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佐伯は最初に「真面目で、熱心で、信用のできる探偵を知らないか」と訊ねた。そんな探偵がいれば、うちの署で採用しているとおれは答えた。彼は次に「では、とにかく腕のいい探偵を知らないか」と訊ねた。腕がいいなんて形容はいまどき死語に等しいとおれは答えた。彼は今度は「それなら、いっそ金のためなら何でもするという探偵は知らないか」と訊ねた。そんな探偵ならその辺の興信所を探せばいくらでもいるだろうとおれは答えた。すると彼は「なるべくなら個人で事務所を持っているような探偵がいい」と言った。そう言われて、やっとおまえのことが頭に浮かんだ。
 著者とは一面識もないのだが、原さんと呼ばせていただく。名前の「りょう」という漢字がパソコンで変換できないのだ。タイトルで使った文字は、「僚」を加工して作らせてもらった。
 さて、原さんのデビュー作である「そして夜は甦る」、中年探偵、沢崎のシブい魅力が炸裂するハードボイルドサスペンスだ。冒頭に掲げた一文は、沢崎の知り合いである新宿署の警部、錦織(にしごり)のセリフである。
 背景を少し説明しておこうか。沢崎は、失踪したルポライターの佐伯の行方を追っている。佐伯は、沢崎の探偵事務所を訪れるはずだったのだが、その前に忽然と姿を消してしまう。沢崎は、佐伯のマンションに残されたメモから、佐伯に自分を紹介したのは錦織だということを知る。その理由を調べるために、新宿署の錦織を訪ねたのだ。
 錦織のこのセリフだけで、二人の屈折した関係が伝わってくる。錦織は、沢崎の探偵としての力を認めている。しかし、人間的には認めていない。いや、認めたくないのだ。でも、心のどこかに、こいつは信用できるやつだと評価している。そうでなければ、佐伯に沢崎のことを紹介するはずがないではないか。このあたり、強面で口は悪いが、錦織の実直な性格があらわれている。
 二人の屈折した関係も、少し説明しておこうか。沢崎は「渡辺探偵事務所」を個人で運営しているのだが、かつては渡辺という退職警官の下で働いていた。錦織は、渡辺が警察にいたときの直属の部下だった。5年前に渡辺は、暴力団の覚醒剤取引の囮となって警察に協力する。しかし渡辺は、警察から持たされた本物の覚醒剤3キロと、暴力団から受け取った代金の一億円を持ったまま姿を消してしまう。共犯容疑で新宿署に連行された沢崎は、錦織たちの厳しい取り調べを受ける――。
 含蓄のある設定ではないか。渡辺に裏切られた沢崎が、「渡辺探偵事務所」という名前をそのまま使っていることも、沢崎の屈折した心情をあらわしている。

「あの……この事務所の方ですか」
 わたしは返事の代わりに、はげかかったペンキで〈渡辺探偵事務所〉と書かれたドアの鍵を開けてみせた。「渡辺さんですね?」と、コートの男は重ねて訊いた。
「彼に用がおありなら、少なくとも五年前においでになるべきだった。渡辺は昔のパートナーで、今この事務所には私一人しかいない。わたしの名は沢崎です」
 男は戸惑った。「いや、そういうことじゃなくて……この事務所の人に会いに来たのです」

 これは小説の最初のシーンで、沢崎が海部と名乗る正体不明の男と初めて顔を合わしたときのやりとり。どうです、ハードボイルドしてるでしょ? 小説における会話の重要性は高いが、ハードボイルドではセリフが生命線である。どれだけ“気の利いた”セリフを生み出せるかで、その作品の価値が決まってしまう……、これは極論だろうか。

「四十です」と、私は答えた。
「確かに、そういう年齢通りにお見えになる。これは意外と大事なことです。人間はあまり老けて見えても若く見えてもいけないようです。嘘の外見では、内面の嘘を被い隠すことは出来ませんからね。
(中略)
「嘘があってはいけませんか」と私は訊いた。「人間も、美術品のように?」
 更科氏は食事を終えて、箸を置いた。一瞬、彼は私の質問がどこから繋がっているのか分からない様子だった。
「いや……美術というのは、いわば虚構と想像力の世界ですから、むしろ嘘で成り立っています。だが、真正の芸術はみずからその嘘に耐える力があります。われわれ人間はそうはいきません。普通の人間は自分で自分の嘘に耐えきれなくなるのです」
「普通の人間がですか。そんなことは信じられませんね。自分で自分につく嘘ほど見抜けないものはありませんよ」
(中略)
「沢崎さん、あなたは自分に嘘をつかなければ生きていられないような方には見えませんよ」
「そんなことはありません。すぐにばれるような嘘はつかないでしょうが、自分で見抜けないような嘘をどれだけついているか、こればかりは本人には判りませんからね」
「真実というのは、ばれない嘘のことだ――と言いますからね」更科氏はわざと俗っぽい口調で言った。


