月光の雫 (後編)亜木冬彦&赤川仁洋 作品集表紙に戻る



 黄色い帽子が、上下に揺れながら近づいてくる。怪我をしているのか、埃色に染まったズックの右足を、少し引きずるようにして歩いている。手垢で黒ずんだ野球帽の庇の下に、左右の大きさが違う双眸が覗いていた。
 互いの視線がぶつかって、ぎろりと睨まれた。わたしはあわてて目をそらして、男の傍らを通 り抜けようとした。灰色の作業服の上下を着込んだ長身痩躯の体に、パンパンに膨れ上がった重そうなリュックを背負っている。汗のすえたにおいが鼻をついた。
「にいさん」
 野太い声で呼び止められた。
「この辺りに、小学校はなかったかな?」
 わたしはあらためて、男の浅黒い顔を見た。日に焼けた、というよりも、うっ血したようなどこか病的な顔色だった。夏がぶり返したような強い日差しの下で、まるで汗をかいていない。不精髭が生えた鋭角な顎に薄い唇、鼻梁も尖ったきつい顔だ。年齢は四十代の半ばだろうか。
「小学校なら、向こうの校庭のある建物です」
 わたしが指さした方角に、男が視線をやった。
「そうか、建て直したんだな。昔は、古い木造の学校だったが……」
 独り言のようにつぶやいた。
「前の小学校なら、そこにたっとりましたよ」
 わたしは、目の前にあるコンクリートの建物を見ながら言った。淡いクリーム色の壁に、赤い十字架のマークが取り付けられている。
「移転したの?」
 男の問いかけに、わたしは無言で頷いた。
「そう……、病院になってたのか」
 男は、全体の大きさを確認するように、病院の周囲をぐるりと見渡した。そして、納得したように大きく頷いた。男の視線が急に遠くなった。わたしは、居心地の悪さを感じて、無言でその場を離れた。
「にいさん!」
 しばらく歩いた所で、後ろから呼びかけられた。振り返ると、男のきつい顔の下層から、別 人のような柔和な笑みが浮き上がった。
「ありがとうな」
 帽子を脱いで、丁寧に頭を下げた。後退した額の上に灰色の蓬髪が現れて、男の顔が急に老けて見えた。わたしも、学帽を取ってペコリと一礼した。
 しばらく歩いたあとで、背後の様子をうかがった。病院に向かって、合掌している男の姿が目に入った。行き交う人の好奇の視線に構わず、瞑目したまま彫像のように動かない。
(誰か、病院で死んだんかな)
 すぐに否定した。
(あの人は、昔の小学校を探しとったんじゃ)
 再び歩きだしながら、わたしは、子供の頃に母親から聞かされた話を思い浮かべた。広島の原爆の後日談だ。
 一瞬にして住居を奪われた被爆者たちは、県内の市町村の公共施設に分散して収容されたのだという。県北の山間にあるこの小さな田舎町の小学校にも、多くの被爆者たちが列車やトラックで運び込まれた。その看護のために、周辺の女手が集められた。わたしの母親や祖母も、その中の一人だった。
 医薬品が欠乏しているので、治療といっても赤チンを塗るぐらいだ。八月の猛暑の中、ケロイドになった傷口は腐敗して、蛆がわいた。被爆者は一様に、猛烈な痒さを訴える。しかし、母親たちにできることは、ウチワで傷口を扇いであげることぐらいだ。校庭では毎日ように、死体を焼く黒い煙りが立ち昇っていた……。
 最初に話を聞いたときは、ただ単純に気味が悪いだけだった。まだ幼かったので、想像する力に欠けていたのだろう。今では、その後に読んだ原爆の小説や映像のイメージが重なって、ひどく生々しい記憶に育っている。
(もしかして……)
 立ち止まって、振り返った。男の姿は、忽然と消えていた。病院の周辺を見渡したが、あの黄色い帽子はどこにもいない。わたしは、何かを置き忘れてきたような気持で家路についた。


 学生鞄を床に投げ出して、ソファのクッションに体を委ねた。八畳ほどの板の間に、どっしりとした応接セットが備えてある。天井にはシャンデリアを模した照明、豪華過ぎる自室だった。
 テーブルのガラス板の上に、小ぶりな封筒が置かれていた。淡い薔薇の花びらに囲まれた中に、「相田良治」という宛て名がブルーのインクで書かれている。几帳面 で綺麗な字だった。自分の歪んだ著名に馴染んでいるので、他人の名前のような気がした。取り上げて裏返しにすると、「秋村綾子」の名前があった。
(やっと、返事がきたか……)
