●NEXT(No.70)

 


 枕をそっと彼の顔に押しつけた。
 窓からまだ高い位置にある陽光が差し込み、超高層マンションのペントハウスを白く輝かせている。
 だが、その光には熱はない。紫外線などをカットするガラスとカーテンにすっかりその野生を削ぎ落とされている。
 少し彼があらがったので、すべての体重を乗せた。
 もっと暴れてもいいはずなのに、彼は黙ってされるがままになっている。ロディオのようになるかもしれないと思っていた。そして体重の軽い私が弾き飛ばされれば、そこで私の負けだ。もう立ち上がることさえできないだろう。紫外線など気にする必要のない骸にされても文句は言えない。彼に逆らったのだから……。
 その時は彼の首の骨を折ろうと考えていた。そんなことができるのか、やったことがないのでわからない。骨の音を聞きたくないので、できれば窒息してほしかった。血も見たくない。彼の血が私に付くのは耐えられない。
 窒息するまで何分かかるのだろう。
 いつまで、こうしていればいいのだろう。以前、調べた記憶では、五分ぐらいでいいはずだ。脳の酸欠は二、三分で重篤な状態になるらしい。念を入れて十分もそうしていればいい。幸いにも時間だけはたっぷりある。あと三十分は誰にも邪魔されることはない。その予定を組んだのは彼自身だ。絶対の力を持つ、全能の彼のスケジュールを乱す者はいないはずだった。私以外には。
 彼の手足を手錠でベッドに固定できたのもラッキーだった。いつも彼が私に使うプラスチックにメッキをしたオモチャではなく、かなり前に、いつか訪れるチャンスのために用意しておいた特殊合金の頑丈なやつだ。ベッドのマットレスの下に隠しておいた。
 彼は全裸になってへらへらと笑っていた。
「どうするつもりなんだ?」
「あなたがして欲しいこと」
「どうしてそんなことがわかる?」
「あなたのことはなんでもわかるの」
 いや、違う。その逆だ。彼は私のことはなんでもわかる。彼は私の意識をコントロールし、特別な力で操ってきた。
 今日でそれも終わり。
 枕を手にして笑う彼の顔に押しつけた。彼は私の意識をコントロールして、止めさせるだろう。それにどう抵抗すればいいのかはわからないが、彼の脳機能を低下できれば私にもチャンスはある。
 ベッドサイドのアラーム時計を確認していたはずが、何分、こうやっているのかわからなくなってしまった。体をはねるような動作もしていない。手錠がくいこんだ手首の皮膚が剥けてうっすらと血が滲んでいる。だらりと力は抜けて、心なしかシーツと同じような不透明な白さになっていた。
 私は逃れるために、こうしているはずだった。でも、こうしている間にも、むしろもっと深く罠にはまり込んでいるような気持ちがしていた。いままさに自由の身になろうとしているというのに、だ。
 私の体の下で、彼は少し冷たくなった。肌と肌が密着しているのでそれがわかる。
「23」
 ふいに私の頭の中に数字が浮かぶ。
 次に声が聞こえてきた。
「サウレスとウィスナー」
 いま冷たくなっていく男の声だった。
「ギリシャ文字だよ。23番目」
 アルファ、ベータ……。αβγδεζηθικλμνξοπρστυφχψ……。サイ。超心理学の用語で、ESPとPKつまり超感覚的知覚と念力を総称した呼び方。ギリシャ文字の23番目「ψ」をあてたのは、イギリスの学者、サウレスとウィスナーだった。誰もが小学校で習うことだ。
 サイ・エネルギーの存在が学会で認められて、教科書に採用されるまでに十年が必要だった。しかし、そのエネルギーを持つ人たちがそれを自覚し、社会に登場してきた時、すべては劇的に変わった。サイ・エネルギーを持つ者たちは世界を統治し、サイ・エネルギーの使用方法にも国際法が作られ、監視されるようになった。
 だが、その監視は偏っており、世界中でサイ・エネルギーの悪用が問題になっていた。せっかく平和な世の中になったのに、手の込んだ犯罪はむしろ増えていた。
 サイ・エネルギーがあれば、私だってこんなことはしなくてすんだのだ。彼を裁く法廷はない。だから、なんの力もないただの女である私が、彼を殺すわずかなチャンスに賭けるしかなかった。
「おれはサイ・エネルギーを持っていた。いまそれを知ったところだ。遅すぎたな」
 知らなかったはずはない。彼はそれを使って私を追いつめた。
「本当だ。おれはただひたすら本能のままに、直感を頼りに生きてきたつもりだった。本気で念ずると、それが現実になる。運がいいんだと思っていた」