 引用が少々長くなってしまったが、これは佐伯の義父である更科修蔵と沢崎とのやりとり。高名な美術評論家で、巨大な企業グループの実質的なオーナーである更科氏に対して、臆するこくなく論戦を挑む沢崎のヒネた態度が心地よい。

「昨日の電話でも言ったように――」と、韮塚は食いかけのトーストを皿に戻しながら言った。「更科氏は貴重な時間をさいて、きみと話しておられる。きみの好奇心については、のちほど私のほうから差し支えのない範囲で話しても構わない。しかし、こことすみやかに氏の質問に答えてもらいたい。そのほうがきみにとっても効率の良い仕事をすることになるはずだ。それは私が保証する」
 私は更科氏に言った。「弁護士を雇えるような身分ではないので、彼のいまの忠告を正しく理解できたかどうか自信がないのですが――要するに彼は、ぐずぐず言わずに知っていることを喋ったほうがてっとり早く金になるぞ、と言ってくれているのですか」
 韮塚は唖然とした顔で私を見つめていた。更科氏はちょっとたじろいだような表情を見せた。意外にも、佐伯名緒子はうつむいたままで懸命におかしさをこらえていた。


 更科家の顧問弁護士である韮塚の高圧的な物言いに対して、沢崎の強烈なカウンターがヒットする。佐伯名緒子は、失踪した佐伯の妻で、更科氏の娘である。以降、沢崎は佐伯名緒子の正式な依頼を受けて、この事件の黒幕を猟犬のように執拗に追いつめて行く。
 気持がいいから、もう少し紹介しようか。以下の文はセリフではないが、この小説は一人称で語られているので、地の文も沢崎の独白めいた味わいがある。

「気をつけて運転してくれよ」と、長谷川が言った。「探偵さん、本当はあんたの車はお嬢さんを乗せられるような代物じゃないんだから」
 私は右手を立てて、諒解の合図を送った。彼は助手席のドアを閉め、ウィンドー越しに名緒子に挨拶した。私はベンツのそばでやけに緊張しているブルーバードのイグニッション・キーを回した。来年は自由契約必死の控えのロートル選手が、大リーガーの入団で発奮してクリーンヒットをとばすこともあるのだ。エンジンは奇蹟的に一回でスタートした。


 彼女の第一印象は強いていえば哀しい明るさとでも形容するしかないようなものだった。ブザーに応えてアパートのドアを細めに開けた海部雅美は、四十才前後の顔色のすぐれない女だった。化粧をしていれば、五年前なら男好きのする顔だったろうと思わせるような女だった。五年前には、三年前なら……と思わせたかも知れない。

 ハードボイルド小説を読んでいると、なんだか自分でも無性に書いてみたくなる。たぶん、こんなかっこいいセリフをおれも一度はしゃべってみたいという気持が、心のどこかにあるのだろう。現実には無理だから、物語で自分の分身をこしらえて、とっておきのセリフをしゃべらせる。しかし、これが難しいのだ。言葉にそれなりの重みがなければ、気障ったらしい嫌味なセリフになってしまう。ハードボイルドは、人生経験豊富な作家にしか書けない――、評論家がよく口にする言葉だが、わたしもその通りだと思う。
 本に記載してある略歴によると、原さんはフリージャズのピアニストという経歴を持っている。30歳頃から意識的に翻訳ミステリを乱読、とくにチャンドラーに心酔した、と書いてある。ある編集者と一緒に呑んだとき、原さんのことが話題になったことがある。その人は、原さんの作品をチャンドラーの物真似と断じて、批判的だった。
 確かにチャンドラーの作風を模倣している。作者もそのことを隠していない。しかし、作者が42歳のときに発表したこの作品には、原さんの人生経験に根ざした味わい深いセリフが満ちている。その言葉(セリフ)は、原さんのオリジナルである。翌年に発表された沢崎シリーズ第2弾「私が殺した少女」が直木賞を受賞したのも、その点が評価されたのだとわたしは思う。
 デビュー2年にして、特大のホームランをかっ飛ばした原さんだが、待望の沢崎シリーズ第3弾「さらば長き眠り」が発表されるまで、5年余りの歳月がかかっている。残念ながらこの作品は、作者にとっても読者にとっても、満足できるものではなかったようだ。作者はまた、長い眠りに入ってしまった。
 思うに、「そして夜は甦る」「私が殺した少女」の2作で、原さんは42年の人生で紡ぎ上げたセリフを、すべて吐き出してしまったのではないか。新しい言葉(セリフ)を創出するには、5年の歳月は短かすぎるのだ。いつしかまた、原さんが深い眠りから目を覚ましたとき、あの沢崎がシブみを増したセリフとともに帰ってくる――、わたしはそう信じている。そのときを、わたしはいつまでも待っている。私立探偵沢崎とは、それだけ魅力的な男(ナイト)なのだ。

Copyright(c): Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋

◆「名文美術館」の感想

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