 高校の同級生である彼女から暑中見舞いのハガキが届いたのは、八月に入って間もなくの頃だった。北海道の釧路にある親戚 の家に遊びに来ているという。広大な牧草地の絵ハガキで、「北国から、さわやかな風をお届けします」という言葉が添えられていた。
 すぐに礼状を書こうとしたが、うまくまとまらず、官製ハガキを五枚、だめにした。絵ハガキを貰ったときの感激を、とても小さなスペースの中に収めることはできなかった。手紙を書くことにした。何度も書き直しているうちに、次第に愛情の告白めいた文面 になってしまった。
 彼女に対しては、中学で同級生だった頃から好意を抱いていた。同じ地元の高校に進学して、そして、また同じクラスになった。運命的なつながりを夢見ていたが、暑中見舞いをもらって、それが確信に変わった。これは、彼女の方からの愛情表現ではないか。その気持に応えるべきだ。いや、応えなければならない……。
 手紙を書き上げるまでに、十日近くかかった。しかし、彼女の宛て名を書いた封筒を前にして、高揚した気持が急に萎んだ。怖くなったのだ。俺の勝手な思い込みだったら、どうしよう……。ふられたときのことが、頭をよぎった。結局、手紙を投函したのは、夏休みも終わりに近づいてからだった。夏が終われば、もう告白する機会はないと思った。
 無意識のうちに、秋村綾子の手紙を鼻先に近づけていた。香料を染み込ませてあるのか、甘い芳香が鼻腔の中に広がった。幼い頃から嗅覚には敏感で、新しいものに出くわすと、まずにおいを確認するのが癖になっていた。同じクラスの山内(やまのうち)に、からかわれたことを思い出した。
『おまえ、ホンマ、犬みたいなやつじゃのう』
 配布されたばかりの教科書のにおいを嗅いでいた。
『うん? ああ、犬年生まれじゃけんねえ』
『かばちいぬかすな。俺も犬年じゃが、そげえな恥ずかしいことはせんで』
 同い年だということを忘れていた。
 手紙の封を切るためにハサミを探したが、見つからない。
(仕方ない、あとにするか)
 いつもながらの自分の臆病さに辟易しながら、いくぶんほっとした気持で、彼女の手紙を学生鞄の中に大切にしまった。

 夕食は、いつも通りに五時半から始まった。
「手紙がきとったようじゃね」
 祖母が尋ねた。わたしは、曖昧に頷いただけで、その話題を切り上げた。食欲はなかったが、義務である茶碗二杯のご飯をお茶で胃の中に流し込んだ。
 食事が終わると、祖母が風呂を沸かして入り、そのあとでわたしが入浴する。そして、祖母が就寝する九時まで、居間でテレビを見て過ごす。いつも通 りの日課が、いつも通りに過ぎていった。
 祖母と二人だけの生活が、もう二年以上も続いている。この家は、祖父母の隠居所として建てられたのだが、入居する前に祖父が死んで、わたしが身代わりに送り込まれたのだ。
 最初のうちは、わたしも祖母と一緒に夜の 九時には床についていた。居間に布団を二つ並べて電気を消されては、眠るしかない。自分の部屋は、与えられていなかった。仕方ないので、トランジスタラジオを寝床に持ち込んで、イヤホンで聞いていた。そのうち、応接間を勝手に占拠して、夜の時間を過ごすようになった。
 その夜も、いつも通りに応接間に引き上げたのだが、顔が強ばっているのが自分でもわかった。学生鞄から手紙を取り出して、祖母から借りた裁縫用のハサミで封を切った。手が震えていた。この手紙の中に、自分の未来が書いてあるんだと信じていた――。


「にいさん」
 背後から声をかけられて、心臓がビクンと大きく跳ねた。首をすくめたまま振り返ると、あの黄色い野球帽をかぶった男が立っていた。
「やあ、また会ったね」
 男は柔和な笑みを浮かべると、わたしの傍らに立って、目の前に広がる碧い水面 (みなも)を眺めた。
「国鐘(くにかね)池というんだってね。お国さんとお鐘さんの美人姉妹か。残酷なことをしたもんだが、こうやって二人の名前が後世まで残ってるんだ。半分、羨ましいような気もするよ」
 男のすえた体臭が、鼻腔の中に押し入ってきた。
(だったら、あんたもいっぺん、生きたまんま土ん中に埋められてみりゃあ、ええんじゃ)
 胸の内で毒づいた。地元の伝承によれば、この池は谷川をせき止めて造った溜め池で、水量 が多いために大雨が降ると堤防が切れて、毎年のように水害を起こしていたという。そのために、お国とお鐘という名前の美人姉妹が、人柱として堤の底深くに埋められたと伝えられている。
