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そうカツキ氏は最後の日記を結んでいた。糸の切れた操り人形のように、椅子にもたれかかっているエリカ。その最期の姿を見ると、カツキ氏が彼女を生き生きと見せるために、今まで色々な工夫をしてきたことが良く判る。スナップショットのように、無造作に撮られた最後の写真の中のエリカは、無惨なまでに人形で、私は思わず息を飲んだ。

 物語の主人公である女子高生、里香(りか)はアルバイトをしている喫茶店で自分の姿を盗み見ているらしき三人の男に気づきます。恋人である里中くんは単は「自意、識、過剰、なんじゃ、ないの」と取り合ってくれませんが、男達は次の日も、そして仕事を終えて出た街の中までも里香を追いかけ、物陰に視線を潜ませているのです。
 いいえ、盗み見るのは三人の男だけではありませんでした。高校を中退して自室に引き籠もる兄までが自分の姿に執着しているのを里香は知ります。そのわけを里香は兄のパソコンを通じて知るのです。自分に瓜二つのダッチワイフ〈エリカ〉との妄想的恋愛生活を綴ったカツキ氏のホームページの存在を知り、そこの掲示板で自分の存在は〈リアルエリカ〉として話題になっていることを知るのです。

 と、ここまで書けば、ストーカーもののサスペンス或いはホラーストーリーかと思われるかもしれませんが、この物語が掲載された『文学界』は純文学を扱う雑誌です。純文学という、実は何でもありのジャンルの作品ですから主人公、里香は生身の自分をダッチワイフに近づけようなどという倒錯へと走ったりもするのです。

 作者はこれが小説家としてはデビュー作のようです。これ以前には『タルホ/未来派』(河出書房新社)という評論を著(あらわ)しています。その中で作者は〈模型〉をキーワードにタルホ文学を読み解いています。僕なりに要約すると〈模型〉とは〈本物〉に限りなく近く、しかし決定的に遠い。例えば模型飛行機は形の上では本物の飛行機に限りなく近いのであるけれども肝心の飛行という機能を失っている上で決して本物になることが出来ない。そして飛ぶことの出来ない模型飛行機は究極、無用の存在である。しかし無用であるが故にそれは純粋さをうちに秘めている。例えば実際の飛行機が進化の途上で当初の〈飛ぶ〉というロマンを失い、単なる交通の手段=道具に成り下がっていくような堕落がない。飛ぶことの出来ない模型の飛行機を見る者はその背後に本物の飛行機が作られた当初にあった「飛ぶ」というロマンを想起することが出来る。
 例えばこのような観点に立つとビールなどである復刻版は〈模型〉という側面が強いのではないでしょうか? 勿論、飲むことは出来るのですが、その価値は〈味〉という使用面以上のものがあるわけですから。

 『スキンディープ』における〈模型〉とは言うまでもなくダッチワイフです。

《もはや、彼女は現実の女の代用品ではない。彼女こそが、あなたがずっと心の奥で望んでいた本物の女なのだ》

 これは宣伝文句として本文中に登場する文章ですが、カツキ氏は人形を本物の女にすべく涙ぐましい努力をします。服を買い与え、化粧を施し、〈模型〉を本来の〈使用〉とはかけ離れた存在に仕立てあげるのです。
 里香は当初は違和感を覚えたものの、次第にカツキ氏のエリカに心を奪われていきます。何故ならエリカへのカツキ氏の愛は確実なものです。カツキ氏の愛情が〈模型〉のエリカを生かしているのです。
 しかし自分の存在がエリカファン達に知れてしまい、ホームページの掲示板に〈リアルエリカ〉の書き込みが増えるや、カツキ氏は冒頭の引用文にあるように妄想的恋愛生活に幕を下ろしてしまいます。
 里香はカツキ氏に画像ファイル付きのメールを送ります。エリカ型ダッチワイフのユーザーとしてです。画像に納められた里香の所有するエリカは自身の身体です。
 フランスの思想家、ジャックラカンの理論のなかに『鏡像段階』というものがあります。それは生後6ヶ月程度の幼児が自身の身体を統一的なものとして認識する過程を分析したものですが、この中で自己像を得る媒介となる鏡面に映るのは自身の身体のみではなく、背後に立つ母親の眼差しもそこにはあるのです。眼差しはその鏡像を「これがあなたなのよ」と教える、この母親の言葉こそが重要なものであるとラカンは語っています。つまり統一的な身体像とは自身が直接に認識するものではなく、まずは他者に差し出され、他者の承認によって自身に送り返されるものであるのです。
 里香がカツキ氏に自身を晒すメールにおいても、その身体はカツキ氏の眼差しを受けたエリカの似姿としてです。私と私の鏡像をカツキ氏の眼差しが結んでいるのです。
 もう一度〈模型論〉。〈模型〉は〈本物〉ではないが故に〈本物〉の持っていたロマンを損なうことなく宿している、ある意味〈本物〉以上なのです。主人公が自身の〈模型〉である〈エリカ〉に見たものも『鏡像段階』時に私に向けられていた他者の眼差し、そしてそれこそが〈私〉を〈私〉たらしめている要因。メールのやりとりによってカツキ氏に認められた里香はダッチワイフに扮装した姿で喫茶店のカウンターに立ちます。

