●T-Timeファイル ●バックナンバー   ●表紙に戻る


 妻を娶るために墓へ行った。
 墓地は海に近い砂丘地にあった。
      (中略)
 その女はこの墓地に埋葬されている。書類にはそうタイプされていた。
 自分は死者と結婚するわけだと男は思った。
 死者が自分の妻になれるなら、この自分もまた死んでいるにちがいない。
 男は書類をポケットにもどして車を降りた。
 フェンダーミラーで服装に乱れがないかを確かめた。
 死人にしては顔色がいいと男は鏡に映る顔を見て思った。おそらく、妻になる女もそうにちがいなかった。

「好きな日本の作家は?」と尋ねられると、三人の名前が思い浮かぶ。柴田錬三郎、阿佐田哲也、そして神林長平である。柴田錬三郎、阿佐田哲也両氏については、いまさら説明する必要もないだろう。しかし、神林長平の名前を挙げると、怪訝な顔をされることが多い。名前すら知らない人もいる。日本を代表するSF作家なのだが、その作品のレベルに比べて、知名度は今ひとつだ。もっと評価されてもいい作家なのだが、日本の文壇におけるSF小説の地位の低さが災いしているのだろうか。

 神林長平はデビュー以来、「ハード系のSF作家」といわれてきた。工業高校出身という経歴から、専門知識をベースにしたメカニックの描写は、さすがに迫力がある。それは、「完璧な涙」でも遺憾なく発揮されている。以下は、主人公の敵役として登場する戦車を描いた部分だ。

燃料は水だった。原子炉で水を水素燃料と酸素に分離し、燃料電池や二種類の動力機関用に使うのだった。それは温度差発電で得た電力で、水分解システムを作動した。同時に外気を吸い込み水分を集めるコンプレッサを起動した。

 わたしのようなメカに弱い読者をも納得させてしまう緻密な描写が、神林作品の魅力であることは確かである。しかし、わたしは、作者が描く世界が内包する奥深い文学性に、強く惹かれる。神林長平との最初の出会いである「Uの世界」を読んで思ったものだ。これは、未来を舞台にした純文学作品だ、と。そして、ハード面の緻密な描写力と、文学的なイマジネーションが結合した最高の果実が、「完璧な涙」なのである。

 ストーリーの概略を少しだけ説明しておこうか。核戦争で荒廃した未来社会、人類は銀妖子と呼ばれる自動ロボットにすべてを依存して暮らしていた。本海宥現(もとみひろみ)は、歴史研究家の家庭に二男として生まれるが、彼には生まれたときから感情というものがなかった。家族との心の交流が持てない宥現は、考古研究所で働く兄の薦めで、家を出て砂漠の遺跡発掘基地で暮らすことになる。そこで、過去の遺物である戦車と遭遇する。
 その戦車は、完全報復装置としてプログラミングされていた。攻撃してきた相手を完全に殲滅する。戦車は、宥現を報復相手として認識した。宥現は、旅族(砂漠の海賊)の魔姫(まき)と共に逃走するが、戦車はどこまでも宥現のあとを追いかけてくる。砂漠の中の、過去と未来が錯綜する異空間での逃走劇が幕を上げた。それは、旅賊となった宥現が、自分の感情を追い求める旅でもあった──。

 冒頭に書きだした文節は、死者の街での光景だ。熱砂の海で溺れた宥現は、病院のベッドの上で意識を取り戻す。その街の住人は、すべて死者だった。エリクサーと呼ばれる薬剤で、屍体を蘇生させたのだ。エリクサーを飲まなければ、肉体は崩壊してしまう。その生きる屍である住人たちは、エリクサーを供給する何者かによって、すべての行動を管理されている……。
 なんともシュールな設定ではないか。こうした幻惑的な異空間が、宥現の前にはいくつも待ちかまえているのである。そして、決定的な隠し味がもう一つ。

 感情が生じさせた涙は
 時間を封じ込んだ水球

 これは、「完璧な涙」の巻頭に掲げられた一文である。この繊細なロマンチシズムが、物語に瑞々しい潤いを与えている。欲張りな作者は、読者に対しても、「完璧な涙」を求めている。

Copyright(c): Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋

◆「名文美術館」の感想

●バックナンバー ●表紙に戻る