「白い鯉か。一度、お目にかかりたいもんだな」
 そう言って男は、腰を折るようにして、水の中を覗きこんだ。国鐘池の伝承には続きがある。人柱として犠牲になった国鐘姉妹は、二匹の白い鯉となって、今でも池の中を泳いでいるという。その伝説のせいか、この池で釣り人の姿を見かけることはなかった。いや、人影を見かけることも、あまりなかった。
「失恋でもしたのかい?」
 唐突に、男が尋ねた。図星だった。秋村綾子の手紙には、すでにクラスの他の男と付き合っていると書かれていた。わたしは、何も気づいていない自分の鈍感さを呪った。そして、綾子と、その謎の恋人がいる教室に、これからも通 わなくてはならないことを恐怖した。
「俺、自殺するように見えました?」
 自分でも、声が高ぶっているのがわかった。思えば、自分自身に対する問いかけだったのかもしれない。男は遠い視線で、しばらく池の周囲を見渡していた。水辺を取り囲むように、鎮守の森が広がっている。
「確かに、死に場所としては悪くない。でも……」
 口元に冷笑が浮かんだ。
「人間、そう簡単に死ねるものじゃないさ。死ぬにも、勇気が必要だ」
 つぶやくような声だったが、胸の奥まで鋭利に響いた。自分の本質を、見透かされたような気がした。やり場のない怒りが全身に満ちた。
「馬鹿野郎!」
 腕を大きく振っていた。学生鞄がぎくしゃくした放物線を描いて、水面 を激しく叩いた。あの鞄の中には、秋村綾子の手紙が入っている。鞄が水中に消えるのを待たずに、わたしは踵を返した。
「にいさん、ちょっと待てよ」
 背後で男の声が聞こえた。いつの間にかわたしは、走り出していた。


 商店街の方に向かっていた。目的があるわけではなかった。どこにも居場所がなかっただけだ。
「リョージ!」
 名前を呼ばれた。本当はヨシハルと読むのだが、子供の頃からリョージと呼ばれる方が多かった。しかし、今はそんな呼び方をするやつは一人しかいない。五十CCの原付きバイクが、わたしと並んで徐行した。
「おまえがサボリなんて、珍しいな」
 山内が話しかけてきた。今朝、わたしはいつも通りに家を出たあとで、公衆電話から、風邪で休むと学校に連絡を入れておいたのだ。
 わたしは無視して、先を急いだ。山内がエンジンをふかして、バイクを歩道に乗り上げた。行く手を塞がれたわたしは、工事用の白いヘルメットをかぶっている猿に似た顔を睨んだ。
「機嫌わりいな。おまえ、メンスか?」
 そう言って山内は、カッターシャツの胸ポケットから白い布切れを取り出して、鼻先を拭った。笑うと額に皺が寄って、さらに猿顔になる。
「この、ド変態が」
 わたしもつられて笑っていた。山内の持っている白い布は、二人の秘密の戦利品なのだ。
 あれは去年の夏休みで、まだ中学生だったときのことだ。山内に誘われて、深夜の市営プールのフェンスを乗り越えた。女子更衣室のロッカーの上に、段ボールの箱が置かれていた。赤いマジックで、「忘れ物」と書いてあった。
「おっ、これこれ、京子のパンツに間違えねえぞ。俺、あいつの家で干してあるんを、何度か見たことがあるんじゃ」
 懐中電灯の明かりの中で、山内が光沢のあるナイロンの布地を取り上げた。誰から聞いたのか知らないが、篠田京子が市営プールで下着を忘れて帰ったという情報を仕入れてきたのだ。隣のクラスの篠田京子は、大人びた雰囲気のグラマラスな美人だった。
「山分けしようぜ」
「いや、俺はええよ」
「カッコつけんなよ」
 山内が、用意していたハサミで獲物を二つに切り分けた。
「じゃけん、おまえはケツの穴の方で我慢せえや」
 下着の後ろ半分を、強引にわたしの胸ポケットに押し込んだ。その獲物は、応接間の収納庫の花瓶に隠しておいたのだが、いつの間にかなくなっていた。祖母が処分したのだろうが、確かめる勇気はなかった。
 篠田京子は、広島市内の私立高校に進学して、今はこの街を出ている。山内の自慢話では、「卒業前に、京子を俺の部屋に連れ込んで一発やった」そうなのだが、わたしは信じていない。山内のとんでもないホラ話に、今まで何度も騙された。京子のパンツも、本物かどうか怪しいものだ。
「乗れや。メシ、食いに行こうぜ」