声は明るいのに、顔は笑っていないのが、頬の筋肉の弛緩具合で判る。遠くを見るような目で、唇は薄く開いている──里香がエリカの顔真似をしているのは鏡を見なくても明らかだった。

 エリカファンは勿論、里香に見蕩(と)れます。しかし、ここで客達が見蕩れるのがリアルな里香ではないことに注目しなければなりません。〈模型〉を模倣する里香なのです。いや、彼らにとって〈模型〉のエリカこそがオリジナルであり、里香こそが〈模型〉なのです。命を持たない〈模型〉のエリカを模倣する命を持った里香。そしてその里香に扮装の理由、扮装する原動力を与えているのが彼らの眼差し。つまり里香は彼らの眼差しによって生かされている。里香の表層に住まうエリカは彼らの眼差しを失うや、表情を失った人形へと転落するでしょう。いやいや、里香はエリカに扮装するにあたって表情を消し去る技術を養ったのであり、里香は表情を失ってこそリアルなエリカに近づくのです。


 自らを晒す里香、しかしその自らは〈私〉によく似た〈私ではないもの〉。このようなシチュエーションは僕に女性写真家、シンディシャーマンを思い出させます。
 例えば1981年に撮られた『UNTITLED#96』掲載サイトページ。被写体である女性はオレンジの半袖スエットにオレンジのチェックが入った白地スカート(裾がめくれ露わになった太股が写真枠ギリギリのところでチラリと見えています)を着て、床に横たわっています。右手には新聞の切れ端のようなもの、左手は曲げられ後ろ髪を弄んでいる、その視線はこちらを見据えるのではなくあらぬところに向けられて、唇も前歯が軽く覗く程度に開かれている。何かを考えている様子ですが、赤らんだ額や頬等、或いは全体に無防備な姿勢などから見る者はセクシャルな意味を受け取るのではないでしょうか。
 この写真がダッチワイフを演じる里香にどのように関係するのか、それを述べる前に前述の『タルホ/未来派』の中でも言及されているドイツの思想家、ヴァルターベンヤミンの『複製技術の時代における芸術作品』というエッセイについて触れたいと思います。
 この中でベンヤミンは芸術作品の礼拝的価値と展示的価値について述べています。曰く「最古の芸術作品が発生したのは、周知のとおり、最初は魔法の儀式に、つぎには宗教的儀式にそれを供するためであった。」例えば洞窟のオオシカやミロのビーナス像など。「それらはそれを人々が眺めるということよりも、それが存在しているという事実の方が、重要であったと想像される。」つまり芸術作品の起源には礼拝の対象としての側面があったわけです。
 ところが時代が進むに従って芸術は礼拝的価値よりも多くの人々の目に触れること、展示的価値の方が重要になっていきます。それを支えたのが印刷技術であり、写真技術であったというわけです。では礼拝的作品と展示的作品の違いは何か? それは作品の持つ存在感(これをベンヤミンはアウラと表現しています)でしょう。例えばゴッホの作品を写真でみることとその実物を直接、見ることの違い。視覚的には同様の行為であるにも拘わらず、やはり実物には写真にはない迫力があります。ある意味、実物の絵画を眺めることはその作者を礼拝しているとも言えます。
 ところで複製技術である写真芸術においては実物にあたるものがない。けれども礼拝的価値がまったくなくなったわけはないとベンヤミンは続けます。「すなわち人間の顔である。初期の写真術の中心に肖像写真がおかれていたのは、けっして偶然ではない。遠く別れてくらしている愛する人々や、いまは亡い人々への思い出のなかに、写真の礼拝的価値は最後の避難所を見出したのである。」
 このような礼拝的価値を生み出すための人間の顔は実在する顔でなければならないでしょう。その存在そのものが現実の複製=写しである写真のなかで、実在する人間の顔は奥深さを与えてくれるのだと思います。さらに眼差しがこちらを向いているならばより一層、人物の内面がこちらに伝わってきます。
 以上、ベンヤミンの説に当てはめるならば、シャーマンの『UNTITLED#96』は外された視線によって人物が真摯に見る者へ語りかけてくる、或いはその人物の来歴等に思いを馳せるといった感慨を見る者に与えるような効果は薄いと感じられます。つまり“存在”よりも“眺めること”に力点が置かれた展示的作品に見えます。カメラの後ろに立つ作者の意図も同様ならば鑑賞は成立するのですが、しかしこの作品において、いや、ほとんどの作品において、作者、シャーマンはカメラの後ろにだけ立っているのではありません。自らが被写体として作品のなかに姿を晒している、つまり物思いに耽るオレンジのセーターを着た人物がシャーマン、その人なのです。

