T-Timeファイル表紙に戻る 中里奈央 作品集

 せっかく洗ったミントンのカップやソーサーを、由佑子(ゆうこ)はサイドボードに戻すことにした。ガラスの奥に慎重にディスプレイし直す。これを買ったのは、もう昔のことだ。新婚旅行でヨーロッパへ行ったときに、イギリスの本店で一目惚れして買った高価なセット。繊細な金細工のレリーフが特徴の、日本では売られていない象牙色の無地のティーセットだ。
 あのときは、まだ結婚というものを解ってはいなかった。夫婦になったら恋人ではなくなるのだとは想像もできなかった。
 由佑子は普段の来客用に決めているジノリの花柄のセットを取り出した。こちらは日本でもデパートに行けば簡単に手に入る。
 取って置きのミントンを使うなんてばかげている。昨日焼いておいたブランデーケーキも出すのはよそう。今日のために精一杯頑張ったことが伝わらないようなさりげない態度を取る自信はあるが、たとえ相手に気づかれなくても、そんなものほしげな自分を私自身が見たくない。
 由佑子はそう思いながら部屋の中を見回した。真っ白なレースのカーテンが、窓から入り込む強い日差しをやわらげている。夫の趣味のシンプルな家具で統一された、まるでモデルルームのようなリビングが、今日は特に清潔に片付いている。この片付きすぎている感じ、いかにも用意万端整えてだれかを待っていた雰囲気を何とかしなくてはと思ったとき、チャイムが鳴った。
 大急ぎで壁の鏡を覗き髪と化粧をチェックする。昨日美容院へ行ったばかりのセミロングの髪が決まりすぎていないこと、念入りに時間をかけた化粧が何気ない薄化粧に見えることを確かめてから、廊下に出た。
 玄関のドアを開けたとたん、心臓が激しく高鳴りだしたが、精一杯、自然に見えるはずの笑顔を作り、上ずらないように抑えた声で客を招き入れた。
 儀礼的な微笑みさえ浮かべることなく、生真面目な態度で挨拶を返し、彼は家の中に入ってきた。紺色のスーツにネクタイの暗い臙脂(えんじ)色が似合っている。普段のラフなスタイルとは違う緊張感のあるスーツ姿は、しかし私のためではないのだと、由佑子は対象のはっきりしない嫉妬を覚え、胸の奥に火傷(やけど)のような痛みを感じた。
 ソファーに腰を下ろすなり、彼は言った。
「渉(わたる)君は……」
「ええ、家庭訪問の日は、できるだけ本人がいないほうが良いと『学級便り』に書いてありましたので、お友達の家に……」
 そう、やはり私と二人きりになるのはいやなのだ。渉がいたほうが良かったのだ。
 由佑子は、既に解っていたことに冷たく念押しをされたような気分で、その場から逃げ出したくなった。美容院に行ったり、家中を完璧に掃除したり、化粧や洋服に気を遣ったりした自分、そして、それを感じさせないようにさりげなさを演じている自分が、惨めに感じられた。
「先生はミルクティーがお好きでしたわね」
 そう言って立ち上がった由佑子に彼が何かを言いかけたのは解ったが、どうせ、お構いなくというたぐいの決まり文句だろう、心のこもった言葉など彼から聞けるはずはないのだからと、耳をふさぎたい思いで、由佑子は彼を無視した。

