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盲人が私のうちに泊りに来ることになった。私の妻の昔からの友だちである。彼は奥さんをなくしたばかりで、コネティカットにある彼女の親戚の家を訪ねていたのだが、そこからうちに電話がかかってきて、いろんな手はずがととのえられた。彼は五時間かけて鉄道でやってくることになり、妻が駅まで迎えにいくことになった。


 誰でも、日常生活の中で、ちょっと妙な経験したということがあると思う。間違い電話の相手と話し込んでしまった、とか、父親から昔の浮気の話を打ち明けられた、とか、あるいは盲人がうちに泊りに来た、とか、そんなことだ。そういう時はたいてい、妙な出来事が終わった後も、しばらくそれが頭から離れないのではないだろうか。あの人はどういう人だったのか、とか、そもそもどういう成り行きでこんなことになったのか、とか、これは神様からの何かのお告げなのだろうかとか……、一言でいうと「あれは何だったんだろう?」と考えずにいられないはずだ。
 こういう意味シンな経験は、何度もしたくとも、できるものではない。一生のうち、たいてい、数えるほどしか起らない。だが、このレアな体験を、1回にまとめて1ダースほどもさせてくれる人がいる。レイモンド・カーヴァーだ。
 カーヴァーは1988年に肺ガンで死ぬまで、もっぱら短編と詩を書き、アメリカ国内の多くの賞を受賞した。現在でも短編文学の第一人者であり続け、その著作は20か国語にも翻訳されている。ジャンルとしては純文学だろうか。日常生活が舞台で、スーパーヒーローも、セクシーヒロインも出て来ない。文章は短く、明確で、批評家から「ミニマリズム」と名付けられている。
 日本では村上春樹氏の訳で有名になったせいか、村上春樹ワールドのイメージで捉えている人が多い気がする。今、私の手もとにある短編集『ぼくが電話をかけている場所』の表紙絵も、丸っこい雲がふわふわ浮かぶメルヘン風なイラストだ。だが、原本の表紙は違う。まるで、たった今対戦相手を殴り殺してきたボクサーのような、カーヴァー本人の写真である。中の作品を読めば、こちらが正しいイメージだと分かる。下層階級の出身で、貧困に喘ぎ、アルコールのせいで何度も死にそうになった彼は、「浮遊感覚」などとは縁遠い存在だろう。実際、ぼくが電話をかけている場所は、デズニーランドではなく、アルコール依存症患者の収容施設なのだ。

 レイモンド・カーヴァーを読んでいて困ることは、一つしかない。読み終えるまでトイレに行けないことだ。文章の緊張感が、凄いせいだ。一語でも飛ばし読みしたら大事な事を見落とすのではないか、と心配で、読み続けることしかできない。殺人者に追われているわけでもない、大事件に巻き込まれているわけでもない、日常の場面が展開しているだけなのに、行間の底深くには、背筋をピンとさせるようなサスペンスが流れ続ける。しかも、最初から最後まで緩まないところが素晴らしい。トイレに持って入って読んだところで、出るものも止まってしまう。
 『フィクションの中に緊張感を生み出すもののひとつに、文の書き方がある。明確な言葉が繋がってまとまり、物語の目に見える動きを作るのだが、その繋がり方が緊張を生むのだ』と、カーヴァー本人がエッセイの中で言っている。ここからも分かるように、カーヴァーは、言葉と文に対して非常に敏感だ。あるインタビューの中で「私は、15回から20回の書き直しをする」と答えているし、担当の編集者は『時に彼は、30回書き直した』と書いている。(もちろん短編だからできることだろうが。)『(書き直しを何度もしていて)以前付け加えた言葉や句読点を、知らぬ間にまた取り去っていたら、その物語は完成したという確かなサインだ』、というのは彼がよく言っていたことらしい。書き直しで彼がやることは、一文ごとに自分が言いたかったことを再確認し、そのための最適な語句を選び直し、最終的には、絶対に必要だと思える言葉だけが残るようにすることだ。なぜそこまでやるのか、について彼はこう書いている。『我々(作家)が持っているのは、言葉が全て。だから、言葉には、こちらが意図したことを最も良くつたえてもらわなければならない』。

 最初に紹介したのは、短編『大聖堂』の冒頭部分の抜粋だ。盲人が泊りに来る、という最初の一文から、もう緊張が始まっている。しかもこの盲人は、ちょっとした……いや、たいしたクセ者なのだ。妻が自分と知り合う前からの「友人」で(つまり、自分の知らない妻を知っている)、歳はとっているがちょっとセクシーな顎髭なんかをたくわえ、よく食べるし、タバコはプカプカ吸うし、盲人らしくなく(というのはもちろん主人公の偏見だが)、人生を楽しんでいる。そのうえ許せないのは、そいつが、いい奴、ということだ。マナーも良く、思いやりがあって、妻の心を100%つかんでいる。いや妻は、絶対、男としても引かれているのだ。だが嫉妬はできない。何と言っても、相手はハンディキャップを負った人間ではないか……、という調子で話は進んで行く。
 カーヴァー自身が、この作品について、あるインタビューでコメントしている。『(この作品については)本当に書きたいという衝動を感じたよ。全ての作品が、こういう感じで書けるわけじゃない。何かをつかんだ気がして、興奮したんだ。目の見える方の男(主人公)は変って行くんだ。自分が、盲人の立場に立つようになる。この話は、何か大事なことを裏打ちするものがあるよ』。
 盲人と妻の反応をうかがいながら食事をし、テレビを見る、という見事な緊張が続いた後の、エンディングがまたいい。そのよさについては、私が逆立ちしても伝えることはできないので、ここでは割愛する。(もしできれば、私も小説家になっているはずだ。)ある人はそれを、芸術のメタファーだと言い、ある人は、セックスを象徴している、と言うらしいが、カーヴァーは否定している。『盲人の手と自分の手が触れあうことを考えてみたのさ。全ては想像だよ』。
 カーヴァーが、見直しの作業の中でやるもう一つのことが、エンディングを「見つける」ことだ。『(書いているうちに)奇跡が起こって、素晴らしいエンディングに到達するなどということはない。エンディングは、見直しをする中で見つけるものだ』と彼は言っている。そして、そのためにいくつものバージョンを考える。
 こうして考え抜かれたエンディングと、彼ならではの、磨き抜かれた文の緊張感(翻訳でもまったく損なわれていないと思う。)を、ぜひ味わって欲しい。『大聖堂』は中でも人気の高い作品だ。短編集『ぼくが電話をかけている場所』の中にも収められているが、同名の短編集『大聖堂』や、他の傑作選でも読むことが出来る。

《参考文献》

『ぼくが電話をかけている場所』レイモンド・カーヴァー/村上春樹訳(中央公論社)
『Where I'm Calling From』Raymond Carver(Vintage Contemporaries)
ウェブサイト "Raymond Carver Page"
Illinois Wesleyan大学ウェブサイト

Copyright(c): Reiji Hoshino 著作:星野 礼司

◆「名文美術館・第35回」の感想

*星野さんは、Online小説レビューページ「ポーラスター」(文芸&アート1 リンク)で、数多くのOnline小説を紹介されています。


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