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第1回2あらすじ登場人物

【 第3回・怪 談 】

「カンパーイ!」 
 祥子は一人で声を出し、発泡酒の缶を天井に掲げた。今日の分の話をパソコンに打ち込んだところだった。そして念のため、コピーをとっておく。まずは記録を整理しておいて、全体の骨組みが見えたところで、改めて原稿を書き起こすつもりだ。
 それにしても、予想以上の成果だ、と祥子は思う。誰も知らない、今まで誰も書いていない、新事実と新情報が続出。体験者の生の声。事件から時間が経ってるから、トクダネってことにはならないけど、注目度は高そうだ。
 大丈夫、きっと成功する。
 今日は少し呑みたい気分だ。祥子はつまみでも出そうかと立ち上がり、冷蔵庫を開けた。確か、豆腐がある、あれに明太子を乗せて……と思考を巡らせた時、電話が鳴った。
「もしもし?」
 声でわかる。秋元史彦だ。壁の時計を見上げる。10時を回ったばかりだ。祥子は片手で冷蔵庫を閉めた。
「はい」
「加賀さんのお宅ですか?」
 まだ編集部にいる時間だ。で、周りにだれもいないのでかけてきたのだろう。
「……祥子?」
「加賀です」
 名前でなんか、呼び合う気はない。
「オレだけど」
 オレだけどで通る関係は少ない。だがそれが通用する関係は、もう終わったはずだった。仕事とカレシを絡めると、ややこしいことになる。できるだけ距離を置いてきたはずだ……祥子は聞こえないようにため息をついた。
「聞いてる? 寝てたのか?」
「起きてます」
「メールのあと、ぜんぜん連絡がないから、気になって」
「大丈夫、問題ないです」
「進めてるの? 例の企画?」
「ええ、まあ」
「オレ、GOサイン出してないよな」
「あなたに出されなくても、自分で決めたテーマなんだから、準備しますよ。締め切りのある仕事じゃないんだから」
「企画聞いたときからヤバイ気がしてたんだよ。事件の当事者でも、取材っていって家族の事情に首突っ込むと、プライバシーの問題で叩かれるぞ」
「そんなヘマ、しませんから」
「だけど、正面きって取材の形をとるんじゃなくてさ、ほかの材料で骨組みを組んだほうが無難じゃないかな」
 ほら、まただ――祥子は思う。人を手のひらに乗せときたがる、とまでは言わないけど、なんとなく窮屈なものいい。
 これが気に入らない。それに企画なんかをあれこれ練っているうちに、どんどんテーマが狭くなって、大胆さや奇抜さを失い、最後はこじんまりとした出来になっちゃう。こいつの仕事はいつもそうだ。それも気に入らない。
「もうすぐ事件から2年になるけど、特集記事、予定してんだ。そこに祥子のページ、作るからさ」
 やっぱり、回顧記事かなんかに収めようとしている。正確さ、無難な落ち着き、それが一番だと思ってる。ジャーナリズム系の雑誌なんかやめて、辞典や教育関係の書籍とか作れば、といいたくなる。一言で言えば凡庸だ。
「みなさん、覚えてますか? 風の記事にするわけ?」
「だから、打ち合わせようよ。そっち準備はちょっとストップしてさ」
「ストップできません」
「え? なんで? どこまで進んでんだ? どっかの出版社と企画進めてんの?」
「そういうわけじゃない。まだ途中だけど」
「また突っ走ってんだろう」
「あのさ、たまにはドカンと、みんながびっくりするようなこと、やってみたいと思わないの?」
「え?」
「だからさ、今回は絶対、すごいものまとめるっていってるのよ。任せてみてよ」
「どういう取材してんだよ? オレ聞いてないぞ、何にも」
「まとまったら話します」
「打ち合わせようって言ってるんだよ。今からでもいいよ」
「ええっ?」
「近くまで行くよ、途中まで進めてるんだろ? 見せてみろよ」
 見せてみろと、ときた。なんだか、別の話もしたがってるかんじだ。蒸し返したくない。祥子はイライラしてきた。
「とにかく、少し自由にさせておいて下さい」
「都合が悪いなら、明日にするか?」
 祥子は、それには返事をしないで、一方的に電話を切った。
 テーマを決めて始めに打ち合わせをしたら、あとは執筆者の自由にさせる編集者もいる。また、何度も打ち合わせて話し合い、一緒に作品を作っていくタイプもある。でも、秋元はそのどちらでもない。
 本人は入念打ち合わせ進行タイプだと思っているが、実際はうるさいことを言いつづけて、あれこれ注文を重ねて、執筆者を萎縮させてしまう、そういう編集者だった。それが自分に対してだけなのか、他のライターにもそうなのか、それは確かめたことはない。
 二人で協力し合って、仕上がったものが上出来なら、もちろん文句は無い。お互いベストを尽くすいい関係で、尊敬もし合えるだろう。だが、秋元と組んだ仕事の出来は、どんなに客観視しても、面白いとはいえないものに成り下がっていた。今度は、かき回されてなるものか、そう思っている。
 ――ま、本人は熱心なつもりなんだけどね。
 息を落ち着けてから祥子は考える。気が抜けかけた発泡酒を一口含んだ。
 ――別に他の出版社に持っていってもいい、このテーマなら。ちょっとコネもあるし。
 祥子は冷えた缶をもう一本出しに、改めて冷蔵庫へ向かった。