 彼、柏木洋平は、今年小学三年生になった由佑子の一人息子、渉の担任教師だ。去年に引き続き二年目になる。まだ二十代後半の柏木は、まるで生徒の兄のようにうまくクラスに溶け込み、母親たちからの評判も良い。毎年選出には苦労するPTAの役員のなり手が、柏木のクラスだけは希望者が多いという噂も本当だった。
 礼儀正しく知的でありながら、教育への情熱に満ちた若々しさは、まだ恋人同士だった頃の夫を思い出させるものがあった。
 渉が一年生のときに断りきれずに引き受けた役員を二年目も続けることにしたのは、毎週一度自宅で開いている料理教室以外には仕事をしていないこと、乳幼児や介護の必要な老人を抱えていないことなどの理由で、ほかの母親たちから強い推薦を受けたからという理由以外にも、柏木と接する機会が増えることへの密かな期待が心の奥にあったことを、由佑子は自覚していた。
 PTA主催の行事の打ち合わせのために足繁く学校に通い、そのたびに柏木と接してきたが、由佑子は彼が自分には関心がないことを、その冷たい態度で感じていた。
 全校バザーでポップコーンの店を出したときも、学年レクリエーションでクラス対抗のドッジボール大会を開いたときも、柏木はほかのどのクラスの担任よりも熱心に働いてくれたが、コーンの袋を箱から出すとか、休憩時間に麦茶を配るとか、そんな些細な用事を頼むときでさえ、すぐ傍(そば)にいる由佑子の存在にはまったく気づかないような態度で、別の母親に声をかけるのだった。ただでさえ人手の足りない忙しい活動の中で、たまらずに由佑子のほうから手を出そうとしたとき、渉君のお母さんはそのままそっちをお願いしますと、あっさり言われたこともあった。
 渉君のお母さん……。確かに自分は渉の母親だ。柏木にとって自分は固有名詞の存在ではなく、単なる抽象的なイメージでしかないのだと思い知らされたような気がして、今にも強張りそうな表情を隠すために、周りにいた子どもたちに意味もなく話しかけ、笑い声を上げた。
 その後も接する回数が増えるたびに、彼の態度が、ほかの母親たちの手前抑えてはいるのだろうけれど、由佑子本人にしか解らないような微妙さで、ますます自分を避けていくように由佑子には感じられた。
 それはもしかしたら、密かに柏木を思う気持ちが、隠しているつもりでも伝わってしまうからではないのだろうかと由佑子が思い当たったのは、つい最近のことだ。
 自分の抑えきれない思いがふとした表情や声の調子に現れ、それが教師である柏木にとっては迷惑なのだ。彼の目に自分は若い教師に惑わされている欲求不満のひまな主婦と映っているのに違いない。そう考えると、いても立ってもいられないほどの屈辱感でいっぱいになった。
 だから、PTAの仕事にすっかり慣れた今年度は、副会長にという声もあったのだが、由佑子は完全にPTAから手を引いたのだった。そして今日の家庭訪問が、柏木に会う久しぶりの、由佑子にとっては期待と不安の入り混じる特別の日だった。そしてその特別な日は、早くも惨めな一日になろうとしていた。
 
