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 洗面所の鏡で顔を直しながら、加奈子はふっと思った。
(三十代の終わりか)
 目尻の小皺は確実に増えているようだ。目の下にも、かすかな弛みが見てとれる。
(これからは、もっとお化粧を濃くした方がいいかもしれないわ)
 出がけには控えたけれど、食事を終わった今では、香水を使ってもいいだろう。
 あの虹鱒だって、アーモンドの香りをぷんぷんさせていたもの。
「珈琲が入ったよ」
 と、小峯の声がする。
 加奈子は鏡の中の顔に問いかけてみる。
(あたしは、やっぱりあの人に惹かれているのかしらん)
 鏡の中の顔は、もの言いたげに見えたが、勿論、答えてはくれなかった。

 三月号の名文美術館でわたしは、日本の好きな作家を三人あげた。では、好きな作家の文章は? と尋ねられたら、まっさきに神吉拓郎の作品を思い浮かべる。口当たりは、あくまでさっぱりしていて上品。しかし、そのあとで、芳醇な味わいがじんわりと心の中に広がってくる。
 神吉拓郎は短編作家である。わたしの知る限り、長編の作品は「おらんだ恋歌」ひとつだけだ。だらだらと長く書く必要などないのである。そんな野暮なことはしない。一を語って十を語る。短い作品の中に、人生の滋味がたっぷりと詰まっている。
 さて、今月号に神吉拓郎を取り上げると決めたとき、どの作品集を選択するか、大いに迷った。放送作家として知られた神吉拓郎が、作家としてデビューした「ブラックバス」。すでに完成された作家だった。直木賞を獲った「私生活」の陰影も印象深い。そして、含蓄とペーソスに富んだ、軽妙なエッセイの数々。どの作品にも、作者の凛とした姿勢が固持されている。
 悩んだ末に選んだのが、「洋食セーヌ軒」。十七の掌編が収録されている。「四季の味」という料理雑誌に発表した作品を集めたもので、表題作の「洋食セーヌ軒」からもうかがえるように、そのすべてが「食」にまつわる物語だ。
 正直、わたしはグルメという言葉があまり好きではない。偏見だとはわかっていても、「そんなもの、金持の道楽だ」と、心のどこかで蔑視している部分がある。そんなわたしが、読んでいて大いに食欲をそそられた。作者の食に対する深い蘊蓄にもよるが、そうした食べ物の描写が、作品の背景として最大限に生かされているからだろう。余談だが、神吉拓郎は「たべもの芳名録」で、第一回グルメ文学賞を受賞している。独断を承知で言えば、グルメ文においては池波正太郎と双璧だと思う。
 作者の紹介が長くなってしまった。冒頭に掲げた一文は、「洋食セーヌ軒」に収録された「ホーム・サイズの鱒」のラストの部分だ。四十半ばのバツ一独身男の小峯と、夫と死別した三十後半の加奈子。手料理好きの小峯が、加奈子を自宅に招いて昼食を食べている。ただ、それだけの物語だ。しかし、中年を迎えた独身男女の心の機微を、さりげなく、そして味わい深く描いている。独りで生きることの余裕と哀感、その塩加減が玄妙なのである。
 神吉拓郎は、ラストシーンの名手だ。これは、短編作家全般に言える特長なのかもしれないが、神吉拓郎作品の読後の余韻は、とりわけ長く心にとどまっている。「洋食セーヌ軒」に収録された作品の中で、印象に残っているラストシーンを他にいくつか上げてみようか。
 
「行こうか」
 店を出るとき、大通りには、強い陽が溢れている。また暑い日の始まりだった。
 二人は、中華街を抜けると、別々に車を拾うことにした。
 かるく手を振って、別れを告げると、彼女はシートに深く身体を沈めた。またひとつ、自分のなかで、なにかが毀れたのを感じた。涙がこぼれそうになっていたが、眼鏡のレンズが濃い色に変わっていて、それを隠してくれた。

(「中華街の小さな店」)

歩いて行く途中で、秋子はひとこと、
「あれから、五十年近く経ったのね」
 と言った。
 大通りへ出ると、井上は、秋子の為に空き車を拾った。四谷の方に住んでいる娘夫婦のところへ帰るのだそうである。
 秋子の車を見送って、井上はゆっくり歩き出した。もうすこし歩いていたかった。

(「天ぷらの味」)

 午後になると、入道雲が湧いた。
 籐椅子に寝そべって、次第にせり上がって行く雲の峰を眺めながら、平山は、なくした妻のことを考えていた。

(「雲の峰」)

 神吉拓郎の作品を読んでいると、ときおりわたしは心の中でニヤリと笑う。神吉拓郎の文章は、いわゆる名文家のような派手さはない。玄人好みの文章なのである。その良さがわかる俺の文学的センスも、まんざら捨てたものではない……。

Copyright(c): Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋

◆「名文美術館」の感想

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