●T-Timeファイル ●バックナンバー ●表紙に戻る



川はあった。
(The river was there.)



 学校の教科書から抜き出したのか、と思えるほど簡単な一文だ。川は? そこに? あった? だからどうしたの? ほとんど何も言ってないじゃないの、 どうしてこれが名文なの……と言いたくなるあなたの気持ちもよくわかる。だが、この一文が表しているものは、見かけよりずっと深く、重い。
 この短編は、ご存じの方も多いだろうが、ヘミングウェイの初期の一連の短編「ニックアダムズ・ストーリー」と呼ばれているものの一つだ。主人公のニックは戦争に行き、悲惨な経験が忘れられず、本国に戻ってからも不眠に悩まされている。ある日遠出をして、昔、よく釣りをした川まで釣りに行くが、川に行く途中のよく見知った町は、火事ですっかり焼けてしまっている。建物も物も命も、全ては破壊されてしまう……戦争を忘れたいのに、思い出すのは戦争のこ とばかりだ。どーんと落ち込んだ気分で、ニックが『線路を下って、橋の懸かっている方へ歩いてい』くと、そこに『川はあった』、わけである。この時の彼の安堵、信頼、希望……とても一言で言えない心情が、"The river was there"の一文に込められている。
 上で紹介した訳は、私が見つけた一番シンプルなもので『ヘミングウェイ釣り文学全集(上巻・鱒)/朔風社』からの引用だ。他の訳者は、この一文に込められた複雑な意味を、何とか表現しようとして、『川は流れていた』と訳したり、『川だけは、そこにあった』と訳したりしている。
 このような、馬鹿馬鹿しいほど簡潔な文体は……これも有名なことだが、ヘミングウェイのトレードマークだ。ハードボイルドだとか、「非情の写実主義」だとか呼ばれ、心理描写が極端に少なく、事実が客観的に述べてあるのが特徴だ。
 しかし、事実を述べるだけで、感情に触れないで、どうして読者を感動させられるのだろうか? それが、私にはずっと疑問だった。あなたは、新聞記事を読んで、しばし宙を見つめ、犯人に共感し、余韻を味わうようなことがあるだろうか? 
 私が彼の短編を(高校の国語の教科書で流し読みして以来)初めて真面目に読んだ時の感想は、「不思議なものを読まされた」だった。わからない部分は一つもない。日本の作家の作品のように、解読困難な文もなく、また、想像を絶する形容や比喩もなく、全てが明白だ。たとえばこの短編では、ニックが川へ行き、バッタを餌にして釣りをし、夜、テントを張ってコーヒーを湧かして飲む、というようなことが平明に、逐一書いてあるのだ。だが不思議なことに、読み終わっても、何も理解できない。事実ははっきりわかるが、その意味がわからない。これは不思議な気分だった。そして、どんな小説も二度読むことを決してしなかった私が、ましてや一度読んでわからないもなど駄作に決まっていると、ゴミ箱に放り込んでいた私が、この時初めて、読み返した。一度でなく、三度。そこに隠された意味……言い換えれば、事実の中にある、主人公の感情の動きを読み取ろうと、まるでミステリーを解くように、一字もこぼさず読んだ。
 不可解な小説はたくさんある。だが、不可解なうえに、それでも読者を引きつけておく小説は少ない。これがヘミングウェイ・マジックだと思う。
 それにしても、マジックの秘密は、一体何なのか? どうすればこんな文章を製造できるのか? 私は研究家ではないから解明できないが、二、三のヒントなら持っている。
 一つは、彼の推敲の仕方にあると思う。数年前に、キー・ウエスト島にある彼の晩年の家(今は博物館になっている)を訪れた時、専属のガイドがこんな説明をした。「彼はリライトをする時に、文を補足するのでなく、逆に、どんどん抜き取っていった」と。これにはいささか驚いた。例えば、日本の作家が、連載小説を単行本化する時に、「修正加筆」することはあっても、「修正削除」するなど聞いたことがない。
 もう一つのヒントは、彼の作品『エデンの園』の中にある。この作品は彼の死後発表されたもので、同書の解説によれば、相当事実に近い「思い出の記」と見られている。その中で、ヘミングウェイの分身である主人公の作家が、小説の書き方についてこんなことを言っている。『あっさりと書くのは良い。あっさりしていればいるほど良いのだ。だが、考えがこうあっさりしてしまっては良くない。いかに複雑なことなのか、充分わきまえたうえで、あっさりと表現することだ』。
 さらにもう一つ、同書の中で、主人公が、父に関する短編を書いている途中で、こんなくだりがある。『やっと彼(主人公の作家)は父が何を思ったのか分かり、分かった以上、その物語から省いた』。分かった以上、省いた! 普通、分かったことを書くものではないか? だが、ヘミングウェイのやり方は逆。分かったから書かない、のだ。
 実際に文字にしたものをあとから削除するか、あるいは、頭の中で分かったことを書かないでおくかの違いはあるが、どちらにせよ、彼が書か、ない、ものは、少なくとも彼自身に明確に分かっているものだ、ということだけは言える。よく分からないから省くのではなく、分かったから省く。これを裏付けるような文が、彼のパリ修業時代の回顧録である『移動祝祭日』の中にもあった。『私(ヘミングウェイ)は、短編"Out of Season"の中で、老人が首を吊って自殺するという、本当の結末を省いた。私が作った新しいセオリーに基づいてそうしたのだ。そのセオリーとは……自分自身が、それを省いたのだと分かっている限り、そして、省くことが物語を強くし、読者に、理解したこと以上の何かを感じさせるなら、何を省いても構わない』。
 もちろん、これがマジックの全てとは言わない。新聞記者時代に彼が教わったこと、『簡潔な文章を使え。書き出しの一節は、とくに短くせよ。力強い言葉を使え。形容詞を使うな。とくにおおげさな形容詞を使ってはいけない』という心得は『物を書くという仕事のために学んだ最上の心得だった』とヘミングウェイ自身が語っているらしいし(新潮文庫『武器よさらば』の解説より)、パリ時代にガートルード・シュタインから『描写が多すぎる。もっと圧縮して、短く、簡潔に』と助言されたこと(同解説より)も、彼の文体に影響しているはずだ。だが、分かったうえで書かない、ことは、単に余分な単語を削っていくのとは次元の違う、秘密の核心だと私は思う。
 どこで読んだか忘れたが、彼が、こんな例え話を書いていた。キューバかアフリカか、これも地名は忘れたが、どこかの海岸には、近くの別の海岸で捨てられたゴミが、海流に乗って流れてくる場所がある。そこで見ていると、ゴミといえども、色とりどりの家具や、キラキラ光る電球が浮かぶ様子は奇麗で、目を引く。貧乏な地元の子供たちがそれを取りに集まる。作家の中には……と彼は考える……そうした目を引くものを描こうとする者がいる。だが彼は違う。彼が描きたいのは、キラキラ光るがらくたの、下深くに流れる、海流そのものなのだ、と言うのだ。
 私は、この『大きな二つの心臓の川』を読み返すたびに、作者が言う、深い流れのことを考えてしまう。

Copyright(c): Reiji Hoshino 著作:星野 礼司

◆「名文美術館・第32回」の感想

*星野さんは、Online小説レビューページ「ポーラスター」(文芸&アート1 リンク)で、数多くのOnline小説を紹介されています。


●バックナンバー ●表紙に戻る