 山内が、バイクのシートの後ろをポンポンとたたいた。腕時計を見ると、いつの間にか昼休みの時間になっている。食欲はなかったが、素直に山内の背後に跨がった。あてもなく歩き回ることに疲れていた。
 山内の背中を抱えると、柑橘系のさわやかな芳香がした。山内が使っているアフターシェーブローションのにおいだ。まだ髭の薄いわたしには、大人びたにおいに思えた。
「『しのはら』で、ええんじゃろ?」
 山内の確認に、わたしは気のない返事をした。
「元気がねえな。まあええ。何があったか、あとできかせてもらうけえ」
 ひときわ高いエンジン音を響かせて、バイクが車道に飛び出した。


 白い割烹着をきた婆さんが、両手に握った巨大な金属のヘラを巧みに操って、切り刻んだキャベツとモヤシを鉄板で炒めている。天カスをパラパラと振りかけて、鰹節の粉と塩コショウで下味をつける。その傍らにうどん玉 を落とし、ヤカンの水をちょっぴり垂らして、蒸らしながらほぐしてゆく。炒めた野菜とうどんを一緒にして、その上にお好み焼き用の濃厚なソースをたっぷり注ぎ込む。ジュージューという音を響かせて、香ばしいにおいが辺りに充満した。
 お好み焼き屋の「しのはら」は、わたしが子供の頃から通っている店だった。古い木造の二階屋の軒先には、色鮮やかな駄 菓子類の陳列台が並べられ、店内の棚には、貸本のマンガがぎっしり詰まっている。
 途中、五年間のブランクがある。わたしの兄二人がひどい喘息で、そのための転地療養に同行したのだ。母親と子供三人で、気候の温暖な瀬戸内海沿岸の地方で暮らしていた。祖父の死後、わたしは父親の命令で、祖母と暮らすためにこの山間の田舎町に帰って来た。
 五年ぶりに再訪した「しのはら」は、何も変わっていなかった。いや、わたしが小さな手で拾円玉 を握り締めて、サイコロキャラメルを買いに走っていた頃から、ほとんど変わっていない。灰色の髪の毛を引っ詰めにして、洗いたての真っ白な割烹着をき込んだ婆さんの姿も、その無愛想な応対も、昔のままだった。そして、わたしが高校生になった今も、この店の時間は止まったままなのだ。
「はい、おまっとうさん」
 婆さんが出来上がった焼きうどんを、両手の大きなヘラですくうようにして、わたしの前の鉄板に置いた。青海苔をたっぷり振りかけて、割り箸で口に運ぶ。焼けたソースの甘辛い風味が口いっぱいに広がって、わたしのナマケモノの胃袋がようやく目を醒ました。それでも、半分も食べないうちに満腹した。
「何があったん?」
 婆さんが奥の座敷に引き上げるのを待って、山内が尋ねた。いつもながらの早食いで、自分の焼きそば入りのお好み焼きは、すでに平らげている。
「何があ?」
 わたしはとぼけて、機械的に箸を動かした。食べるのが苦痛になっていた。
「水くせえやつじゃのう」
 山内が、わたしの焼きうどんに手を伸ばした。小ぶりのヘラでざっくり切り分けて、すくい上げる。
「人間失格クラブの同志じゃろうが」
 焼きうどんに食いつきながら、悪戯っぽい目をわたしに向けた。
 人間失格クラブ――、山内が勝手に命名した二人だけのクラブだ。始まりは、中学二年のときになる。転校してきたわたしは、二学期になっても親しい友達ができず、昼休みも図書室で過ごすことが多かった。
「太宰が好きなんか?」
 振り返ると、山内が立っていた。わたしは、太宰治の「斜陽」を読んでいた。返事に困って、口ごもった。わたしにとって、太宰の作品は魅力的、いや、魅惑的だったが、「好き」という言葉には違和感を覚えた。
「『人間失格』、読んだか?」
 山内が重ねて尋ねた。
「ああ、この前、読んだ」
「どうだった?」
 いつものおどけた顔とは別人だった。快活でひょうきんな山内は、クラスの人気者だった。山内のまわりには、いつも陽気な笑いがあった。
「安心したよ」
「安心?」
「俺と同じような人間がいるんじゃと、ほっとしたんよ」
 山内が大きく頷いた。そして、さらに詳しいことを知りたがった。その異様な迫力に気圧されて、わたしは祖母との暮らしのことを話した。
 生活時間のすれ違い、話題が何もないこと、食べ物の好みの違い……。それだけに、「人間失格」の語り手である葉蔵の、「最も苦痛な時刻は、実に、自分の家の食事の時間でした」という告白は、わたしの心に染み入るように届いた。
「そういや、ホンマにまずそうに給食、くっとるよな。おまえも、腹が空くことはないんか?」