 まだそんなことを……。
 彼は、私の人生をめちゃくちゃにした。私の父も、私の母も。自分の意志で生きる自由を失い、苦しみながら死んでいった。私の婚約者は、なんとか状況を打破しようともがき、敗北し、自殺した。すべてを奪ったのは彼だ。一般の人には抵抗できない、恐ろしい力を使って、欲しいものはなんでも手に入れてきた。
「知らなかったんだ。強く思えば現実になる、と信じていただけなんだよ」
 彼が強く思う時、普通の人たちは意思を奪われ、人生を奪われる。ただ奪われるだけの存在に成り下がる。抵抗はできない。告発もできない。抵抗すれば殺される。この世から消された者もいる。
 父の会社に入社した彼は、社長になりたいと念じ、父が持つ代々築き上げた財産をすべて手に入れたいと願い、すでに婚約していた私を欲しいと思った。
 能力のある者が本気で願った時、世の中はその通りになってしまう。
 世界はサイ・エネルギーを持つ者で支配されている。彼だってそれを知らないはずはない。小学校の時にみんなが学ぶことだ。そしてサイ・エネルギーがあるのかどうか、全員が検査を受ける。入学時と四年生の時に受け、中学入学時から二十二歳の間に二年ごとに検査を受ける。六歳以下で強い能力を持つ者も希にいるが、それはさすがに周囲で発見できる。
 成人後に能力に目覚める者はほとんどいない。小学生から中学生の間に能力を強める者が多いものの、成人後能力を失う例も多い。だが、中学から二十歳ぐらいの間に能力に目覚めた者は、知恵があるだけに、それを秘匿し悪用する場合がある。
 彼が度重なる検査に奇跡的に引っかからなかったのか、潜り抜けるコツを身に付けていたのか、非常に希ながら成人後に能力を身に付けたのか、わからない。
「サイ・エネルギーを持つ者は計り知れない力があります。それだけに普通の人とは違う義務もあります。国際的な法律が作られ、サイ・エネルギーを持つ人たち同士で秩序を守るようにしているんです。わかりましたか?」
 小学校で先生はそんな教え方をしていた。だが、それはあくまでも表向きの話だ。実際には彼のようにサイ・エネルギーを悪用する者はあとをたたない。彼らは義務を課せられる不自由さを嫌い、申告せず、検査も逃れ、一般人にまぎれて濡れ手に粟の成功を手にする。
 子供の能力に気付いた家族は、必ずしも届けるとは限らない。検査によって認められれば、特別な学校へ行かなくてはならず、そのために家族は余計な経済的負担を強いられる。名誉を得られ、子供は国政や国連などで活躍する場を約束されるのだが、その一方で地域によっては、露骨に嫌われ、引っ越しを余儀なくされることもある。能力者を持つ家族は必ずしも幸福ではないのである。
 検査精度も毎年向上しているものの、検査を逃れるテクニックが、一般書店で売っている本や雑誌に掲載されている。
 世界中で、検査を逃れた能力者によって引き起こされる犯罪の犠牲者が出ているのに。
 自分がそのエネルギーを使っていることに無自覚だったなどと、よくもそんなことが言えたものだ。
「知っていれば、いま、こんな風に君に殺されていくはずがないだろう。君の心を読み、君の行動を見通していたはずだ」
 私は衝動のままに、枕を手にした。彼が予想できない行動に出るしか、万に一つも勝ち目はない。
 いつやってもよかったが、いつやるのかを心に決めると、彼に読まれる。そう思った私はできる限り、そのことを思わないようにし、誤魔化した。たまたま、それがうまくいき、いまこうして彼は私の下でくたばろうとしている。
 喜びが私を包む。これが本当の喜びなのだ。彼からは一度も得られなかったもの。それにいま浸っている。
「君の心を読んだことはない。君の心に入ったのも初めてだ。知っていたなら、もっとましな人生を送っただろうし、こうなる前になにか手を打ったよ」
 くたばりやがれ。くそったれのサイ・エネルギーが完全に消失するまで……。
「エネルギーは、相互に転換することができ、その総和は一定だ。マイヤーとヘルムホルツ。エネルギー保存の法則ってやつだ」
 もういい加減に死んで欲しい。
「ああ、もうくたばる。だがエネルギー保存の法則からは逃れられない。サイ・エネルギーもエネルギーである以上、この法則が通用することはすでに証明されている」
 どういうことなの。
「いま、おれが自分の能力に気付いたのは、君の能力のおかげということだ」
 なにを言っているの?