 夕暮れの日差しで出来た木々の長い影が、教室の中に入り込んでいる。窓辺に立っていた祐樹は、自分の影と木の影が重なるのを、ぼんやりと見ていた。
 今日は登校日だった。特別、用もないのに、真夏の日中、生徒を集める日である。炎天下に朝礼までして、校長は15分もしゃべった。誰も聴いちゃいないのに。貧血か日射病かで、3人倒れた。どうして校長は訴えられないんだろう? 祐樹は不思議だ。
 夏休みの登校日は、学校はいつもお前等を見張っているんだぞ、お前等の居場所は、ここしかないんだぞ、と思い知らせるためにあるに違いない。
 祐樹は友だち5人と打ち合わせて弁当を持参し、午後からプールで遊ぶ計画を立てた。登校日の意味を、学校が明確でないから、自分達で作ったのだ。
 昼過ぎにさんざん泳いだあと、なんとなく教室に戻ってしゃべっていたのだが、いつのまにか百物語が始まっていた。一種の夏の恒例行事である。祐樹を入れて男子は3人、女子が2人いる。教室の後ろの席のあたりにかたまって、額を寄せ合っている。
 窓は開け放たれ、校庭を渡ってきた風が、時々教室内の気温を下げた。話の内容は夕べの怪奇番組の話である。
 祐樹は風が来るたびに窓の外へ視線をそよがせていた。昨日の怪奇番組なら祐樹も見ていた。それを下手な解説で改めて聞かされると、妙にしらけ、恐怖は半減した。
「それでさ、昨日の話じゃ、学校って、お墓の上に作っていることが多いんだって」
「ええ〜っ!」
 女子の声が教室に響く。話しているのはコワイ話が好きな相馬辰夫だ。心霊写真の本なんか、いつもカバンに入れて持ち歩いていた。あいつは呪われているに違いないと、祐樹は密かに思っていた。
「古い学校の話だろ、それ」新藤信也が言った。
「高速道路とか線路の近くも、お墓多いよな」
「あ、そういえば、ドライブとか行くと、よく見るよね」
 上野美千代の声は怯えが入っている。
「高速道路って事故が多いところあるじゃん? 幽霊が誘っていることがあるんだって。墓の上じゃ当り前だよな」
 辰夫が自慢気に言った。
「キャーッ」「やだあ」
 また悲鳴が響いた。誰もいない学校では、声は以外に響く。
「先生、来ちゃうよ」信也が声をひそめた。
「この学校、創立70年っていったよね? ここもお墓だったのかな?」
 真剣な声で亜由美が言ったので、祐樹は視線を上げて彼女を見た。
 プール上がりの髪が乾いてふわふわと広がり、毛先が光って見える。久喜亜由美は大きな瞳を見開いて、辰夫を見ていた。
 彼女の髪の毛と瞳がやや茶色がかっていることを祐樹は早くから気づいていた。髪の毛の先は陽にすけるとピンクに見えることもある。そのことも祐樹は知っている。もちろん、誰にも気づかれないように盗み見していたのだが。
 亜由美と並んだら、美千代はまるで昼過ぎの朝顔だ。もちろん、そんなことは誰にも言わない。
「そうじゃないかな。オレ、兄貴に聞いたことあるんだ、ここ、七不思議あるんだぜ」
「七不思議?」
 全員がハモった。また始まった、と祐樹は思う。こいつは何か話す時、必ず兄貴を持ち出す。兄貴は何歳年上だったか忘れたが、確かもう卒業した。だからいつでも都合のいい時に、兄貴のせいにできるのだ。ここにいない兄貴は否定もしないし賛同もしない。
 絶対自分の意見だと言わない辰夫の言い方は、祐樹の神経を逆撫でる。自分の言葉だと言わず、いつも誰かがいった言葉でつなげて自分の考えを言えたら、どんなに楽だったか……ふいに開きそうになった記憶の蓋を、祐樹はあわてて意識でふさいだ。
「学校に伝わる、コワイ話さ、七つあるから、七不思議」
 祐樹を除く全員が息を呑んだ。
「トイレの花子さん、じゃないだろうな? 超有名すぎで、つまんねえよ」
 沈黙に耐え切れないようにからかい気味に信也が言う。
「全然、違うね。ここさ、新校舎が建つ時、事故があったんだって」
「誰か死んだの?」亜由美が眉をひそめる。