 山内が、不思議そうな顔で尋ねた。「人間失格」の葉蔵は、生まれたときから一度も空腹を感じたことがないという。
「いや、腹はへるんよ」
 祖母が就寝したあとで、応接間に一人で籠もるとき、疲弊していた胃袋がようやく活動を開始する。翌朝までは、自分だけの時間を過ごせるのだ。十一時を過ぎる頃には、空腹感が募ってくる。
 誘惑に負けて、よくインスタントラーメンに手を出した。食欲が満たされる至福のときだが、翌朝には代償を払うことになる。胃がもたれて、朝食が辛いのだ。それに、登校の緊張感が加わって、いつもおなかをこわしていた。
「ひょっとして、あんときのスカ屁、おまえだったんか?」
「わりい。我慢できんかったんよ」
 この前の授業中、腹具合が徐々に悪くなって、ついガスが漏れてしまった。最初に騒ぎだしたのは山内だった。すぐに犯人捜しが始まったが、誰かが、言い出しっぺの山内が怪しいと言い出して、それで一件落着した。いかにも、山内のやりそうな悪戯だった。
「暗い毎日じゃのう」
 断定だった。腹は立たない。その通りなのだ。
「最近、同じ夢をよう見るんよ。目が覚めたら、世界中の人間が死んどって、俺だけが生き残っとる。誰もおらん街ん中を、俺一人だけが歩いとるんじゃけど、少しもさみしゅうはないんよね」
 山内の眼窩の奥にある小さな目が、わたしの顔をじっと見据えていた。別 人のような怖い顔だ。頭の中まで覗かれているような気がした。唐突に、山内がニヤリと笑った。
「相田、おまえ、けっこう人間失格、しとるじゃねえか」
 まるで、称賛するような口調だった。わたしは、苦笑を浮かべるしかなかった。
「俺もな、いろいろとあるんよ」
 今度は山内が、自分のことを語り始めた。山内は、再婚した母親の連れ子なのだという。母親は、広島市内の繁華街でホステスをやっていた。その店で、今の父親と知り合った。
「日も当たらん四畳半のアパートから、いきなり、お手伝いさんのおるでっかい家で暮らすようになったんじゃけえ」
 山内の家は、土建業を営んでいた。やり手だという噂の父親は、国会議員にも顔がきく地元の名士だった。
「それに、姉貴が二人に、爺さん婆さん、まだ独身の叔父さんまで同居しとる。二人だけの生活から、一気に大家族の仲間入りよ。じゃけん、俺と母さんは、いつまでも“よその人”のままじゃった……」
 まだ小学校に上がる前の幼い子供が、周囲の冷たい視線から自分を守るために身につけた方策が、道化だった。無邪気で悪戯好きの子供を演じれば、まわりの雰囲気が和らいだ。笑いがあるときだけ、本当の家族になれたような気がしたのだという。
「俺もおまえと同じじゃけえ。『人間失格』を読んだとき、よう似た人間がおるもんじゃと、うれしゅうて仕方がなかった」
 山内はそう言って、自分で相槌を打った。「人間失格」の葉蔵は、人間の営みというものがまったく理解できていない自分に、絶望的な不安を抱いている。その心の空虚な闇を隠す手段が、道化だった。道化の仮面 をかぶることで、かろうじて世間と向かい合うことができた。
(こいつ、本当のことを言うとるんじゃろうか)
 山内の顔色をうかがった。今の告白自体が、手の込んだ悪戯のような気がした。クラスで見せるあの明るい笑顔の下に、そんな繊細で陰質な素顔を隠していたとは、とても信じられない。
「ほいじゃけえ、俺とおまえとは、同志のようなもんなんよ。これからは、よろしゅうたのむわ」
 山内が、右手を差し出した。わたしは一瞬、躊躇したが、握手に応じた。人間失格クラブの誕生だった。

「おい、リョージ、何があったんよ。俺にも話せんことなんか?」
 山内が、重ねて尋ねた。
「実はな……」
 すべてを話すつもりで、わたしは山内の顔を見た。
(こいつ、楽しんでやがる)
 そう直感した。
「鞄をどこかに忘れてきてな。今朝になって、気づいたんよ。それで、心当たりをあちこち探しとるんじゃが、まだ見つからんのよね」
 山内の小さな目が、わたしの顔をじっと見据えている。わたしは視線をそらして、焼きうどんの残りを口に運んだ。コップの水で、無理やり胃の中に落とした。
「明日も鞄を探すんか?」
 山内が尋ねた。
「ほうじゃな」
「よっぽど大事なもんが入っとるんじゃのう」
 苦笑を浮かべるしかなかった。
