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 その建物を目にしたとたん、耐えがたい憂鬱が私の胸に広がった。耐えがたい、と私は形容した。
 どんなに荒涼とした、あるいはおそろしげな自然の風景でさえ、どこかに詩情を感じることで、いくぶんかは心楽しむことができる。だが、ここにはそんなものはまるでなかったのだ。

 今回の「名文美術館」を書くために、以前に読んだポーの短編『アシャー家の崩壊』(本によっては『アシャー館の崩壊』)を2度読み返し、あらすじをまとめようとしてみたが、ほとんど思い出せないことに気がついた。あらすじも思い出せないようでは、どうせたいした作品ではない、と、いつもなら切り捨てるところだが、今回はどうも妙なことがある。空虚感に似た、ジーンと静まった感覚が強く残っている。いいなと思う短編を読み終わった直後に、私はたいていこんなふうに、数十秒の痴呆体験をするのだ。それで、いろいろ考えた。私は理屈屋だから、理由がはっきりしないと落ち着かない。結局、この短編は普通の小説とはタイプが違うのだ、と結論づけた。この短編は、事件やドラマで読者を感動させるものではない。霧のような「印象」を文字に写した、印象派小説と言える作品だ。
 ゴッホの『ひまわり』がどんな絵か、見たことのない人に説明するとしよう。「枯れたひまわりの絵だ」と言って、終わりにする人はいないと思う。それではあんまりだ。たいていの人は、黄色と緑の色づかいや、ゴッホ独特の短い線をぐいぐい繋げていくタッチ、そして全体が醸し出す異様な雰囲気などを説明したくなるのではないだろうか。ひまわりが描いてある、というだけでは、説明し切れないことが多すぎる。何が描いてあるか、より、どう描いてあるか、が、印象派の絵の本質だということは、誰でも薄々感じていると思う。
 印象派の音楽でも、似たことが言える。ドビッシーやラベルの曲を、歌って人に聞かせることは難しい。(もちろん例外はあるが)歌えるようなメロディがほとんどないせいだと思う。ただ、覚えやすいメロディーがないからといって、聞いたそばから忘れてしまうものでもない。心に残るのは、曲のムードだ。モチーフやその展開ではなく、響きが生むムードが根強く残る。
 ポーの短編はどうだろうか。ひとまず、思い出せないあらすじを、無理矢理に思い出して紹介しよう。語り手である『私』は、極度の神経症に悩む友人ロデリック・アシャーを見舞うために、アシャー館に行く。そこに滞在している間に、アシャーの妹がたまたま病気で死ぬ。ところがある嵐の晩、死んだはずの妹が自力で棺桶から出てくる。それを見たアシャーは、ショックのあまり死んでしまう、というあらすじだ。……つまらん。だいいち、必然性が何もない。だが、ポーの作品でストーリーを云々いっても、仕方がない。作品の本質は、ムードにあるのだから。
 『黄金虫』や『モルグ街の殺人』など、ポーの推理ものは、私も昔に読んだことがあった。推理小説の元祖と言われる作家だけあって、やはり……古いな、と、その時は感じた。(シャーロック・ホームズをはじめ、ポーを原型にした推理物をすでに読み過ぎていたせいもある。)ところが、2年ほど前、ラジオを聞いていたら、アメリカ西海岸のクラブカルチャーの1つとして、ゴシック・クラブというものが紹介され、そこでポーが、ゴシックの元祖として、崇拝されていることを知った。ゴシック・クラブというのは、おどろおどろしい内装の店内にはおどろおどろしい音楽が流れ、死人のようなメークをし、黒い服やマントを着た若者が集まるクラブである。中でも有名なクラブの店名が、ポーの作品『アシャー家の〜』の原題から取った『ハウス・オブ・アシャー』だった。こんな悪趣味なクラブが、最新流行になっているのも驚きだったが、ゴシックカルチャーなどという現象を生み出したポーの作品にも興味を持った。確かに『アシャー家の〜』が持つムードは、上に書いたクラブの様子のように、暗く、重苦しく、神経症と死の臭いがする。
 作曲家のドビッシーは、若い頃に『アシャー家の〜』を読み、その神経症的な暗さに取り憑かれてしまった。この作品をテーマにしたシンフォニーやオペラまで構想したらしい。知人に宛てた手紙の中に、彼はこんなことを書いている。