「うん、女の子。工事中なのに、ボールを忘れて、取りに来て、トラックからザーッって流れてきた砂利に埋まって死んだんだ」
 解りにくい説明だ。窓にもたれ、祐樹は庭に当てたまま耳を傾けている。本当に事故があっても、そんな説明じゃ、警察は納得しないだろうな。
「それで、どうしたの?」と美千代。
「それから、雨のふる日に、トラックの運転手が、校庭に入ってくると、歌を歌いながら、ボールで遊んでる女の子を見るようになったんだ。こう、ゆっくりした動作でドリブルみたいにボールをついてるんだって」
 全員が、固まっている。
「今でも出るのかよ? 昔の話だろ?」
 信也が言う。顔がちょっと引きつっている。
「うん、夏の初めの雨の日の夕方、あの木の下に……」
 辰夫がいきなり立ち上がって、校庭の西の隅にある桜の巨木を指した。
「いやああっ!」再び悲鳴。
 調子を合わせる気にもなれない祐樹は、ちょっと笑って見せる。よくある怪談じゃないか。だいたい、雨の中で、トラックを運転している人が、女の子が歌う歌が聞こえるのか?
「他の六つは?」美千代が催促する。
「まだ聞いてない」
 今度は全員が、ほうっと息を吐いた。
「もう、あの木の近くに行けないよ」
亜由美が感動ぎみの声を出したので、辰夫は身を乗り出した。
「今度、兄貴に聞いておくよ」
「コワイけど、七つ全部聞いてみたいね?」
 ね? と言いながら、亜由美が、同意を得るように祐樹に視線を投げた。条件反射的に返事をしようとした祐樹の視界に、得意満面の辰夫の顔が映りこむ。
 怪談っていうのは一種の自慢大会だ、と祐樹は思っている。より、怖いほうが勝ちなのだ。ちゃんと勝敗がつく、ゲームなのである。辰夫は祐樹に挑戦しているのだ。祐樹の中で負けず嫌いの虫がうずうずと動き出した。
「学校とか高速道路に墓地が多いのは、作るとき簡単に手放せたからなんだ。すごく古くて、もう誰も墓参りにも来ないような墓地だから売れたんだ。いちいち怖がっててもしょうがないだろ? そういうところのコワイ話って、あとから事故とかおきたから、結びつけただけじゃないか」
 祐樹がしゃべり終える前に、辰夫の顔色が変わっていた。
「何だよ、じゃあお前、幽霊信じてないの?」
 馬鹿じゃないのか、このしゃべり、祐樹は鼻で笑う。幽霊信じるってそれ、日本語?
「いる、とは思ってるよ」
「じゃ、見たことあんのかよ」
「らしいのは見たよ」
「どんなんだよ、言ってみろよ」
 辰夫はケンカごしである。くだらない、と言いかけたとき、亜由美が言った。
「どんなの? 教えてよ」
 茶色い目が、祐樹を見つめている。
「あのさ、僕のも、幽霊かどうか、ほんとうにはわからなかったんだけど……」
 祐樹はわざと遠慮がちに切り出した。競争心を最初に出しちゃだめなんだ、さりげなくスタートさせるのがコツ。そのほうが効果がある。ほら、みんな身を乗り出した。
「僕、前に山奥の旅館に行ったことあるんだ。そこで夜、寝てたらさ」
「金縛りだろ? 解ってるよ、そのパターン」
 辰夫がチャチャを入れた。
「金縛りは心霊体験とは限らないだろ?」
「じゃあ、あれだ、飾ってあった人形が動くとか」信也のチャチャ。
 この怪談マニア! 祐樹は心の中で蔑(さげす)んだが、その内面は顔の皮膚一枚分も見せない。
「違うね」
「じゃあ何だよ!」
「音だよ」
 祐樹は亜由美の目を見つめて、ごく控えめに告げた。効果てきめん。みろ、辰夫までも身構えている。だがここで勝ったような顔をしちゃいけない。いかにも、思い出すのも苦痛なような、怖そうな顔で言うんだ……祐樹は演出のつもりで、怯えた顔を作ろうとした。
 その瞬間、彼の心の中で、自分でも忘れかけていた記憶の鍵穴の奥で、カチリ、と音がした。
 そしてその鍵の音に続いて、あの夜に聞こえてきた音が、今聞いているかのように、祐樹の耳の底に甦ってきた。