「ほいじゃあ、明日も風邪だな」
「うん……」
「だったら、俺が連絡しといてやるよ」
「わりいな」
 後ろめたさを覚えていた。仲のいい友達にも悩みを打ち明けられない自分の卑屈さに、うんざりしていた。
「そろそろ行くか」
 山内に促されて、店の外に出た。ヘルメットをかぶった山内が、両手を挙げて大きく伸びをした。
「あーあ、こんなすり鉢の底のような狭苦しい街、はよう出て行きてえよな」
 山内の口癖だった。中国山地の中にある盆地の底に、この街はあった。
「あと二年半か。俺にはとても我慢できんで」
 同意を求めるように、山内がわたしの顔を見た。
 山内は、東京の高校に進学することを望んでいた。実際、東京の有名な私立高校を受験したのだが、落ちたのだ。意外だった。山内の学力は、学年でもトップクラスだった。上には上がいる、外の世界の大きさに、わたしは恐怖心さえ覚えた。
 山内は、浪人して来年も東京の高校を受験するつもりでいた。しかし、心臓を患って入院している母親に泣きつかれて、しぶしぶ地元の高校に入学した。
 山内が東京の高校にこだわるのには、秘められた理由があった。演劇をやりたいのだ。そのためには、劇団の多い東京に出る必要があった。
「俺は、子供の頃から、まわりの大人を欺いて生きてきた。演技をするのが体に染み付いてしもうとる。せっかくじゃけえ、それを利用してやろうと思うたんよ。天職というもんがあるとすりゃあ、役者が俺の天職よね」
 山内の話を聞いていて、本当にその通りだと思った。中学校の図書室で、わたしに素顔をさらしたあとも、山内は相変わらず、ひょうきんで明るい生徒を完璧に演じていた。
(だったら、俺の天職は何じゃろうな)
 薬剤師の父親に代わって、薬局の店頭に立つ自分の姿を思い浮かべた。それで十分だと思っていた。しかし、山内の話を聞いたあとでは、自分の未来がひどく色あせて見えた。
(こいつ、人間失格のくせに、いっちょまえの夢なんか持ちやがって)
 嫉妬を覚えた。山内が高校受験に失敗したとき、わたしは内心、喜んだのだ。そして、そんな卑屈な自分が、ひどくみじめに思えた。

 バイクのエンジンが始動すると、排気ガスのいがらっぽいにおいが周囲に充満した。
「まあ、ゆっくり休めや」
 そう言って、山内がニヤリと笑った。わたしだけに見せる、どこか屈折した冷ややかな笑みだ。わたしも笑ったつもりだが、自信はなかった。
「じゃあな」
 山内が片手を挙げた。わたしは頷いて、バイクの後輪を軽く蹴り上げた。エンジンが咆哮して、バイクが走りだした。その後ろ姿が交差点の角に消えるまで、わたしは見送っていた。
(さあ、これからどこに行くか)
 それが問題なのだ。急に足が重くなった。


 いつも通りの夕食が、いつも通りに始まって、いつも通りに終わった。祖母は、わたしが学校を休んだことには気づいていない。たとえ気づいていたとしても、たいした話題にはならなかったような気がする。
 居間で新聞を読んでいるとき、風呂上がりの祖母が部屋に入って来た。いつもは丸髷を結っている髪が、背中まで垂れている。黒く染めた髪がさらに漆黒に濡れて、まるで別 人のようだ。
「お湯が冷めんうちに、はよう入りんさい」
 祖母に促されて、新聞をたたんで座卓の上に置いた。そのとき、新聞の日付が二日前だということにようやく気づいた。
 浴室に入ると、ステンレスの浴槽に赤茶けたお湯が張られている。井戸を掘って、地下から汲み上げた水だ。炊事や洗面 に使う分には透明なのだが、こうして大量に溜めると変色してしまう。鉄錆の色だが、新築当時からのことなので、パイプではなく水質に問題があるのだろう。
 こんな水を毎日、飲んでいるのだ。体の内部が錆色に染まっている光景を思い浮かべた。いつも、カラスの行水だった。湯船にゆっくり浸かっていると、いつしか関節が錆び付いて、動けなくなるような気がした。
 シャンプーで洗髪しているとき、頭皮に痛みを覚えて、両手の指先を調べた。白い泡の一部が、淡いピンク色に染まっている。驚いて手の泡を洗い流すと、伸びた爪が現れた。憤りが込み上げてきて、さらに乱暴に頭皮を掻きむしった。痛みの分だけ心が軽くなる……、いや、みじめになるばかりだ。
 どうして俺は、こんな人間になってしまったのだろう。少なくとも幼い子供の頃は、「人間失格」ではなかった。それどころか、まるで自分の王国のように、領土の中を自在に闊歩していた。
