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 裕介の腕は美しい。
 周囲からぴしりと張られたようにたるみのない皮膚には、しみもそばかすもほくろさえもない。まるで陶器のようだ。
 黒いTシャツの袖を肩の上まで捲り上げた裕介が、前髪をかきあげたり、シャープペンを走らせたり、片手で頬杖をつきながら問題を考えたりするたびに、無駄のない筋肉の上で、滑らかな皮膚が蛍光灯の光を反射して、私の心を揺らした。
 裕介の腕に触りたい、そのすべすべの冷たそうな肌を手のひらで味わいたいという強い欲望と闘っているために、私の喉は痛いほどに渇き、軽い頭痛さえしていた。
 机に向かっている裕介の腕から目をそらそうと本棚の前に立ち、整然と並ぶたくさんの書物の中から適当に一冊を引き抜いたが、やはりどうしても裕介を見つめずにはいられなかった。
 今、その背中に寄り添って、まだ厚みのない胸に両腕を回したら、裕介は驚いて振り向くだろう。肩を抱いてゆっくりと立たせ、部屋の隅のベッドに誘い、優しく髪をなでながら、そっと寝かせてあげよう。そして、汗ばんだストッキングを脱ぎ、裕介の両手首を縛ってベッドに固定する。
 柔らかなナイロンは、美しい肌に無粋な傷をつけることなく、きりきりと細い手首を締め上げるだろう。
 その間、裕介の口は私の唇でふさいでおくが、声を出そうとしたらパンティを脱いで、アイスクリームのように、喉の奥まで詰め込んであげよう。
 戸惑いと、怯えと、期待に震える少年の体を、視線と手のひらと唇で少しずつ侵略し、徐々に私のものにしてしまうのだ。
 未知の世界に連れて行き、そして、すっかり従順におとなしくなった裕介の滑らかな皮膚を、新しいカッターの良く切れる刃でそっと剥ぎ取り、少年の剥製を作ろう。
 裕介は、今の美しい裕介のままで、永遠に私のものになり、完璧に私の支配下に置かれるのだ……。