 ……ざーっ……ずざあーっ……
 誰かが掃除をしている、祐樹ははじめそう思った。箒でざらざらしたところを掃く音に似ている。
 ……ざーっ……ずざあーっ……
 二度目にその音が耳に届いた時、祐樹は自分が眠っていたことに気づいた。薄目を開けてみたが、真っ暗で何も見えない。
 何で起きたんだっけ……祐樹は自分に問い掛ける。トイレじゃないし……
 ……ざーっ……ずざあーっ……
 あの音だ! あれで目がさめたんだ。暗がりの中で視線を巡らし、音の出所をさぐる。徐々に闇に目が慣れてきた。しかし、あんな音を出すようなものが何も見当たらない。すぐ隣りに布団を並べて、母が寝ていた。
「ねえ、お母さん」
 祐樹は半身を起して母のほうを見ながら、小声で呼んだ。
 ……ざーっ……ずざあーっ……
 廊下のほうだ。祐樹は全身が冷え込むように感じた。
「変な音がするよ、何あれ? 起きてよ」
 ……ざーっ……ずざあーっ……ざーっ……
 足の先から毛が逆立って、頭まで上った。祐樹はタオルケットを引きかぶってもぐりこんだ。

「誰か、掃除でもしてたんじゃねえの?」
 そういった辰夫の顔も強張っている。語尾が震えないように力を入れている。
「夜中なんでしょ? 変よ、絶対」
 美千代は楽しそうに見える。
「だから、誰から部屋とか汚しちゃってさ、旅館の人がかたずけてたとかさ」
 辰夫の推理を聞きながら、祐樹はゆっくりと唾を飲み込んだ。これも演出だと、言い聞かせながら。
「それで、どうしたの?」
 亜由美が覗き込むようにして聞いた。
「その夜は、そのまま寝ちゃった。でも、そのあともまた、聞こえたんだ」

 二度目にその音を聞いたのは数日後だったと思う。暑くなってきて、耐え切れずに窓を開けて寝ていたが、蚊の襲撃が激しく、相談の結果、蚊帳(かや)をつることになった。

「蚊帳ってなに?」
 三人がほぼ同時に聞いた。
「網で出来た大きな袋みたいなもんでさ、こうやって天上からつるすんだ」
 祐樹は身振りを加えて説明する。
「その中に入るのかよ?」と辰夫。
「部屋いっぱいの大きさで、すっぽり部屋ごと入っちゃうんだ。その中に布団を敷いて寝る。網があるから虫が入って来れないだろ」
「自分が虫かごに入っちゃうのかよ。見たこと無いよな」
「あたし知ってる」亜由美が言った。
「今、エコロとかで売ってるよ。薬を使わないで虫除けになるから、いいんだって。虫除けつけると、喉痛くなっちゃう人いるでしょ」
 この一言で辰夫が黙った。
 便利なものだとはわかっていたが、蚊帳の中がどんなに不気味か、説明するのは難しそうだった。蚊帳をつると、部屋にグリーンのもやがかかったようになる。
 電気を消すと真っ暗になるが、窓の外はぼんやり明るい。それを光源にして目が徐々に慣れてくる。その時の蚊帳の内部の不気味さ、他では味わえないものだ。ちょっと蚊帳が揺れただけでも、全て何かの気配に感じられる。

