● NEXT (No.5)


 前日。何だか身体が重く、なかなか寝付けなかったのは無意識よりの警告だったのだろうか。
 その日、俺は苦しさのあまりに目を覚ました。息ができない。身体が重い。手足をもぞもぞ動かしながら薄目を開くと、目の前は真っ暗だった。
 何だ、まだ夜か。まどろみの中にいた俺はそう考えて再び目を閉じかけた。だが、それにしては何かおかしい。顔の上に柔らかな感触がかぶさっている。
 布団を頭までかぶってしまったのかと思い、手でめくりあげようとする。が、顔の前の布は異様に重く、押しても叩いてもびくともしなかった。
 そこで俺はようやく気がついたのだ。何かがおかしい、と。
 寝ぼけ眼を擦りつつ俺は布団の洞窟の中を手探りで進んだ。掛け布団から顔を、いや身体を出す。そこには小山ほどに巨大化した枕があった。枕カバーには俺の大好きな桃口麗子ちゃんの水着写真。その昔つけてしまった涎のあとも、そのままあった。
「これはいったいどういうことだ……」
 俺は思わず呟いた。首をぐるりと回してみる。それは大きな大きな、部屋だった。
 部屋の様子には見覚えがあった。これ以上ないほどに老朽化したワンルームアパート。薄汚れた壁と天井。辺りに散乱しているカップラーメンやコンビニ弁当の空容器。大きさこそ違うものの、ここはまさしく見慣れた俺の部屋だった。どうやら俺は、とてつもなく大きな自分の部屋の、その真ん中に敷かれた布団の枕元にへたり込んでいるのだ。
「どうなってんだよ、これ……」
 俺はそのまましばらく呆けていた。二、三度頭を振り、こめかみの辺りを叩いてみる。どうやら夢を見ているわけでも、寝ぼけているわけでもないらしい。これは、現実なのだ。
 枕の小山の端に腰掛け、腕を組んでこの状況について考えてみることにした。すぐに思い浮かんだ説明は二つ。俺の部屋が俺の知らないうちに大きくなったのか。それとも俺が小さくなってしまったのか。
 どちらだろうと俺は考えてみた。が、そのうちに俺は気付いた。正解がどちらでも今の状況には何も変わりはない。また答えが出たところで事態が好転するのかといえば、それも考えにくかった。そしてそれ以前に俺の頭の中は今だ混乱の激流が渦巻いており、思考を潜行させることができる状態ではなかったのだ。
 俺は考えるのはやめにした。もともと細かいことはあまり気にしない性格なのだ。
 とりあえず水でも飲もうと思い、俺は立ち上がった。驚きと、布団から這い出すための運動とで喉が渇いていたのだ。
 歩いて台所の流し台へ向かう。いつもなら手を伸ばせばすぐそこにある台所だが、この大きさでは移動するのも一苦労だ。このときばかりは自分の部屋が狭いことを幸運に思った。
 流し台の壁に取り付く。見上げると、天まで続くかと思われる垂直の壁が切り立っていた。水を飲みたいという気分が一気に挫けそうになる。
 駄目だ。気力を奮い起こし、断崖にへばりつく。腹の虫がぐうと鳴った。巨大化した冷蔵庫の扉はおそらく開けることができないし、そもそも中身は空っぽに等しい。玄関の扉だって開けられるかどうか怪しいものだ。どちらにせよここにいては、そのうちに餓死してしまう。せめて水くらいは確保しなければ。
 ところどころにある段差や傷に手をかけ足をかけ、少しずつ絶壁を登る。三十分ほどかけて、ようやく流し台までたどり着いた。手や足は痺れて感覚が半分なくなり、身体は汗でびしょびしょだった。
「ちくしょう。何でこんな苦労をしなくちゃならないんだ……」
 誰にともなく毒づいてから、俺はステンレスの台座を渡って蛇口へ取り付いた。取っ手の部分を身体全体で押して回転させる。しかし水道の栓は固く締められており、少しずつしか回らない。次から水道の栓をしっかり締めるのはやめておこうと俺は決めた。
 何度目かの挑戦で、ようやく蛇口から水が流れはじめた。俺の顔にも自然と笑みがこぼれる。額の汗をパジャマの袖で拭ってから気付いた。自分がとてもバカらしいことで苦労しているということに。自分の部屋で汗にまみれて苦労して。いったい何をやってるんだ、俺は。
 銀色のスロープを滑り降りて流し台の中に立つ。肩で息をしながら迸る水に口をつけた。完全に渇ききっていた喉が一気に潤された。頭を突っ込み、首から上の汗を流しきる。朝起きてからはじめて感じた、清々しい気分だった。