 市内でも一等地の高台にあるこの豪邸で、裕介の勉強を見るようになってから三ヶ月たっていた。
 子どものいない結婚生活を七年続けた後、独身に戻ってから半年。
 十年間続けている予備校の講師のほかに家庭教師を始めたのは、生活のためというより、一人きりで物思いに耽ってしまう時間から逃げるためだったが、しかし、皮肉にも、その家庭教師の仕事が余計に私を物思いに引きずり込むことになってしまった。
 裕介は、初めて会った瞬間から、私の存在の核の部分に入り込み、私の自分でも知らなかった思いがけない嗜癖を、意識の表面に呼び覚ましたのだった。
「先生、これは……?」
 去年の公立高校の入試問題に挑戦していた裕介が、不意に振り返っ
た。
 幼さの残った首筋から男を感じさせる肩へと続く優美な曲線に見とれていた私は、あわてて本を元に戻すと、裕介の隣に置いてあるスツールに腰を下ろした。
 息苦しいほど裕介に魅せられてしまっていることを、私は必死で隠していた。今も、自分の後姿を見つめていた私の目の中の欲望に、裕介は気づいていないはずだった。
 第一、この年頃の少年にとって、私ほどの年齢の女は、異性のうちには入らないだろう。勉強を教えるために通ってきている、姉というよりは母と言ってもよい年頃の美しくもない女が、異性として自分を意識しているなどという想像をするには、裕介はあまりにも健全すぎるだろう。
「どこ?」
 私は、必要以上に裕介に近づきすぎないようにしながら、机の上の数学の問題集を覗いた。心臓の鼓動を聞かれてしまうのではないかと、内心ドキドキしながら、その胸の高鳴りに戸惑っていた。
「これ……。ここの角度は出るんだけど、この後はどうすればいい
の?」
「何よ、こんなところで悩んでるの?」
 スツールは少し低いので、それに腰掛けた私は、裕介をちょっと見上げるようにして、わざと驚いて見せた。
 濃いまつげに煙るような目に笑みを浮かべ、裕介は私を見つめた。自分のそんな些細な表情の変化さえもが、私の胸を締め付けるということになど気づいてもいないのだろう。
「今日は、暑いからさ。ちょっと頭がぼけちゃって……」
「この角度を出すのに、どうしてこんな複雑なことをやってるの? また問題を読まないで、いきなりやったんでしょう」
「ばれちゃった?」
 裕介は照れ笑いをしながら、すぐに正解を出した。
「問題というのは、それ自体がヒントなんだから、きちんと読まなくちゃだめだって、いつも言ってるでしょう」
 私の乱暴な言い方に苦笑しながら、裕介は甘えを含んだ声で言い訳
した。
「解ってるんだけどさ、なんか、じれったくて……」
「そんなことを言ってる場合じゃないでしょう。あと半年で受験なんだから。佐野君は、ちょっと人生観が甘いのよね。それだけが心配だな」
 恵まれた環境で育った少年の人生観が甘いのは、本人の責任ではないと思いながらも、私はそう言った。
「そうかな、これでも、意外としっかりしてるんだけどな……」
「そう? じゃあ、しっかりしてるところを見せて、私を安心させてよね。はい、次、この問題……」
「ああ、こういう難しそうなのは大丈夫。チャレンジ精神を刺激されちゃって、頑張る気になるから……」
「三分で正解を出すこと」
 ちょっと無理かなと思いながら、私がそう言うと、裕介は、気合を入れるように、既にぎりぎりまで捲り上げられているTシャツの袖を、片方ずつ、もっと上まで引っ張るようにした。
 ふっと、微かに汗の匂いが漂った。
 誘われているような気がして、思わずそのうっすらと汗ばんだ皮膚に手を伸ばしそうになるのを、私は必死でこらえた。
 腕まくりは、裕介の単なる癖だ。難しい問題に取り掛かるときには、いつもそうするのだ。年上の女の欲望を読み取って、目の前に餌をちらつかせている訳ではない。
「三分で正解を出したら、何をくれる?」
「え?」
 裕介の目が間近にあった。
 まるで、私をその場に張り付けてしまうほど、力のある目だ。
「何って、何もあげないわよ。決まってるでしょう」
 戸惑いを隠すために、怒ったような口調になってしまった私の言葉に、裕介の眉が微かに歪んだ。無言のままで見つめてくる。
 その沈黙と緊張に私が耐え切れなくなったとき、裕介は言った。
「今日は厳しいね」
「厳しいのは、いつものことでしょう」
「俺が嫌い?」
 怖いほどの真剣な表情を向けられて、私は、自分の存在の奥に隠れている柔らかな固まりを、鷲掴みにされたような気がした。
 それが猥雑な不純さの固まりなのか、それともひっそりと持続してきた純粋さのそれなのか、自分でも解らなかった。
「嫌いなはずないじゃない。佐野君は優秀で良い生徒よ。それに……」
 自分の声が震えているのに気づいたとき、私の中で、何かが弾けた。十五歳の少年に翻弄されている自分自身を、その瞬間かなぐり捨てた。
 私は、裕介の顔を両手で挟み、真正面から、その目を見つめた。
「それに、とってもきれいだわ」
 裕介の前髪を額からかき上げながら、ゆっくりと顔を近づけた瞬間、強い力で抱きすくめられていた。
 厚い絨毯の上に押し倒され、唇をふさがれた。性急な指が、しかし思いがけず慣れた動作で、私のブラウスのボタンをはずしていく。
 違う、そうじゃないの。犯すのは、この私の方なの。君はただ、震えながら私に抱かれて、自分を襲う初めての感覚を総て受け入れ、人形のように受動の美を保っていなくてはいけないの……。
 しかし、裕介の指先から、唇から、次々と送り込まれてくる快楽に、抵抗する余裕もなしに翻弄されているのは、私の方だった。二人の体臭が濃く立ち上り、混ざり合った。
 勢いよく押し寄せてくる大きな波に呑み込まれまいとして、必死でしがみついた裕介の腕の硬い筋肉は、内側からほとばしるような熱を発散し、私を跳ね返すほどの激しい動きで、自分の優位を主張した。
 それは十五歳の少年ではなく、一人前の男の動きだった。その腕に、私は思いっきり強く爪を立てた。


「できたよ」
 我に返った私に、裕介が自慢げに微笑んでいる。
「ちょうど三分。正解だと思うな」
 私は、茫然と裕介を見つめた。いつもと変わりない、ごく普通の中学生の顔だった。
 思わず辺りを見回した。
 いつの間にか本棚の前に座り込み、元に戻したはずのムンクの画集を開いている。ベッドに寝ている病人の枕元で、黒い死神が次元を超えて私を見つめていた。
 どうやら、悪魔に魅入られてしまったらしい。 
 重い画集を閉じて立ち上がった。
 たとえ自分の奥深くに何があっても、私には強い自制心がある。家庭教師の最中に、中学生の教え子と情事など持つはずがない。
 ノートを開いて私の採点を待っている裕介の背中に、後ろから近づいた。
 肩の上まで捲り上げられた黒いTシャツの袖から伸びている腕が、蛍
光灯の光を反射している。
 たるみのない皮膚に生々しく残る爪の跡、たった今つけられたばか
りなのは明白な、うっすらと血の滲む赤い爪の跡が、魔術のように私
の眩暈を誘う。

 裕介の腕は美しい。

Copyright(c): Nao Nakazato 著作:中里 奈央(ご遺族)

*この作品は、有料メールマガジン「かきっと! ストーリーズ」に掲載された作品です。
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中里 奈央(なかざと なお)
某大学哲学科卒業。「第4回盲導犬サーブ記念文学賞」大賞受賞。「第1回日本児童文学新人賞」佳作入選。「第3回のぼりべつ鬼の童話コンテスト」奨励賞受賞。
自らのホームページ(カメママの部屋)を運営する傍ら、多くの文芸サイトに作品を発表。ネット小説配信サイト「かきっと!」では、有料メールマガジン「かきっと! ストーリーズ」の主力作家として活躍。平成15年10月17日、病気のため逝去。

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