 その日、祐樹はかなり遅くまで寝付かれなかった。いったん寝入ったのだが、蚊の羽音で目がさめた。あの、この世で最も忌み嫌われるかすかな音。
 蚊帳は、人が出入りする時、よほど気をつけてつるりと入らないと、人と一緒に虫が入り込んでしまう。ほんの少しの隙間も、蚊は見逃さない。出入りする人間の様子を見張っているに違いないと、思えるほどだ。
 蚊帳の中にいるのは祐樹と母。どちらかが蚊帳侵入に失敗し、蚊を一匹引き込んでしまったらしい。羽音が近づいて手足に気配を感じると、その付近を祐樹はパチンと叩いた。
 だが敵もさる者で、なかなか死なない。あちこち刺されて、痒い箇所が増えていく。母は熟睡している。なんで僕ばっかり刺されるんだろう? 美味しいんだろうか?
 自分が蚊帳から出て、トイレにでも行けば、その隙に蚊が母を刺すかもしれないと思った。そうすれば母も起きて、一緒に解決してくれるだろう。いくら殺生しないといっても、蚊にいつまでも生血を提供したくはないはずだ。
 祐樹は起き上がり、バサッと音を立てて蚊帳をめくると、スリッパを履いて部屋を出た。振り返ってみたが、物音では、母は起きていないようだった。
 トイレは部屋にはなく、廊下の端協同用がある。廊下にはぼんやりと灯りが灯っている。細長い蛍光灯だ。祐樹は足先とかかとに力を入れて、できるだけパタパタ音を立てないように歩き、トイレに向かった。
 ……ざーっ
 トイレから出て2・3歩で、祐樹は硬直した。あの音、あれは?
 ……ずざあーっ……ざーっ……
 あれは、確か……
 ……ざーっ……ずざあーっ……
 祐樹は全身に力を入れて、そして抜く。耳を澄ます。今度は夢じゃない。自分はちゃんと起きている。じゃあ、あの音は?
 ……ずざあーっ
 トレイを済ませておいて、よかったと思う。これは怪奇体験っていうやつだろうか?
 いや、考えちゃいけない。考えてると止まらなくなって、テレビで見た怪談とか、心霊写真とか、友達から聞いたコワイ話を思い出して、どんどん溢れ出てきてしまう。そうなったらパニックだ。
 あれは幽霊なんかじゃない、現実なんだ。音の原因がきっとあるんだ……
 深呼吸して、祐樹は再び耳を済ませ、音のする方向を聞き分けようとした。最初、近くから聞こえてくるのかと思っていたが、よく聞いてみると、このフロアではないらしい。祐樹は足音を忍ばせて、階段を下りた。あまり階段から離れないようにして身を伸ばし、2階の廊下を見てみる。誰もいない。
 少し早足ぎみに、1階に下りた。何かいたら怖いが、何もいなかったら、それも怖い。どちらにしても、早く確かめたかった。もう、本当に、どっちでもいい。
 あと数段で階段が終わる時、意外なほど近くで、音がした。
 ……ざーっ……ずざあーっ……
 祐樹は驚いて座り込みそうになり、手すりをつかんだ。近くに、いる。視線の先に廊下の床が見える。凝視する祐樹の視界に、ゆらり、と濃い影が動いた。
 ……ざーっ
 断続的な音のたびに、影が揺れる。あれだ。だんだん影が大きくなる。近づいている。
 見たほうがいいのか、見ないほうがいいか、混乱した頭で祐樹は考える。手すりをつかむ手に力が入る。逃げよう。そう決断して身体の向きを変えようとした瞬間、だしぬけに影の本体が、姿を現した。
 子供だった。
 パジャマを着ている。歳格好は祐樹を変わらない。その子供が、壁に向かって、こちらに背を向けている。お辞儀をするみたいに頭を下げ、それが壁にくっついている。影の形が異様だったのは、その姿勢のせいだった。
 瞬きもせず、祐樹はその背を見つめた。姿は見た。だが正体は、わからない。
 数秒後……いや、祐樹には何時間にも感じられた――子供が動いた。頭を壁にこすりつけたまま……
 ……ざーっ……ずざあーっ……
 音が、フロアに響いた。
 次の瞬間、祐樹は悲鳴を上げていた。