 ダッチワイフを演じる里香とモデルを演じるシャーマン、どちらもが他人の欲望の眼差しの前に自身を扮装した姿で晒すことに共通点があります。しかしシャーマンの場合にはモデルに成り切ることには抵抗感があるようです。
 例えば1980年の作品『UNTITLED#71』掲載サイトページ。背景はセットではなくプロジェクターなどで投影された画像、その前に安っぽいワンピースを着て、かつらをつけたシャーマンが立っています。視線はここでも外されていますが、全体に違和感が感じられる作品です。シャーマン演じる人物がそこにいることが不自然な感じ、いや、この不自然さを演出することがこの作品の狙いでしょう。
 前に戻ると『UNTITLED#96』においても、やはりシャーマンはオレンジのセーターを着たモデルに成り切れていない、その人物が作者であるという事実が見る者をして素直に作品を鑑賞することを不可能にしているのではないでしょうか。作品を鑑賞することを邪魔してしまうシャーマンの存在、ベンヤミンの語る肖像写真とはまた別の意味で、異物感としての“存在”が現れています。自分ではない何者かに扮装したモデルとしてのシャーマンではなく、情景を写真におさめる作者としてのシャーマンでもなく、役に成り切れない、作品世界の一要素に成りきれない実在としてのシャーマンです。


 再び『スキンディープ』。この小説は当初は一人称「私」によって物語が語られています。一人称「私」は自分によく似たエリカの存在を知り、自分に向けられていた視線が「私」に対するものではなく、エリカの似像としての「私」に向けられているものであることに気づきます。「私」を巡る出来事のように思えて、しかしそこに「私」はいない。そして人々の関心が「私」ではない「リアルエリカ」に向けられていることがこの「私」を透明にしていきます。ついには物語の語りは一人称「私」を失います。三人称「里香」のみが残るのです。

 三人称となった「私」。それはシャーマンの作品では1985年に撮られた『UNTITLED#153』掲載サイトページに現れているのではないでしょうか。
 この写真ではシャーマンは死体を演じています。土に汚れた顔、腐敗の兆候を見せる頬の肉、倒れているのは湿り気を帯びた地面、顔のすぐ側に苔の密集。
 視線はまたも逸れています。しかし『UNTITLED#96』とは何処か違います。オレンジのセーターを着た人物には自分が盗み見られていることを意識するような素振りが感じられました。いや、それは演じているのがシャーマンその人で、つまり作品に漂う性的なニュアンスを作り出した作者なのだから、見る者がそのような欲望を抱くことは当然、承知しているという構造がもたらす効果でした。
 けれどもここで演じられているそれは死体です。死体の瞳には何も映らないのです。
 或いはこれはシャーマンの作品の重要な要素である性というものが廃棄されたことにもよるのでしょう。死体、一部の特殊な性癖を持つ者を覗いて、この物体に欲望を向ける者はいないのです。しかしこの無表情に僕は奇妙な充足感を見るのです。

 『スキンディープ』のラストにも不思議な充足感が描かれています。どのようなものでしょうか? それは読んでのお楽しみ。

《参考文献》

『スキンディープ』(文学界2001年10月号) 茂田眞理子 著 文藝春秋社 
『タルホ/未来派』 茂田眞理子 著 河出書房新社(1997年)
『複製技術時代の芸術』 W.ベンヤミン 著 紀伊國屋書店(1965年)


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◆「名文美術館・第36回」の感想

*iuaoiioさんは、第4回うおのめ文学賞(2003年夏)の短編部門の選考委員を担当。ネット上で「失業者」「ドキュメント3/28」「23」等のレベルの高い作品を発表されています。


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