 自分用のマグカップと柏木のためのジノリを載せたトレイをガラスのテーブルの上に置き、そこから改めてミルクティーの入ったカップを柏木の前に置く。
 たったそれだけのことを、由佑子は手が震えないように、意識して慎重にゆっくりとしなければならなかった。自分が緊張していることを気づかれたくなかった。柏木のことなど、ただ息子の担任としか思っていないことを、はっきりと態度に表したかった。
 表面を取りつくろっている自分自身を内心で嘲笑する別の自分がいたが、そんなもう一人の自分を感じれば感じるほど、余裕のある大人の女性でいたかった。年下の男の前で緊張したりうろたえたりしたら、自分はこれからずっと、それを見ていたもう一人の自分に悩まされそうな気がしたから。
 柏木は、そんな由佑子の心の内などには何の関心もなさそうに、生真面目なよそよそしい態度をくずそうとせず、せっかくのミルクティーにも手をつけずに、テーブルの上に資料を広げると、学校での渉の様子について話し始めた。正面に座っている由佑子の目を話の合間にちらちらと見るだけで、ほとんど資料を見つめてうつむいている。
 柏木に言われるまでもなく、活発で友人が多い渉には、今のところ特に問題はない。そのせいもあって、由佑子は柏木の話をほとんどうわの空で聞いていた。
 渉の学校での様子や成績のことなどを語る柏木の話を聞きたいという以上に、自分の思いを隠すこと、そして偽の感情を表すこと、そのほうが今この瞬間、重要だった。
 家の中に柏木と二人きりでいることを何とも思っていない自分、彼のことなど一人の男として考えたこともない自分、女として充実した幸せに溢れ、心にほんの少しのすきまもない自分……。そんな自分を演じるのに精一杯で、肝心の息子のことを後回しにしているおろかさ自体が、柏木への自分の傾倒をますます自覚させる結果を引き起こそうとも、由佑子の女としてのプライドが、どうしてもそれを選んでしまうのだった。
 ゆとりのある笑顔を浮かべ、柏木の目をしっかりと見つめながらきちんと話を聞き、適当に相槌を打ち、合間には質問もしながら、実は頭の中は真っ白な状態のまま、短い家庭訪問の時間は終わった。
 資料を鞄にしまってから、柏木はすっかり冷めてしまったミルクティーを一気に飲み干し、立ち上がった。
 大きな舞台で主役を演じ終えた直後の女優にでもなったように緊張感を失いそうになりながら、しかし、最後の瞬間まで完璧な自分を保つつもりで、由佑子は柏木を玄関まで見送った。そして、柏木に靴べらを差し出したその瞬間。
 いきなり、由佑子の右手に柏木の手が覆いかぶさった。反射的に手を引こうとしたが、柏木は由佑子の手をしっかりと握って離さない。うろたえて視線を上げると、彼はいつもどおりの、にこりともしない真面目な表情で由佑子を見つめている。
「由佑子さん……」
 名前で呼ばれたことに、と言うより柏木が自分の名前を知っていたこと自体に、由佑子は驚いた。
「できるだけ、あなたから距離を置こうとしてきました」
 柏木は由佑子の手をしっかりと握ったまま、まるで敵を射すくめようとでもするかのような怖いほどの真剣な表情でそう言った。
「自分の気持ちは一生隠し通す覚悟でいました。時々あなたに会えるなら、たとえあなたの目の中に自分がいなくても、遠くからあなたを見たり、あなたの声を聞いたりするだけで、自分はそれだけを心の支えとして生きていこう、そう決意していました」
 間近で見つめられ、あまりにも思いがけない言葉を次々と聞かされ、由佑子は大きな混乱の中に陥ってしまった。
「でも、今年度になったら、あなたはもう学校に来ることはなくなってしまった。これほどの大きな喪失感を味わうのは、人生で初めてです。あなたにとってぼくの存在など何ものでもないことは解っています。今日もただ渉君の担任として、あなたに会うつもりでした。しかしこれ以上、自分の気持ちを抑えていることができなくなってしまった。ただあなたに気持ちを伝えたい、それだけなんです」
 強い力で手を握られたまま、柏木の目から視線をそらすこともできず、由佑子は茫然と立ちすくんでいた。彼の言葉がよく理解できなかった。そして、その言葉の意味が由佑子の心に届くよりも早く、柏木の手を通して、彼の熱い思いが由佑子の体に送り込まれてくる。その柏木の手を、由佑子は思わずもう片方の手で包み込んだ。そして、柏木に引き寄せられるまま、彼の胸に体を預けようとした瞬間、ドアの外に人の気配がした。

「ただいま」
 元気な声を上げて渉が家の中に入ってきたときには、由佑子は既に柏木から体を離し、一人の母親に戻っていた。
「なんだ、先生、まだいたの」
 そう渉に問いかけられた柏木も、すっかり教師の顔になっている。
「その言葉遣いは何ですか」と渉をたしなめてから、由佑子は夢から醒めたような思いで柏木を見つめた。
「しつけが悪くて申し訳ありません」
「今の子どもは、そんなものですよ」
 そう答える柏木自身が、渉の帰宅に救われたと感じていることが由佑子には解った。
 床に落ちていた靴べらを自分で拾い上げ、靴を履くと、柏木は由佑子に向き直り、今日初めて見せる笑顔で言った。
「これで失礼します」
 その言葉の奥にある柏木の強い意志に応えるように、自分でも思いがけないほど自然で素直な微笑を返しながら、由佑子は渉とともに柏木を見送った。


Copyright(c): Nao Nakazato 著作:中里 奈央(ご遺族)

* タイトルバックに「姫御殿」の素材を使用させていただきました。
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中里 奈央(なかざと なお)
某大学哲学科卒業。「第4回盲導犬サーブ記念文学賞」大賞受賞。「第1回日本児童文学新人賞」佳作入選。「第3回のぼりべつ鬼の童話コンテスト」奨励賞受賞。
自らのホームページ(カメママの部屋)を運営する傍ら、多くの文芸サイトに作品を発表。ネット小説配信サイト「かきっと!」では、有料メールマガジン「かきっと! ストーリーズ」の主力作家として活躍。平成15年10月17日、病気のため逝去。

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