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 サヤは大地にゆっくりと体を伏せた。そして両手でしっかりと砂を掴んだ。
 サヤは心の中で父を抱きしめた。母を抱きしめた。そして腕の中にいつまでも火星を抱きしめていた。


 1999年のSFマガジン「年間ベストSF」で、国内編第1位に輝いた作品。話題作なので、読んだ方も多いのではないだろうか。かくいうわたしも、新聞の書評欄を読んで、この本を手にしたひとり。
 物語の背景を簡単に説明しておこうか。2071年の世界が舞台になっている。開発が急ピッチで進められている火星で、地球の節足動物に似た生物の遺骸が発見された。その遺骸は中身が空洞で、特定の場所に密集して存在していた。どうやら、食用として利用され、廃棄されたものらしい。その状態は、地球の縄文時代の貝塚を連想させた。かくして、生命考古学を専攻するアスカイ・サヤが、縄文時代の専門家として火星に赴(おもむ)くことになった──。
 高度に電子通信技術が発達した未来を描いているので、専門用語も多く、正直、何度も読むのを中断した。とくに、初読のときのわたしはまだインターネットのビギナーで、アレルギーも大きかった。途中から、言葉の内容をすべて理解しようとしないで、全体の流れを大まかにつかみながら読み進めるようにした。それで、ようやく物語に熱中できるようになった。そう、とてもおもしろいのである。
 とくに魅力を覚えたのは、仮想電子世界(ヴァーディング)のリアルさだ。リアル過ぎて、実物の世界の方が平面的な味気ないものに感じてしまう。実際に、物質有機世界(フイゾーグ)を否定する人物も登場する。
  
「まあ、一応、肉体はありますよ。ただ、ほぼ二四時間ネット上にいますので、時々、忘れちゃいますがね。ここ数カ月は口から食物を摂取したことはないし、排泄も……まあ下世話な話はやめときましょう。いずれにしても私にとってはうっとうしい頭陀袋(ずだぶくろ)でしかありませんね、肉体ってやつは」

 これは、ファントムというインターネットで非合法な商売をしている人物のセリフ。ネット上では自分の望み通りの環境や容姿が自由に選択できるのである。ちなみにこの時代のインターネットは、ほとんどの全域が暗黒街か無法地帯と化している。その自由さが徒(あだ)となって、犯罪者が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する世界になってしまい、新たにIPNという規制を強化したグローバルネットワークが構築されていた。

 ただインターネットがまったく無用の汚物溜めかというと、そうでもない。むしろ以前にも増して繁栄し、人々の生活にもある面で溶け込んでいた。新しい芸術、先鋭的な文化は常にインターネットから発信されていた。アーティストやクリエイターたちの多くは規制の多いIPNを嫌って、インターネットを主な活動舞台としていたからだ。つまりIPNとインターネットはコインの表と裏の関係にある。

 この汚物溜めのようなインターネットで、この物語のもうひとりの主役であるKTが、包帯だらけの透明人間のアバター(化身)で、縦横無尽に活躍するのである。

 さて、この時代の物質有機世界の危うさを、これでもかというぐらいにだめ押ししているセリフを紹介しよう。これは、敵役である兵器メーカーの会長が、情報ルートとして利用していた人間を切り捨てるときに、傲岸と言い放ったセリフである。

(前略)あなた自身もつきつめれば情報のかたまりでしかない。(中略)実際、あなたのDNAコードは、その気になれば全て解読できる。それに従って蛋白質を合成し、組み立てればとりあえずあなたの体はでき上がる。そういう技術は今世紀内に生まれるだろう。脳内の神経網を全て人工的な媒体に写し取ることだって、実はすでに可能になりつつある。あとはそれを合成した脳にダウンロードすれば、クローン以上の完璧なコピーができあがるのだ」

 人間も、情報システムのひとつに過ぎないと断じている。こうなると、生命とはいったい何なのかという疑問に突き当たる。実際に、この物語の中では、人間的な感情を持った人工知能が複数、登場している。容姿や年齢、性別さえも、遺伝子操作で変更できる世界なのだ。現実世界が嫌になったら、仮想電子世界に逃避することができる。物質的な個性がまったく信用できない世界、つまり、個々のアイデンティティは精神にしか存在しないということになる。

 地球外生命体の謎解きと、火星上で繰り広げられる国家間の争い、武器メーカーの暗躍等々、ハードSFの外観を有しているが、この物語の縦糸は、ラブ・ストーリーなのである。精神しか信用できない世界だからこそ、愛情も純粋でなければならない。「クリスタルサイレンス」というタイトルの意味がそこにある。
 さて、もう一度、冒頭に掲げた一文を読んでもらいたい。これは、この小説の巻尾を飾る文章である。純愛物語の結末にふさわしい文章だとは思いませんか?


<書籍データ:朝日ソノラマ発行、図書コード ISBN4-257-79038-5 C0093>

Copyright(c): Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋

◆「名文美術館」の感想


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