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 自分という存在が、ある日突然に、誤って世界に投げ出された一つの意識に過ぎないとしたら、しかも、その投げ出された世界は確かな現実であるのに、自分の存在は宙吊りの幻覚のようなものでしかないとしたら、それに気づいた瞬間から、人は、一体どうやって生きてゆけばよいのだろうか。
否、どうすることが、生きることなのだろうか。
 測量技師Kは行動する。
 常に行動し続け、自己の存在に普遍的な者の承認を得ようとする。
 キルケゴールの言葉を借りれば、世界という確かな現実に『誤って印刷されてしまった一つの活字』のままとして。
 その活字が、世界全体にとっては何の意味も持たない無価値な非存在であることを受け入れはしないし、行動せずに観察するのみ、世界の中で生きるのではなく、世界の外から現実を測量するのみの、ミスプリントの測量技師としてとどまることもせずに、勇敢に、大胆に、決して諦めずに行動する。
 Kの持つ不思議な明るさは何だろう。
 いつかは、きっと、城への迷路を抜けることができると信じているからか。
 Kの行動を支えるのは、そんな希望なのだろうか。
 それとも、Kは最初から絶望しきっているのかもしれない。
 自分の存在が確かな現実ではないという認識がある限り、どんな挫折も意味を持たず、傷つくことも、恐れることも、惨めになることも、決してないのだ。
 城を目指して這い回り、血を流しながら苦闘するKの、不思議に透明な明るさは、Kの根本にある、現実存在としての自己への絶望から生じるものではないだろうか。
 Kの存在の様式を、行動することのみに規定してしまうその本質的な絶望を、Kは、全力を尽くして取り去ろうとしている。
 その絶望から自由になるために、Kは必死で闘うが、他者の手助けを拒み、自己に絶望しながら、実は自己以外の者を決して信じないという頑固さのために、Kの全力を尽くした苦闘は、ますます彼を迷路の奥へと引き込んでしまうのみだ。
 女を愛するのも、他者と関わり合うことで現実存在に近づこうとする闘いの一つだ。
 Kは、総ての女性と誠実に関わろうとする。
 しかし、Kが女を愛することで現実と強いつながりを持とうとしているのに対し、女の方は、逆に、Kを愛することで現実から逃げ出そうと夢見ている。
 存在すること自体が即生きることになるような、自己と対峙することのない無意識的な城の役人や、又、無意識の領域に光を当てる恐怖から逃れるために城の絶対性を盲目的に信じている村人よりも、Kのように覚醒し行動する人間が、女たちにとって魅力があるのは当然だ。
 しかし、結局は女たちもKから離れてしまう。
 自己の存在の根底を揺さぶられるほどのKの非日常的な魅力よりも、確かに存在し続けることの安定感が、生きるためには必要だし、女はいつでも、手段としてではなく、目的として愛されることを望むからだ。
 それでもKは行動する。Kのような、常に運動し続ける精神としての人間は、存在する者としてではなく、存在を対象として、その意味を問い、その姿を明確にする測量技師として生きるしかないのに、彼は、自分自身が確かな現実存在になることを望み、自己の存在に承認を得るため、城を捜し求める。
 ミスプリントの活字としての例外的な異端者の生ではなく、在るべき所に在るべくして生まれてきた現実存在としての生を得るために、Kは、行動し続ける。
 しかし、例外者が自らの例外性を普遍的なものとして他者に認めさせるということは、例外的な者こそ真であり、普遍的な者が実は世界の付け足しに過ぎないのだということを、証明することでもある。
 だから、城はKを寄せ付けない。
 城は、その周囲を、自己を精神として意識することの決してない、無能で無意識的な、それゆえ確かな現実として存在し、城の絶対性を疑うことのない役人たちで取り囲んでいる。
 彼らは存在の意味など問いはしないし、他の総てのことに関しても、膨大で細かな城の規則に従っているだけで、自ら考えるということは決してしない。
 そんな無能な役人たちで守らなくてはならないほど、城の実体は空虚で無意味なのだ。
 その空虚な無意味さに気づくことのできるような人間を、城は、城の神話を保つために、決して寄せ付けない。
 城を城として、無条件で受け入れる人々は、いわゆる世間という安全な砦の中で、村人として生活することができるが、城に到達しようとする者は、常によそ者であり、城は、世界の中心としての、つまり、存在の極としての城が、実は空虚な無意味であることを、城自身に対して暴露されるのを避けるため、そのよそ者を断固として拒絶する。
 だから、Kは、決して城にたどり着くことは出来ない。
 城への迷路を這い回る、Kの血だらけの旅には、永遠に終りはないし、それに気づきながら闘い続けるKの精神も、肉体の死を乗り越えて、永遠の闘いを行き続けるだろう。

 これは、昭和60年に行われた第7回『文庫による読書感想文コンクール』に入選し、昭和61年4月、角川書店発行の『読書のよろこび』に掲載されたものです。
 北海道地区では最優秀賞を受賞し、全国審査でも入選しました。
 規定枚数5枚という制限の中で、これを書くのはとても大変でしたが、私の中では大好きなキルケゴールとカフカが一体化し、私を通して、自己存在への承認を求めていました。
 カフカについては、暗いと思っている人が多いようですが、決して暗い作風ではありません。
 感想文にも書いたように、どこか晴れ晴れとした明るさがあります。
 どんなに行く手をさえぎられても、決して諦めないカフカの小説の主人公たちは、とても魅力的です。
 当時はまだ幼かった娘が、やがて成長し、私の本棚の『城』を読み、面白いと言ってくれたことが、嬉しく思い出されます。


Copyright(c): Nao Nakazato 著作:中里 奈央(ご遺族)

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中里 奈央(なかざと なお)
某大学哲学科卒業。「第4回盲導犬サーブ記念文学賞」大賞受賞。「第1回日本児童文学新人賞」佳作入選。「第3回のぼりべつ鬼の童話コンテスト」奨励賞受賞。
自らのホームページ(カメママの部屋)を運営する傍ら、多くの文芸サイトに作品を発表。ネット小説配信サイト「かきっと!」では、有料メールマガジン「かきっと! ストーリーズ」の主力作家として活躍。平成15年10月17日、病気のため逝去。

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