 わたしを歓迎してくれる女性が何人もいた。ひとつ年下だった幼なじみのガールフレンド、実家の薬局で働いていたおっちゃん家のやさしいお姉さん、商店街のかしましいおばちゃんたち……。祖母も、その中の一人だった。もっぱら、駄 菓子を買う金をせびりに、足繁く祖父母の家に通っていた。
 当時、おてっつぁんと呼ばれている女性がいた。「てつ」という名前だったのだろうか。年齢は六十前後で、仕立て物で生計を立てていて、わたしの実家にも出入りしていた。耳がまったく聞こえないので、母親とは手話で会話していた。といっても正式に習った手話ではなく、ジェスチャーと言い直した方が無難かもしれない。
 ある光景が、今でもわたしの心に残っている。わたしは一人で、おてっつぁんの家を訪れていた。バラックのようなくたびれた平屋の建物だった。日当たりが悪いので、昼間でも明かりを点けていた。ランプを使っていたような気がするのだが、あるいは裸電球だったのかもしれない。
 わたしは、おてっつぁんの出してくれたおかきをぽりぽり食べながら、ビー玉 のコレクションをぼろ切れで磨いている。おてっつぁんは、飴色の縁の老眼鏡をかけて、針仕事に精を出している。ときどき互いの視線がぶつかって、おてっつぁんが安心したように頬笑んだ。言葉は無用だった。
 あの頃の、人の心にするりと入り込む魔法のような力は、いったいどこに消えてしまったのだろう。祖母も、子供の頃のわたしと暮らしたかったに違いないのだ。幼稚な考えだとはわかっていても、つい思ってしまう。あの頃の魔力が半分でも残っていたら、秋村綾子にふられることはなかった……。
(山内、俺はおまえが羨ましいよ)
 道化の仮面で素顔を隠せれば、学校に行くことができる。彼女の前に立つこともできる。しかし、そんな心の闇を隠す術を持たない者は、いったいどうやって生きて行けばいいんだ。
『死ぬにも、勇気が必要だ』
 あの男の声が、頭の中で響いた。
「わかっとるよ!」
 タライに汲んだ冷水を、頭からかぶった。


「にいさん……」
 後ろから声をかけられても、わたしは驚かなかった。あの男に会うのを、半ば覚悟していた。わたしは構わず、昨日、鞄を投げ込んだ水面 を眺めていた。背後に、男が近づいて来る気配を感じた。
「忘れものを取りに来たんだろ?」
 目の前に、見慣れた鞄が現れた。びっくりして振り返ると、灰色の蓬髪が見えた。今日は、黄色い野球帽をかぶっていない。
「まだ、ちょっとしけってるけどな」
 そう言って男が差し出した鞄を、わたしは怪訝な思いで受け取った。
「悪いけど、勝手に鞄の中のものを出させてもらったよ。そっちの方はまだ乾いてないんだ。でも、持って帰るだろ?」
 頷くしかなかった。先に立って歩く男の後ろに従った。皺だらけの白いワイシャツに色あせた縞模様のズボン、たぶんパジャマのズボンなのだろう。やはり、右足を少しひきずっている。そのとき、男が裸足で歩いていることに気づいた。男が急に立ち止まって、背中を反らせた。
「ハ、ハ、ハ、ハップシェン!」
 体をくの字に曲げて、大きなクシャミをした。
「あの……、もしかして、池の中に入ったんですか?」
 当たり前のことに、ようやく気づいた。
「久しぶりに、体を洗ってさっぱりしたよ」
 男はそう言って、愉快そうに笑った。感謝するべきなのだと思った。しかし、何も言えなかった。男の厚意の裏に、何かが潜んでいるような気がした。
「あれが、我が仮の住まいだよ」
 男が、小さなプレハブ小屋を指さした。国鐘池のそばを走る道路が舗装されたときに、物置として使われていた小屋だった。工事が終わったあとも、そのまま放置されている。鍵がかかっていないので、わたしも何度か雨宿りに利用したことがあった。
 周辺の木立に、男の作業着が吊るされている。ズックもいくぶん白くなって、枝の先に刺してあった。
「ついでに、洗濯させてもらったんだ」
 まるで弁解するように、男が言った。
 わたしの鞄の中身は、日当たりのいい草むらに、新聞紙を敷いて並べられていた。その中に、秋村綾子の手紙もあった。滲んで消え入りそうな自分の名前を目にしたとき、みじめな思いが込み上げてきた。わたしは乱暴に、新聞紙の上のものを鞄の中に押し込んだ。