 同時に、教室にも悲鳴が響いた。その声で、祐樹は我に帰った。
「何よ! それ! どのこの旅館?」
「頭をこする音だったのかよ!」
「やだあ! 怖いよう!」
 全員、イスをガタガタいわせて総立ちになった。亜由美は頬に両手をあて、指先が震えている。祐樹はその小指を見ていた。
 マニアのはずの辰夫の顔は、それこそ幽霊のように青ざめていた。
「それで、どうなったんだよ? 何で頭こすってんの!?」
 必死で平気を装っている。
「わからないんだ。覚えてなくて……気絶したのかも……」
「誰も起きてこなかったの?」
 聞いたのは美千代だ。
「たぶん、騒ぎだったと思う。でも、僕にはあんまり説明してくれなかった」
 祐樹はここで一呼吸置いた。
「何日かして、その廊下を見たら、ちょうど頭くらいの高さに、ず〜っと筋がついてたんだ」
「じゃあ、ホントだったんだ!」
 抜群の説得力を持って、怪談は終了した。深くは追求しない。ホントだった、これで完結。あとは話の細部を反芻するだけ。
 上手くいった。祐樹は勝ち誇った気分で辰夫の顔を見る。だが、完結しない話が、祐樹の胸をせり上がり、今にも口から飛び出してきそうだった。その衝動を押さえるため、幾度もつばを飲み込む。
 早くこの場を去りたい。そして……
 見回りの先生に叱られ、学校を後にした祐樹は、友だちと別れてからケイタイを手にした。
 今日は予定の日じゃない。いるだろうか?
「もしもし?」
 祥子の声を、祐樹は待ち焦がれた約束事のように聞いた。

「ちょっと、それマジ? 本当に幽霊だったの?」
 祥子の反応は、さっきの辰夫や亜由美たちと同じだ。祐樹はそれを半分嬉しく思い、半分がっかりした。
「んなわけないだろ? 大人のクセに、マジにとるなよ」
 祐樹はウーロン茶のコップに浮かんだ氷を含んだ。少し前から、祥子が出す食べ物も飲み物も躊躇無く口にしている。
「そりゃそうだけどさ、学校では怪談として話したわけでしょ?」
「そういうバージョンが、リクエストされてたからね。なんか途中で止めたら、本当っぽくなったんだ。それだけだよ」
「ふうん、じゃあ、続きがあるわけね?」
 祥子は頭を切り替える。そう、わざわざ怪談をしに来るわけは無い。何か重大な話に触れようとしている……きっと学校で怪談として披露しているうちに、思い出したに違いない。自分に聞かせたい何かを。
「本当は、その子、生きてたのね?」
 今日、家にいて、本当にラッキーだった。祥子は思う。
「当り前だよ。生きた人間だった」
「それ、いつのこと?」
「二度目に山の農場に行った時だよ」
「例の、宿泊施設の中のことね?」
「うん、初めに音を聞いたのは、泊まって2日目くらいだった」
「あれ? ちょっと待ってよ。蚊帳の話してなかった? 二度目に行ったのは秋でしょ?」
「ああ、それ、雰囲気つくるために、一回目に行った時の話をくっつけたんだ。怖いかんじ、出てるだろ?」
 祥子は背中に金属を当てられたように、ひやりとした。この少年の言うことは、どこまで真実なのか、時折不安になる。こんなふうに、とっさに上手い演出ができる子なのだ。
 しかし、今日、こうしてここまで来たのは、話したかったからだ。作り話をしに、わざわざ予定外の日に来るはずはない。祥子は、祐樹の行動に真実を見究めようとした。