 その清々しい気分を満喫しようと、水流の中に足を運んだ。そのときだ。
 強い流れに足を取られた。ここがシャワー室でなく、流し台の中であることを一瞬忘れていたのだ。
「え?」
 気付いたときには踵でステンレスの上を滑っていた。そのまま転倒し、尻と背中を床にしたたかに打ちつける。そして、そこに激流が頭から覆い被さってきた。
「ちょ、ちょっと待って……」
 急激な水流により、どんどん流されていく俺の身体。そしてここは、俺の部屋の流し台。水と俺の身体が行き着く場所はただ一ヶ所。
「うそだあああぁっ!」
 そして俺は、大量の水と共に排水溝の闇の中へ落ちていった。

 いったいどれくらいの時間が過ぎたのかはわからない。俺が再び目を覚ましたのは、真っ暗な深い深い闇の中だった。
 一息吸い込んで、すぐにすぐその空気を吐き出した。反射的に何度も咳き込む。何だこの匂いは。腐った牛乳の匂い。ゴミ捨て場のすえた匂い。トイレの便器に吐き出されるゲロの匂い。
 咳が収まると同時に嘔吐感が込み上げてきた。その場に胃の内容物をすべて吐瀉する。目には見えないが、ほとんどが胃液だろう。その匂いは一瞬だけ俺の鼻を突いたが、すぐに周囲の臭気に溶け込んでしまった。
 涙目が少しずつ周りの闇に慣れてくる。コンクリートと思しき壁と地面。すぐ横をすごい勢いで水が流れる音がする。時折飛沫が飛び、俺の顔や服に降りかかる。服は濡れて身体にぴったり貼り付いており、飛んできた水滴や漂っている空気と同じ匂いがした。
 胃の内容物を一通り戻して周囲の匂いや暗闇にも慣れた俺は、ようやくその場から立ち上がった。今自分がいる場所はどこか。そんなことは少し考えればわかる。
 ここは下水道だ。俺はそう確信していた。おそらく配水管を通り、流されてここまで来たのだろう。本来ならそのままどこまでも流されていたのであろうが、今ここにいるということは、何かの弾みでコンクリートの岸に打ち上げられたのだろう。幸運としかいいようがなかった。
「さて、どうしたもんかな……」
 俺は一人呟いてみた。ともかく、この場にじっとしていても仕方がない。むしろ、一秒でも早くこの場を離れたい気分だった。
 まず最初に考えたのが、ここから出る方法だ。ここが下水道なら、様々な場所へ通じているはず。外へ出るルートには事欠かないはずだった。一番いいのはもといた俺の部屋へ戻れることだが、今自分のいる場所もわからない現在、それは難しいだろう。
 ともかく、どこでもいいから空の見える場所へ出よう。そう結論を出して俺は下水道を歩き始めた。
濁流の響きが下水道全体を振動で包む。それに俺が立てるびしゃびしゃという足音がかすかに混じった。
 どれくらい歩いただろうか。俺はようやく分岐路へとやって来た。まっすぐ続く道と、右側に分かれた道。どうやら右側の道は本流への合流口のようであるらしかった。どこかの排水溝へと続いている可能性は高いが、進んでいる途中で水を流されてしまうと、俺の身体は押し流されてこの道へ戻ってくることになってしまう。俺はまっすぐ進むことに決めた。
 まっすぐ繋がる道を進みはじめてすぐに、俺はふと足を止めた。前方で何か光ったような気がしたのだ。
 ひょっとして出口だろうか。そんな希望的観測が頭に浮かんだが、俺はその考えをすぐに振り払った。見えた光は、そんな光ではなかった。赤くて小さい、もっと何か凶暴な意思を湛えたような……。
 答えはすぐにわかった。俺の目の前に、大質量のものが立ちはだかったのだ。それは行く手の視界をほとんど塞いだ。そして俺の頭の二つぶんほど上。そこで赤い瞳が一つぎらりと輝いた。
 それはネズミだった。しかもとてつもなく、大きい。体長、横幅、どれをとっても俺より二周り以上大きかった。しかも、ただ大きいだけではない。ネズミの背中には、ラクダのように大きく突き出た瘤があった。そして何と、本来目が二つあるはずの場所には少し大きめの赤い瞳が一つ、こちらを睨んでいたのだ。
「貴様、人間か……」
 低音が通路内を響かせる。しばらくしてそれが声だと気がついた。だが、この場には俺と、この化け物ネズミしかいない。そして、その声は明らかに俺のものではなかった。
「お前……言葉を喋れるのか?」
