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彼にとって神とは、十字架にかかった生身の、身近な存在だった。彼は今でも神を信じていた。そして、腹の底から神を憎んだ! 苦しみのあまり彼は叫んでいた。「ばかやろう! このくそったれめ!」教会の中に彼の声がこだました。
      (中略)
 ラポワントは妻の死をそうやって乗り越えた。たった一度の神を冒涜する憤怒の叫び。それに続く沈黙と苦悩。彼はリシュールを思って悲嘆にくれたりはしなかった。嘆き悲しむことは、彼女の死を認めることになるからだ。葬儀が終わってなにがなんだかわからないままに二、三か月が過ぎ、それから自分のエネルギーをすべて仕事に向けはじめた 。ザ・メインはずたずたになった彼の心そのものだった。心の傷口に薄皮が張り、そのおかげでもう傷つくことはなかったが、そのせいで傷口が癒えることもなかった

 トレヴェニアンは寡作の作家である。全著作は五つの長編だけ。しかし、そのすべてが一級品に仕上がっている。
 わたしが最初に読んだのは「アイガー・サンクション」。この処女作で、トレヴェニアンという奇妙な名前のベストセラー作家が誕生した。この作品は、クリント・イーストウッド主演で映画化されたので、小説を読んでいない人もタイトル名を記憶している方は多いと思う。
「アイガー・サンクション」の読み始めは、あまりいい印象ではなかった。ハリウッドの安っぽい娯楽映画さながらに、荒唐無稽な設定や人物のオンパレード。途中で本を閉じなかったのは、主人公の殺し屋に魅力を覚えたからだ。いわゆるピカレスクロマン(悪漢小説)なのだが、これほどまでに主人公の性格を冷酷非情に描いたものは珍しい。それが、スイスの名峰、アイガーの岩壁に挑むクライミング小説に様相を変えるとき、俄然、面白くなる。まさに迫真の描写力、作者自身の実体験がベースにあるからだろうか。
 2作目の「ルー・サンクション」は、「アイガ……」と同じ主人公の続編だ。アイガーのクライミングシーンのような緊迫した臨場感こそないが、ストーリーも人物描写もより洗練されている。そして、いよいよ三作目の「夢果つる街」が登場する。いつになく前振りに他の作品のことを取り上げたのは、その違いを強調したいがためだ。わたしは、「アイガー……」のことをハリウッドの娯楽映画のようだと書いた。「夢果つる街」を例えるならば、巨匠の重厚な白黒映画だ。リアリズムに徹した冷めた筆致で、人生の哀感を、いや、人間というものの哀しい性を、じっくりと描き切っている。とても、「アイガー……」を書いた作家の筆とは思えないのだ。
 小説の舞台は、「ザ・メイン」と呼ばれるカナダのモントリオール市にある猥雑な一地区。その地区をパトロールするラポワント警部補が主人公だ。この頑固でタフな53歳の警官は、若くして妻を亡くし、心臓のそばに動脈瘤という爆弾をかかえている。冒頭に掲げた一文は、ラポワントが結婚後わずか一年にして妻のリシュールを失ったときの描写である。「ザ・メイン」に対する老警官の近親的感情が、この文章だけで理解してもらえるだろう。
 ストーリーは、いたってシンプルである。「ザ・メイン」で起こった殺人事件を、ラポワントが執拗に掘り下げて行く。相棒は見習い刑事ガットマン、大卒のインテリで、すべてにおいてラポワントとは対照的な人物である。ガットマンは最初、独裁者まがいのラポワントの強引な捜査手法に反発するが、次第にラポワントの人間的な魅力に惹かれて行く……。
 こうして書いているだけでも、類似したストーリーの小説や映画を、いくつも思い浮かべることができる。それでもなお、「夢果つる街」の読後感が芳醇なのは、その描写力によるところが大きい。一癖も二癖もある登場人物たちや背景をしっかり描くことで、重厚な人間ドラマに仕上がった。感心した、いや、感嘆した文章を、いくつか紹介しようか。

ガットマンは微動しない中国人をちらりと見た。「ずっとああやってるんですか? ただ、ああして立っているのって、なんか奇怪だな」
「どういう意味だ? 奇怪とは?」
(中略)ガットマンはすわり直し、また中国人を見た。「彼はきっと孤独なんですね」
 ラポワントは肩をすくめた。「どうかな。孤独なんてものは通り越しているのさ」

 これは、A-ワン・カフェのオーナーの老中国人を描いた部分。このA-ワン・カフェは、またあとで登場する。

「どうだ?」ラポワントが訊いた。「うまかったか?」
 ガットマンは皿を脇へ押しやり、首を振った。「なんていう料理なんですか?」
「名前なんかないと思うね」
「そうでしょうね」
 ある種のプライドをこめてラポワントはいった。「これはモントリオールでいちばんまずい食い物なんだ。たぶんカナダ一だろうよ。だから、話があるときはいつでもここへ来る。じゃま者が絶対いないからな」

 こんな店が残っている街、それが「ザ・メイン」なのだ。

 彼女の屈託のない表情を見ているのは楽しかった。この子はまだ仮面をつけていない。うまくうそはつけるが、まだそらとぼけたりはできない。人を口車には乗せても、まだ二心ある行動をとる力はない。粗野で悪趣味だが、すれきってはいない。この子はまだ若く、傷つきやすいのだ。一方、おれは、年寄りで……タフだ。

 これは、ラポワントのアパートに転がり込んできた家出娘の描写。ラポワントの視線で描くことで、ラポワントの人となりが鮮明に浮き上がってくる。
 ラポワントはしばしば、ため息をつく。生きることは、哀しいことだ。ラポワントのため息は、あきらめのため息である。でも、生きているのも悪くはない……。ラポワントのため息には、暖かい心根がこもっている。哀しい結末を描いて読後感があくまで爽やかなのは、ラポワントの人生観が、いや、作者の人生観が、決して後ろ向きではないからだろう。読み終えたあとで、読者もまた万感の思いを込めて、深いため息をつくはずである。

 トレヴェニアンの「夢果つる街」に続く第4作は「シブミ」。シブミ、すなわち渋みのことで、日本古来の精神哲学が重大なテーマになっている。第5作が「バスク、真夏の死」。これは、男と女の恋愛を核に描かれている。こうして順繰りに読んで行くと、「夢果つる街」以降の変貌ぶりにはいつも驚かされる。しかし、作者の立場で考えてみると、その思い入れが理解できるような気がする。
 最初の「アイガー・サンクション」では、いわゆる“小説”を書いてみたかったのだ。「ルー・サンクション」では、作家としての実力を誇示した。「夢果つる街」では、人生を書いた。「シブミ」では、哲学を表現した。「バスク、真夏の死」では、愛を描いた。
 トレヴェニアンは、書きたいことをすべて書いてしまったのではないだろうか。金銭に淡泊な彼は、売るための原稿を書く気にはなれなかった。だからこそ、寡作な作家が残した五つの長編は、特異な光彩を放っている。

Copyright(c): Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋

◆「名文美術館」の感想

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