かの子もまた、異形の人であった。ある意味、登場人物はすべて作者の分身である。さすれば、強烈無比な自己愛こそ、かの子作品にただよう妖気の源だろうか。その自己愛が利己的ではなくて、大海のように大乗的なるがゆえに、かの子文学は普遍性を獲ているのだ。

Copyright(c): Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋

◆「名文美術館」の感想

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