 俺はネズミに向かって喋りかけてみた。ネズミは何を当たり前のことを言っている、というふうで首を一回転させた。どうやら通じているらしい。
 そこで俺は、自分の身体が小さくなっていたことを思い出した。そうだ。ネズミが大きいのではない。俺が小さいのだ。俺の部屋にいたときには比べるものがなかったため、俺が小さくなったのか、部屋が大きくなったのかはわからなかった。だがここに来て俺は確信したのだ。何の理由でかはわからないが、俺の身体こそが小さくなったのだ、と。
「ふん。大きな図体でのさばっている者には、どうやら我々の声さえ聞くことができないようだな。にも関わらず俺たちは何でも知っている、といった顔で地上を闊歩しよる。おめでたいことだ」
 そう言うと大ネズミは濁流へ唾を吐き捨てた。どうもあまり歓迎されていないらしい。ネズミの言葉からすると、俺がネズミの言葉を聞けるようになったのは俺の身体が小さくなったためのようだった。
 とりあえずこの場は何とか平穏に収めようと俺は思った。
「そ、そりゃあ悪かった。人間を代表して謝るよ」
 手を合わせながらへこへことお辞儀する。格好悪いことこの上ないが、誰も見ていないのだから構わない。要は無事、この下水道から抜けられればいいのだ。
 だが、ネズミの反応は俺の予想外のものだった。
「謝るだと? 謝ってどうするというのだ! 謝ってこの場を収めて、それでおしまいか? ん? いいか。貴様らが俺たちにしてきたことは、謝罪程度でどうなるものではないぞ。これを見ろ」
 ネズミは背中を向けた。俺の目の前に巨大な瘤が突きつけられる。
「これを見ろ。貴様はどうやら瘤だと思っているようだが、それは違う。これは、背骨だ。俺の背骨が曲がって突き出て、こんな瘤のようになっているのだ」
 そしてネズミは正面を向くと、己の顔を俺の鼻先に持ってきた。
「これを見ろ。俺の目は生まれたときから一つ目だった。そして俺の母親は、この汚れた川から流れてくるものや、この川の流れの中で生きているヤツらを餌として生き、俺を育てた」
 大ネズミが牙を剥く。俺は思わず後ずさった。
「わかるか? 俺のこの身体。俺のこの醜い姿は、貴様らが流したものによってつくられたのだ。俺だけじゃない。この下水道を彷徨ってみろ。貴様らの流した汚物で皮膚が溶けちまった蛙。この汚水の中で生きながら腐っていっている魚たち。いろんなヤツに出会えるだろうぜ」
「だ、だったらどこか別の場所に棲めば……」
「別の場所? 別の場所なんてどこにある! どこもかしこも一緒さ。俺たちが安心して棲める場所は、消失しちまった。貴様ら人間のせいでな!」
 ネズミの巨体がにじり寄る。同じ距離だけ俺は下がった。そして、背中がコンクリートの壁にぶつかった。
「ひっ」
「今更貴様らの謝罪なんていらねえさ。俺はただ、この怒りをぶつける機会を逃がさねえだけだ……」
 一つ目ネズミの背後で赤い瞳が幾つも光る。一つ、二つ……。全部で二十三もの瞳が、俺を取り囲んでいた。あるものは歯を剥き、あるものは咆吼を上げ。形こそ違うが根底に流れる感情は同じであり、またこの俺を逃がすつもりなどまったくないことだけはわかりすぎるほどに、よくわかった。
 そのとき俺は気がついた。ネズミたちと下水道のパースが、あまりに違いすぎることに。
 そう。確かに俺の身体は小さくなった。だが、下水道の大きさと、そこに棲んでいるネズミたちの大きさは、俺が知っている下水道とネズミの大きさで対比していなければならない。だがネズミたちの身体は、この暗闇でも明らかに違うとわかるくらい、背景に比べて大きく映っていた。
「今頃気付いたか。そうだ。貴様が小さくなったのとは正反対に、俺たちは少しずつ、少しずつ大きくなっているのだ」
 一つ目ネズミが、にやりと笑ったような気がした。
「貴様ら人間と俺たちネズミの大きさが逆転するにはもうしばらくかかるだろう。だが、俺たちと貴様らの大きさが逆転したときこそ……。貴様ら人間が滅びるときだ。俺たちネズミが、貴様ら人間を食い殺すのだ。そう、今から貴様がされるようにな!」
 鋭い前歯が、俺の視界に迫ってきた。

 

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