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 彼は時計をにらみながら、爆発しそうな自分を抑えていた。八時半になろうとしている。
 
 彼が決めた夕食の時刻は七時丁度。毎日その時間にはドアが控え目にノックされ、息子を甘やかす母親の愚かさと、独裁者に怯える奴隷の卑屈さの混ざる声が聞こえるはずなのだ。
 
「まあくん、お夕食、置いていくわよ」

 なんの断りもなしに食事が遅れたり、自分の気分に合わないものが出されたりすると、彼はいつも食べ終わった食器を階段の上からけり落とした。無理に部屋に押し入ろうとした父を、階下に突き落としたこともある。
 
 そうやって自分の要求を通してきたのだ。総てが自分の思ったとおりに完璧でなくては気に入らなかった。

 それなのに、一体、何をやっているんだ……。

 彼の忍耐はもう限界だった。
 
 あの女をつかまえて、思いっきり怒鳴りつけてやらなくては……。
 
 彼は自分で取り付けたかんぬき型の錠をはずし、ドアを開いた。家の中は明るいが、静まり返っている。
 
 トイレとシャワーは二階にもあるので、一階に下りることは滅多にない。
 
 筋肉の落ちた脚でゆっくりと慎重に階段を踏みしめながら、ふと気づくと、廊下の突き当たりに誰かがいる。やせ細った体によれよれのジャージーを身につけ、伸び放題の乱れた髪におおわれた無表情な顔で彼を見つめている。

 幽鬼のようなその姿はガラス戸に映った彼自身であることに気づいてショックを受けながら、リビングのドアを開けた。

 ソファーで白髪の老女が眠っている。一瞬、祖母かと思ったが、祖父母も父も既に亡くなり、その葬儀にも出なかったことを思い出した。
 
 すっかり年老いて無数の深いしわが刻まれ、既に冷たくなっているその顔は、久しぶりに見る母だった。やっと現実から解放されたことを喜ぶかのように、微かな笑みを浮かべている。
 
 母まで逝ってしまったのか。これから一体どうやって生きていけばいいのだろう。自分を一人にして、みんないなくなってしまうなんて、なんと冷たい、愛情のかけらもない家族なんだ……。

 彼は、怒りを誰にぶつければいいのか解らずに、いらだちながらその場に立っていた。引きこもってから一体どれだけの時間が経過したのか、彼自身にも思い出せなかった。

Copyright(c): Nao Nakazato 著作:中里 奈央(ご遺族)

*「文華」の課題テーマ「時間」で書かれた作品。
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中里 奈央(なかざと なお)
某大学哲学科卒業。「第4回盲導犬サーブ記念文学賞」大賞受賞。「第1回日本児童文学新人賞」佳作入選。「第3回のぼりべつ鬼の童話コンテスト」奨励賞受賞。
自らのホームページ(カメママの部屋)を運営する傍ら、多くの文芸サイトに作品を発表。ネット小説配信サイト「かきっと!」では、有料メールマガジン「かきっと! ストーリーズ」の主力作家として活躍。平成15年10月17日、病気のため逝去。

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