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「わかりました。ではミスター・ロングあてに手紙と履歴書をおあずけしていってもよろしいでしょうか?」
 女はぼくがさしだした書類を──小水まみれだとでも思っているのか──さもいやそうに受取り、デスクの上に投げ出した。「ほかの同種の書類といっしょにお見せしておきます」


 今回ご紹介するのは、世界で最も売れている作家のひとり、ジョン・グリシャムの作品だ。彼の本は、この『原告側弁護人』(原題『レインメーカー』)をはじめ、『ペリカン文書』、『法律事務所』、『評決のとき』などほとんどが映画化されている。年棒は、マイケル・クライトンやスティーブン・キングらと肩を並べている。
 法廷サスペンスという部類に入る彼の作品は、法律上の手続きや、事務処理上の駆け引きが、ぎっしり詰まっている。書類のやり取りが主なアクションなのだ。冒頭で引用した部分も、主人公のルーディ・ベイラー(法科の学生)が、職を求めて、履歴書を秘書に渡す場面である。
 法律、規則、手続き……、もちろん、そんな無味乾燥な社会システムを描いただけでは、これほど売れるわけはない。
 グリシャム作品のおもしろさのひとつは、無味乾燥な社会システムの中に埋もれている、人間のナマの気持ちを掘り出してくれる点にある。どんなにドライなシステムも、実際にかかわっている人にとっては意味があり、匂いも味もあるものだ。例えば、書類手続きひとつ取ってもそうだ。冒頭の引用文中に登場する女性(秘書)は、履歴書など受け取りたくもない。なぜかと言えば、彼女の会社では募集などしていないし、売り込みに来る学生の履歴書をいちいち受け取ってしまうと、彼女自身が上司に怒られるからだ。それで、彼女にはその履歴書が『小水まみれ』に見える。グリシャムは、こうした事務手続きをはじめ、社会と法のシステムの中に埋もれている人間の感情を明るみに出す。嫌悪、憎しみ、欲……そういう汚泥のようなもの、ばかりではない。どんどん掘り進むと、最後には宝石が飛び出してくる、という話が、この『原告側弁護人』である。

 あらすじを紹介しておこう。主人公である新米弁護士のルーディが、悪どい保険会社を相手に裁判で戦う話だ。(冒頭の引用部では、まだルーディはまだ弁護士の仕事を探している段階。)この保険会社、どのくらい悪どいかと言うと、貧乏な人たちを医療保険に勧誘しておいて、保険に入った人がいざ重病にかかると、アレコレ理屈をつけて保険金を払わず、結局、手遅れで死なせてしまっても、まったく平気、というくらい悪どいのである。ルーディは、こうして死んだひとりの黒人の代理となって、巨額の賠償金をかけて戦う。
 グリシャムはまず、主人公のルーディを通して、法律学校と社会システムに対する実感を暴露してくれる。アカデミックな法律学校や、法によって円滑に動いているはずの実社会も、主人公ルーディに言わせると、以下のようになる。

ロースクールは敵をつくるところである。ここでの競争は熾烈をきわめるからだ。学生たちはここで相手を騙し、裏切るすべを身につける──いってみれば、実社会の予行演習をするわけだ。

 実社会の予行演習、とは、ズバリと言ってくれたものだ。(私は法律専攻ではないが、まったく同意する。)グリシャムの辛辣(しんらつ)な目は、世間では権威者と見られる大学教授も容赦しない。教授たちは『ほとんどが実社会では通用しないので、しかたなく教壇に立っているような手あい』である。(私自身が大学で感じたのと、まったく同じ感想だ。)また、法を扱う弁護士は、法システムをクールに運営する人々、と見られがちだが、とんでもない。

弁護士たちがひとしなみにおなじ病気に悩まされていることはわかっていた。なかでも最高に不快な習慣は、手柄話をすることである。大きな裁判に関係するとなったら〜(中略)〜そのことを仲間に吹聴したい一心になるのだ。

 近所のオヤジと同じではないか。今度は、法律から少し離れて、エリートが集まる一流企業を見てみよう。社会の一員として世の中の発展に貢献するみなさまの一流企業、の会議室をのぞいてみると、裁判所以上に四角四面で重苦しい。だが、それも、ルーディが見れば、ユーモアの宝庫になってしまう。貧乏学生あがりの主人公はこう感じる。

ぼくはおとなしく指定された席にすわり、椅子をテーブルに引き寄せようとした。これがひと仕事だった──いまいましい椅子の重さが一トンはあったからだ。ぼくの反対側──すくなくとも三メートルの距離はあった──では、<ティンリー・ブリット>(注:保険会社側の法律会社)の弁護士諸氏がこれ以上は考えられないほどの騒音をたててブリーフケースをあけていた。

