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「このあざはそのうち消えてしまうわ。あんたもそう」
「おれはここにいるじゃないか」
「今はね」
 おれは吸いさしを最後に長々とふかした。そして、ベルの首筋のあたりの髪を自分の手に巻きつけた。
「前にもいったろう、ベル。おれたちはアウトローだ。堅気の人間には明日がある。だが、おれたちには今しかないんだ」
「愛してる」ベルはおれの胸につぶやいた。


 本書は、ニューヨークの裏世界に生きるアウトロー探偵“バーク”シリーズの第三弾。冒頭に掲げたやりとりは、主人公であるバークと、この物語のヒロイン、ベルとの会話。そう、メロドラマなのである。だが、ハードボイルドのメロドラマだ。しかも、幼児虐待という社会批評的なメッセージを堂々と表看板に掲げている。これだけ欲張ると、ストーリーがギクシャクしてしまうものだが、作者のアンドリュー・ヴァクスは、痛快な娯楽活劇に仕上げている。
 バーク・シリーズの魅力の一つが、個性豊かな脇役にあるのは、読者の意見の一致するところだ。モンゴル人で聾唖(ろうあ)の武術の達人、音無しのマックス。チャイニーズマフィアにコネを持つ中華レストランの経営者、ママ・ウォン。プロフェット(予言者)ともプロフェッサー(教授)とも称される小柄な黒人、プロフ。性転換希望の妖艶な男娼、ミッシェル。廃品置き場の地下で暮らす天才エンジニアのユダヤ人、モグラ。幼児虐待の被害者で、バークたちに出会う前は街頭で体を売っていたテリイ。この血のつながらないバークの“家族”たちが、魅力たっぷりに描かれている。
 いや、ひとり、いや、一匹、重要な家族を忘れていた。バークと一緒に暮らしているナポリタン・マスチフの巨大犬、パンジー。単なる愛玩用のペットではない。バークの指示があれば、獰猛な生物兵器に変身する頼もしいボディガードなのである。
 背景になっているニューヨークのアンダーグラウンドは、苛烈な世界だ。弱者は、飼われることでしか生きられない。虐げられ、命や魂までも、搾取されることになる。それは、子供でも例外ではないのだ。

「ママはベイビイにキスする、いいね? 大人にはキスしない」
 テリイは意味を探ろうというようにママの顔をまじまじと見た。ママの口調から怖がらなくてもいいということはわかったようだ。「ぼくは大人じゃないよ」テリイはいった。
「じゃ、何だい?」
 テリイはおれのほうを見て助けを求めた。おれは鼻から煙を吐いた。おれにも答えはわからなかった。テリイは自分で答えをぶつけた。「子供かな?」
「二つしかないんだよ」と、ママはいった。「ベイビイと大人と。もうベイビイじゃなければ、大人なんだ」


 これは、ママ・ウォンのレストランを訪れたテリイが、挨拶のキスを拒まれる場面だ。幼い子供でも、大人の狡猾さを身につけなければ生き残れない。いや、ベイビイさえ、餌食にされてしまうのだ。以下は、ベルとバークの会話である。

「赤ん坊を盗んでどうするの?」
「ほとんどは売りとばしてしまう。かわいい白人の子なら、自分たちの赤ん坊をほしがっている金持ち連中に売れるんだ。養子の闇市場を通じてな」
「ほかの子どもたちはどうなるの?」
「チョップショップって知ってるか?」
「車を盗んできて、分解して部品を売る商売でしょ?」
「そうだ。やつらはそれを赤ん坊でもやってるんだ。白人の赤ん坊は売りとばす。だが、そうでない赤ん坊は、養子に売れるほどの価値はない。それで、切り刻んで部品にしてしまうんだ」

(中略)
「おれが住んでいる世界っていうのはな、どんな地下鉄よりもはるかに地の底深くの世界なんだ。赤ん坊の心臓が買える世界なんだ」

 バークは、こうして赤ん坊や幼児を食いものにしている連中や、性行為を強要して自分の欲望を満足させる変態を憎悪している。バーク自身が、幼児虐待の犠牲者だったからだ。

 おれのような人間はほかにもいる。秘密の子どもたち。あちこちにたらいまわしにされながら育てられた子どもたち。逃げ場はない。生き延びること、それがおれたちの信仰だ。嘘を滋養に成長すれば、何が真実かは自分自身でみきわめられるようになる。おれたちは軍団だ。他人にはおれたちがわからないが、おれたちはお互いが識別できる。はじめから傷ついている特殊な血統の犬のようなものだ。音のない口笛だけ反応する。(「サクリファイス」より)

 ストリッパーのベルもまた、哀しい過去を抱えた“秘密の子ども”だった。バークとベルは、お互いを正確に識別したのだ。ベルは、自分を救ってくれるのはこの人だけだと、全身全霊でバークを愛した。最初は警戒していたバークも、ベルを家族として受け入れる。ベルはバークの、バークはベルの分身だった。生まれたときから欠落しているピースを埋めるように、激しく交情する。メロドラマになった、いや、メロドラマにする必然性がそこにある。

 バーク・シリーズは、家族愛の物語だ。この家族とは、遺伝子でつながっている家族ではない。私生児で生まれ、母親に捨てられたバークに、血のつながった家族はいない。パイプカットで断種しているバークは、これからも、本当の肉親を得ることはないだろう。しかし、バークには、心でつながっているホンモノの家族たちがいる。この家族によって、バークの魂は救われたのだ。バークが、自分の家族を命がけで守ろうとするのは当然なのである。そして、バークは、自分の仲間である“秘密の子どもたち”を救済するために、阿修羅のごとく敵に立ち向かうのだ。

 アンドリュー・ヴァクスが活写する現代社会は、深刻な病魔に蝕まれている。バークの存在は、その暗澹たる現実のなかで揺らめく希望なのである。バークを象徴とする人間性の回復の可能性こそ、青少年犯罪と幼児虐待専門の弁護士という経歴を持つ作者が、いちばん描きたかったことなのではないか。

 柄にもなく、説教くさいことを書いてしまった。最初にも書いたが、本書は戦闘シーンもたっぷりの痛快な娯楽活劇である。何も考えずに読んでも、とてもおもしろいのです。ただ、最後の結末が唐突で、不満に思う読者がいるかもしれない。そういう人は、次作の「ハード・キャンディ」を読んでください。バークはきっとりと、ケリをつけています。

<書籍データ:早川書房発行、図書コード ISBN4-15-207687-9 C0097>

Copyright(c): Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋

◆「名文美術館」の感想


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