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 ポワソニエール広場からサン・ドニ街にいたる恰好な通りをおれはぶらつき出した。孤独と暗闇とがおれをすっかり酔っぱらわせた。人気のない通りで夜は裸になっていた。おれも夜のように裸になりたかった。ズボンを脱いで、腕にひっかけた。おれの股間と夜の冷気とを結びつけたかったのだ。しびれるような自由の境地にひたっていた。しろものが大きくなるのが感じられた。屹立した器官をおれは片手に握りしめていた。
 作品の内容に入る前に、訳者の生田耕作について少し書いておこうか。わたしは、フランス暗黒文学の研究者である生田耕作を全面的に信頼している。この人の訳した本なら面白いに違いない、という安心感がある。生田耕作の訳文でわたしは、バタイユ、マンディアルグ、サンドラール、そしてセリーヌを知った。フランス文学の訳者では他に渋沢龍彦、ドイツ文学なら種村李弘がいる。読者の嗜好にもよるのだろうが、わたしにとってこれらの訳者の名前は、読書の心強い羅針盤なのである。
 さて、この「マダム・エドワルダ」、1941年にピエール・アンジェリックなる匿名で、非合法出版ポルノグラフィとして発表された。こんにちでは、20世紀を代表する思想家・文学者の作品として、すでに古典的名作の地位を得ている。猥雑なポルノ小説として世に出た作品が、崇高な文学作品に変貌を遂げた。いや、時代が変貌したというべきか。
 冒頭に掲げた一文は、語り手である男が、夜の繁華街をさまよっているときの情景である。男の欲望を描いて、まるで散文詩のような透明感ある文章ではないか。男は淫売屋にしけこみ、娼婦のマダム・エドワルダと出会う。「わたしは《神様》よ」とのたまうエドワルダとの触れあいの描写が、また美しい。

「接吻して!」
「だけど」おれはたじろいだ。「人前でかい?」
「もちろんよ!」
 おれはふるえた。彼女を見つめた。平然と、いともやさしく微笑みかけられ、おれの身体を戦慄が走った。けっきょく、おれは、ひざまずき、よろめきながら、生々しい傷口に唇をおしあてた。裸の太股が耳を撫でた。波のうねりが聞こえるようだった。大きな貝殻に耳を寄せると、こんな音がするものだ。淫売屋の場違いな雰囲気のなかで、さらに周囲を取り巻く喧噪のなかで(おれは息づまる思いだった、真っ赤になって、汗をたらし)、おれは奇妙な宙づりの状態におかれていた、さながらエドワルダもおれも、海を前に嵐の闇のなかに踏み迷いでもしたように。

 そのあと、二人は個室に場所を移すのだが、残念ながら、その場面はすべて伏せ字になっている。非合法出版した版元も、そのあまりにあからさまな性描写に恐れを抱いたのか。
 充足した男は、エドワルダに促されるままに、夜の街に出る。そのときの彼女の狂態が、ときに隠喩を含んだ晦渋な(哲学的な)表現で、克明に描かれている。

 切断された蚯蚓(みみず)のように、呼吸を痙攣させ、彼女はもがいた。その上にかがみ込んで、彼女が歯で噛みちぎる仮面のレース垂れを、おれは取り上げねばならなかった。乱れたしぐさで毛叢までむきだしだった。ボレロから乳房がはみだし……平らな白い腹と、そして靴下のつけねまでまる見えだった。鬱蒼とした翳りのなかに大きく口をひらいた狭間(はざま)。その裸体は、いまでは、意味の不在と、同時に死者の衣が持つ意味の過剰をそなえていた。最も異様なのは──最も痛ましいのは──マダム・エドワルダがそのなかに閉じこもった沈黙だった。

 それから二人はタクシーに乗り、エドワルダは運転手の頑丈な荒くれ男を挑発して、こともあろうに男の隣で一戦をおっぱじめるのだ。これが、ストーリーのすべてである。凡庸な作家が書いたら、三流のポルノ小説が精一杯の題材だろう。それを、普遍の名作に仕上げたのは、むろん、バタイユの描写力がある。「青空」のようなオーソドックスな“大衆小説”も書けるほどに、バタイユの筆力は万能なのだ。
 
そして、「無神学大全」の著者としての思想。「マダム・エドワルダ」は、神を冒涜する物語だ。狂った娼婦に神を名乗らせることで、神の存在を揶揄している。同じ本に収録されている「眼球譚」はもっと破壊的だ。最後のクライマックスの部分で若い神父が登場するのだが、この神の僕をバタイユは徹底的に蹂躙している。しまいには縊り殺して、その死体からくりぬいた眼球を、性的興奮のための道具として玩弄する。
 どうしてここまで神を憎悪するのか。バタイユ思想の根底を成す〈相反物の符号〉に当てはめれば、答えはすぐに出てくる。神を愛しているからだ。神を必要としているからだ。だからこそ、ヒステリックなまでに神を排斥する。バタイユは少年時代、熱烈なカトリック信者だったという。それが、思春期を境に、徹底的な無神論者に変貌する。
眼球譚」は神を否定する物語だ。「マダム・エドワルダ」も、いわゆる神の存在は否定している。しかし、読後感はまったく違っている。小説手法や文章的な成熟度の違いは、もちろんあるだろう。「眼球譚」がバタイユの処女作であるのに対して、「マダム・エドワルダ」はその10年以上もあとに書かれた作品である。だが、もっと根底の部分で、両作品の間には決定的な違いがあるようにわたしは思う……。
 淫乱で狂った娼婦であるマダム・エドワルダ。
バタイユの〈相反物の符号〉によれば、彼女こそ、清純で神聖な存在だということになる。バタイユはこの物語で、自分なりの“神”を創造しようとしたのではないか。嘲笑されるのを覚悟で言えば、バタイユ版のアベ・マリア物語──。

 今回は、相当に理屈っぽい文章になってしまった。バタイユの思想うんぬんを抜きにしても、「マダム・エドワルダ」は幻想的な物語として、十分に楽しめる。わたしはひそかに、この作品は、エロスを題材にした大人のメルヘンだと思っている。

*タイトルで使用した本の画像は、中扉のものです。この本は図書館で借りてきたのですが、表装のカバーを外してしまったのか、あるいは箱に入っていたのか、表紙にタイトルを記していないのです。仕方がないので、中扉の画像を使わせてもらいました。《文華堂店主》

Copyright(c): Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋

◆「名文美術館」の感想

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