 実際には一トンもないが、それほど重い椅子を、私も引いた経験がある。その時、広大な会議テーブルの向いに座った得意先の重役たちの表情を読み取るには、双眼鏡が欲しかった。そして、なぜかは知らないが、エリートというのは、本当に、会議の準備に異様な音を立てるのだ。ルーディが見るような、『掛け金がかちかち鳴り、ジッパーがじいっっという音をたて、ファイルががさっとつかみだされ、書類がばさばさと音をたてた。数秒のうちに、テーブルのあちこちに書類の山ができ』る、という光景を、私も何度も目にした。
 嫌悪や、皮肉に満ちた感情だけではない。グリシャムは、良心にも光を当てる。次にあげる部分では、主人公のルーディが、システムがもたらす正当な収入に対して、理由のはっきりしない罪悪感を感じている。裁判に勝つと、弁護士であるルーディにも巨額な賠償金の何割かが自動的に入ってくるのだが、ルーディの(この裁判の)目的は金ではない。それにもかかわらず、使いきれないほどの金が入ってくるという不条理……。

公開法廷でグレート・ベネフィット保険(注:戦っている相手の保険会社)を完膚なきまでに叩きつぶすことで、まもなく大金が転がりこんでくる──その思いを、ぼくは昼夜を問わず抑えこもうと努力していた。しかし──これはひと苦労だった。事実、陪審、判事、それに恐怖にふるえあがっている被告側弁護団。そのすべてを合計すれば、出てくる答えは──大金だった。
 どこかがまちがっているにちがいなかった。

 また、ルーディは、死んでゆく被害者を実際に見て、あまりのナマナマしさにショックを受け、正義の心を、恥ずかしげもなく曝け出す。

つまり、これが保険にかかっていない人間の死にゆく姿なのだ。ぼくたちの社会には、金まわりのいい医者たちや輝くばかりの病院があり、最先端技術の粋ともいえる医療機器にも不自由しない医者や、ノーベル賞を受賞した世界クラスの学者が山ほどいるというのに、ダニー・レイ(注:被害者の名前)がまっとうな医療もうけられないまま、こんあふうに衰弱して死んでいくのを手をこまねいて見ているしかないとは……言語道断以外のなにものでもあるまい。〜(中略)〜ぼくはたったひとりで、武器もなく、怯えて、経験もない──しかし、正しい側に立っている人間だった。かりにブラック一家(注:被害者の家族)が今回の訴訟で勝たなかったら、この社会制度には公正さが皆無だということになる。

 正しい側、公正さ……普通、シラフではとても口にできない台詞だ。しかし、人間の心の底に醜い部分が隠れているのと同様に、良心が隠れていることも真実である。
 ルーディは、この裁判に(一応)勝つことができる。賠償金は5千万ドル。だが、被害者はもう死んでしまっている。被害者の家族は、お金などどうでもいい。保険会社を罰したいだけなのだ。だが、法のシステムは、お金の支払いを会社に命じるだけである。ルーディは、一応弁護士なので、判決で出た金額を『ちゃんと法律用箋に書きつけ』るが、『あらためてみると乱暴な字は判読不可能』だ。彼にとっても金額などうでもいいことになっている。そして、彼はその『法律用箋に』、数字でも証言でも法律の条項でもなく、まるでふさわしくない『十字』をひとつ書き、その下にダニー・レイ・ブラックの名前を書きつけ』る。そして、死ぬ前の彼の姿を思い浮かべる。

 ジョン・グリシャム自身も弁護士だった。子供の頃から、読書は好きだったが、小説家になりたいなどと思ったことは一度もなかった。ところが、ある日、自分が担当する裁判が終わった後、偶然に、別の法廷の傍聴席で、ある黒人少女の証言を聞いた。レイプの被害者だった彼女は、その時の様子を克明に話した。話の内容にショックを受けたグリシャムは、この娘の父親だったらレイプした奴らを殺してやりたいと思うはずだと考えた。そして、もし本当にそうなって、その父親の弁護を自分がすることになったら、どうなるだろう………。グリシャムは、それを文字で書いてみた。朝5時に起きて、裁判所へ行く前の2時間、少しずつ書き続けた。こうして出来たのが、デビュー作の『評決のとき』だ。(これは、ファンの間では有名な話で、あちこちのサイトや、ペーパーバックの前書きに書かれている。)
 弁護士という仕事を持ち、作家になる気などない彼を、朝5時に起こさせ、書かせたのは、法システムの挟間にある感情だ。レイプ被害者の少女の気持ちであり、その父親の気持ちである。デビュー作に続くほとんどの作品を私は読んでいるが、「人の気持ち」から離れた作品はひとつもない。そして、嫌悪や嫉妬や欲といった感情の汚泥を、いやというほど掘り出したあげく、「良心」という宝石を掘り当ててくれるのが、グリシャムの魅力である。

《参考文献&参考サイト》
『原告側弁護人(上/下)』ジョン・グリシャム/白石朗訳(新潮文庫)
ジョン・グリシャム公式サイト
ミシシッピ州立大学のジョン・グリシャムのページ


Copyright(c): Reiji Hoshino 著作:星野 礼司

◆「名文美術館・第38回」の感想

*星野さんは、Online小説レビューページ「ポーラスター」(文芸&アート1 リンク)で、数多くのOnline小説を紹介されています。


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