「君はいま、おれになったんだよ」
 彼の言葉はふいに消えた。
 エネルギーが彼から私に?
 私はいま、サイ・エネルギーを手に入れ、その力によって彼は息絶えていくのだ。枕で顔を押さえているからではない……。そうやって彼が死ねばいいと願ったからだ……。
 なんということだろう。私たち家族を不幸に陥れた力を、身に付けた。これを使えばどういうことになるのか、犠牲となった者にはよくわかる。悪用するのは簡単だ。彼がやってきたように巧みに力を使えばいい。しかもこちらはサイ・エネルギーの被害者家族だ。まさかその被害者が、サイ・エネルギーを悪用するなどとは、誰も思わないだろう。
 私は私の思うがままの人生を歩む。念ずれば、すべては実現する。成功への階段を昇り始めたのだ。失ったものを取り戻すのだ。約束の世界がそこにある……
 彼のことはもう忘れ、窓の前に立ち、カーテンを開けた。大都市が足下から広がっている。見渡す限り、私の物だ。そこに住み、喜び、泣く人たちは、もう私の意思によって動くしかない。この力に対抗できる者は、そう多くはないはずだ。
 すべてが見て取れる。彼と組んで私や家族から奪った者たち全員に復讐する。失ったすべてを取り戻す。その虚しい行動を繰り返していくうちに、私は目的を見失う。ただひたすら、より多くの新しい犠牲者を生む。
 いやだ。
 彼のような人生など一歩たりとも歩みたくはない……。絶対に、そんな汚れたサイ・エネルギーは使いたくない! 彼とともに消えてほしい……。
 ああ、私はなにを念じたの。窓ガラスに反射する私の姿が薄くなっていく。手が、ぼんやりと消えていく。私の体からエネルギーが、どこかへ消えていく。
 消えるのだ。私が強く念じたように。
 いやエネルギー保存の法則。消えるのではない。なにか別のものに変わる。エネルギーは転換され、私は願ったように、私自身を消す。そのエネルギーは……。
 最後の一瞬、私は見た。
 熱エネルギーに転換されたサイ・エネルギーが、窓ガラスを蒸発させた。強い風が吹き込む。それに逆らうようにエネルギーはマンションから拡散し、何十万もの人が住む都市を舐め尽くし、地平線まで津波のように突き進んでいく。都市がこの世から消えて行く。
 コンクリートを溶かし、鉄筋を蒸発させ、ガラスを水蒸気にする。この高熱の中で、その形を保っていられる分子構造はない。
 これが現実なのか。嘘であってほしい。そう願ってみても、私にそれを実現させるようなエネルギーはもう残っていない。熱に転換して放たれたエネルギーはもう元には戻らない。少なくともその力は私にはない。
 微かに残った意識の澱が、消失点に向かって落ちていく。すべてがゼロになる。

 

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