 喉の奥から搾り出した祐樹の悲鳴は、彼自身意識していなかったが、非常ベルなみに建物中をたたき起こした。
 1階には宿泊用の部屋はなく、事務所とかリビングがあって、夜、人気はない。起きだした人の気配は、ざわざわと建物の上階の四隅から湧き出し、話し声と足音は次第に大きくなって、建物を包んだ。やがて煌々と灯りが付けられ、1階も明るくなった。
「祐樹くん?!」
 背後から声がした。祐樹は階段にへたりこんだまま、口を開け、悲鳴の続きを発していたらしい。
「祐樹くん! どうしたの?」
 誰かが肩をつかんで揺する。祐樹はやっと口を閉じ、声を出そうとしたが、口も喉もからからで、胸に空気がまったく入っていないようだった。息を吸い込むと咳き込んだ。
「そ……そこ……に……」
 祐樹は壁を指す。まったく、怪談体験談の再現シーンみたいだ、と祐樹は思い出すたびに思う。
 怪談なら、指差した先には、なにもない。だがそこが怪談とは違った。ちょっと右側にずれたあたりに、子供はちゃんといた。頭を壁につけたまま。
「あ、あれ……」
「翔くん!?」
 祐樹の背後から一人の女性が飛び出し、その子の両肩をつかんだ。
「翔くん!」
 翔、と呼ばれた子は揺すられて、がくがくと首を揺らし、幾度か壁に頭をぶつけた。慌てて壁から離すように仰け反らせると、そのまま後ろ向きにたおれかかった。
 すると今度は男の人が、毛布を広げて前方に掲げながら走り寄り、子供の身体を包みこんだ。
 動いていたのはその二人の大人だけで、階段付近には20〜30名ほどの人がいたはずだが、皆、硬直し、彫刻のように動かない。
「祐樹!」
 ひときわ大きな声にはっとして振り向くと、母・照美がいた。寝乱れたままの髪を振り乱し、鬼が泣いているような顔だ。
「おかあさん……」
 母は自分のカーディガンを脱いで、祐樹に被せ、引き立たせて階段を上がった。

「なに、その子、病気なわけ?」
 祥子の顔は怪談を聞いた時より、さらに青ざめていた。
「たぶんね、むにゅうびょう?」
「夢遊病?」
「あ、それそれ。夜中に眠ったまま歩いてどっか行っちゃうやつ」
 物知りな顔していても、まだ子供だ。頭の中で漢字変換が出来なかったのだろう。祥子は心の中で、小さな安堵が生まれるのを感じた。
「ストレスとか、トラウマがあったのかな?」
「トラウマ?」
「心の中に、見えない傷がついているの。外からは見えないから、自分ではなんでもないと思っているんだけど、夢の中とかでは、自分でもわかってるわけね。それで苦しむの。夢遊病にもいろんな原因があるだろうけど」
「ふうん、トラウマ……」
「あ、難しかったかな」
「わかるよ、僕も言われたことあったよ、たしか、そのトラウマってやつ?」
 がぶり、と祐樹はカップの中身を飲み下す。居酒屋のおやじみたいな動作である。
 いつ、誰に言われたのだろう?そこが聞きたい。祥子は突っ込みたい衝動を押さえた。今、聞いている話も、なかなかいい。教団の側面とか、農場の事情が、きっと映し出されてくるに違いない。
「……それで、そのあと、どうなったの?」
「僕はそのまま部屋に戻されて、布団に入った。もちろん寝られなかったけどね」
「お母さん、何か言ってなかった?」
「聞いたよ。でも、知らないっていうんだ。まあ、僕と一緒にそこへ行ったばっかりだもんね。詳しいことは知らなくて当然だよ」
「でも、大変な事件になったんじゃない?」
「うん、そうなると思ってた。目がさめたら、みんな大騒ぎ、みたいな」
「うん、それで?」思わず顔が近くなる。
「な〜んにもないんだ。食堂に行っても、作業の時も、誰も何にも言わない」
「なかったことになっちゃったの?」
「そんなかんじ。でもあとからわかったんだ、その子のこと」
「なにが……?」
「その、翔って子さ、兄弟を死なせてたんだ」
 一瞬、部屋の照明が落ちたかと、祥子は思った。二人を包む空間が、すっぽりそのまま別の世界に運び込まれたような感覚だ。
 祥子は貧血に似た、軽いめまいを感じた。 (つづく


Copyright(c): Hisae Ishii 著作:石井 久恵

◆ 「陽に伸びる影・第3回」の感想

*石井久恵さんの作品集が、文華別館 に収録されています。
*光文社が一般公募していた「奇妙におかしい話」(阿刀田高選、文庫457円)に石井さんの作品が入選、収載されています。


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