私は、このところずっと、アシャー館に住んでいる。ここは、神経を穏やかにしておくのに、必ずしもいい場所とは言えない。というより、正反対だ。ここに来た人は、石同士が互いに語り合っている声に聞き入るという、奇妙な習慣がついてしまう。また、館が崩壊することを、自然なことというよりむしろ必然的なこととして、期待するようになる。それだけではない、君にはわかっていると思うが、私はここに居る人たちが、他の人たちよりずっと好きだと白状しよう。ノーマルでバランスの取れた人たちを、私は信じることができないのだ。(『EDGAR ALLAN POE / THE FALL OF THE HOUSE OF USHER AND OTHER WRITINGS』PENGUIN CLASSICS の序文より訳出)

 『アシャー家〜』を読んだ私の印象を、批評家が使うようなもっともらしい言葉で言えば、甘美な敗北、だ。この話は(様々な解釈があるだろうが)理性と狂気の戦い、と見ることができる。人間の理屈と、そんなもの歯牙(しが)にもかけないオカルト現象が戦っている。語り手の『私』は、とにかく理屈屋で、オカルト現象をなんとか理屈づけようとがんばる。友人アシャーの妹の幽霊のようなものを見ても、それを幽霊とは言わず、あくまでも『説明できない不思議な感覚』がした、などという言い方をする。嵐の晩に、アシャーが、妹を生きながら葬ってしまったという妄想にとらわれ、気が狂いそうになるのを助けるのに、『私』は本を朗読して聞かせ、友人の中に理性の力を呼びさまそうとする。しかし、本の中の物語と合わせるように、家の中で物音がしたり、嵐に混じって叫び声が聞こえて来たりする。異常な偶然の一致が二度も起ったことに、『私』はパニックを起こしそうになるが、それでも理性の力で自制し、本を朗読し続ける。そして最後に、屋敷の扉が魔法のように勝手に開き、(『私』はもちろん、嵐の突風のせいだ、と理屈をつける。)棺桶の中で死んでいるはずのアシャーの妹がそこに立っている。アシャーは(前述したように)ショック死。ここでついに『私』は耐えられなくなり、アシャー家を逃げ出すのである。
 私は(最初にも書いたが)理屈屋だ。オカルト現象となると、とことん疑ってかかる。だが、この話を読んでいると、自分の心の底からもやもやとした声が聞こえてくる気がした。「いいぞ! 理屈が全てのはずがあるもんか。理屈なんて、めちゃくちゃになってしまえ」という声だ。そしてラストシーンでは、私も、主人公と一緒になって理屈を投げ出していた。(理屈といっしょに、筋書きも投げ出してしまったのかもしれない。)その後に残った印象はというと……確かに恐いは恐い。だがその中に、奇妙な安心感がある。超自然的な力に敗北した後に、心に平和が訪れたような気がした。
 ポーの作品は印象派だが、色彩と光の印象派ではない。妄想と暗闇の印象派だ。その暗い甘さは、多くの人の心に取り憑いてしまう。

《参考文献》

『アモンティラードの樽 その他』エドガー・アラン・ポー/大岡玲訳(小学館)
『ポー名作集』丸谷才一訳(中公文庫)
『EDGAR ALLAN POE / THE FALL OF THE HOUSE OF USHER AND OTHER WRITINGS』(PENGUIN CLASSICS )


Copyright(c): Reiji Hoshino 著作:星野 礼司

◆「名文美術館・第39回」の感想

*星野さんは、Online小説レビューページ「ポーラスター」(文芸&アート1 リンク)で、数多くのOnline小説を紹介されています。


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