 背後で、大きなクシャミの音が響いた。振り返ると、男がワイシャツの袖で鼻水を拭っていた。
「お茶でも飲んでいかないか」
 照れくさそうな笑みを浮かべて、男が言った。わたしは躊躇したが、仕方なく頷いた。他に行く場所はなかった。
 プレハブ小屋の前の空き地に、大振りな石が二つ、並べられている。その石の間に、缶 詰のようなものが置かれていた。男がマッチを擦って、蓋の開いた缶に火を近づけると、青白い炎が燃え上がった。男が石の上に、使い込んだヤカンを置いた。
 わたしは、近くの切り株に腰掛けて、その様子をぼんやり眺めていた。やがて、ヤカンからシューシューという音が聞こえ始めた。男がヤカンの蓋を取り上げて、固形燃料の缶 詰にかぶせて火を消した。そして、ヤカンの中の熱湯を、アルマイトのお椀型のカップに注いだ。
「ハトムギのお茶なんだ」
 男が差し出したカップを受け取った。麦茶のような色をしている。少しアクのあるにおいがした。男は、椅子代わりの木箱に腰掛けて、わたしの様子をじっと眺めている。
「あの……、あなたは飲まんのですか?」
「あいにく、カップが一つしかなくてね。まあ、遠慮しないで飲んでくれよ」
 そう言われては、飲むしかない。お茶に息を吹きかけて、冷ましてから口に含んだ。いくぶん渋みのある味が口いっぱいに広がった。しかし、まずくはない。
「ちょっと苦く感じるかもしれないな。薬草のゲンノショウコを少し加えてるんだ。ここ二、三日、おなかの調子がおかしくてね」
 わたしの顔をあらためて見た。
「見たところ、にいさんも胃下垂体質みたいだな。腹具合が悪いときには、ゲンノショウコが一番だよ」
 そう言って、地面に投げ出してある週刊誌を取り上げると、一枚やぶって鼻をかんだ。
「もう一杯、どうだい?」
 わたしがお茶を飲み干したのを見て、声をかけてくれた。わたしはあわててかぶりを振った。
「じゃあ、今度はわしがいただくか」
 わたしからカップを取り戻すと、ヤカンのお茶をなみなみと注いだ。フーフー息を吐きかけながら、本当においしそうに飲んだ。
「うーん、美人姉妹の味がするなあ」
 わざとらしくつぶやいた。わたしは意味がわからず、男の顔をうかがった。左右の目の大きさが違うので、顔が歪んで見えてしまう。
「あの伝説が本当なら、このお茶には、お国さんとお鐘さんのエキスが入っているはずだからね」
 アッと思った。この辺りに、使える飲み水はないはずだ。水を張ったポリバケツが目に入った。急に、口の中に不快感を覚えた。生唾が込み上げてきて、傍らの草むらにベッと吐き出した。
「大丈夫、ちゃんと浄水器でろ過してるから安全だよ」
「浄水器?」
 男は、残りのお茶を飲み干してから立ち上がると、プレハブ小屋の中に消えた。出て来たときには、一升瓶を逆さに抱えていた。よく見ると、瓶の底が切り取られて、中にいろんなものが詰めてある。
「これが、小屋に転がっていたもんで、利用させてもらったんだ」
 男が、手造りの浄水器の説明を始めた。一升瓶の一番上の層が麻袋の繊維で、次が細かい砂、けし炭、同じく砂、小さな砂利、小石と詰めてある。
「みんな、ここで調達したものばかりなんだよ。これでろ過すると、泥水でも飲めるようになる。小便だって大丈夫!」
 わたしの顔を見て、ニヤリと笑った。
「まあ、試したこともないし、試したいとも思わないがね」
 わたしもつられて笑っていた。
「瓶の底は、どうやって切ったんですか?」
 興味を覚えて尋ねた。祖母の家の濁った水が、頭にあった。
「簡単だよ。灯油を染み込ませたヒモを瓶に巻いて、火を点ける。ヒモが燃え尽きたところで瓶を水に浸ければ、ヒモを巻いた所からきれいに割れるんだ。あとで切り口を焼いて丸めておけば、手を切ることもないしね」
 そう言って、瓶の切り口を手のひらで撫でて見せた。
「どうせ、ここにいるときしか必要ないんだ。出て行くときに、にいさんに進呈するよ」
 思わずわたしは頷いたが、すぐにかぶりを振った。祖母の家の台所で、蛇口の水を一升瓶の浄水器に注いでいる光景を思い浮かべた。祖母はどんな顔をするだろうか。
「まあいいさ。出るときは小屋に残しておくから、あとはにいさんの好きにするといい」
 そう言って、浄水器を再び小屋の中に運んだ。
「にいさんに一つ、謝っておきたいことがあるんだ」
 戻って来た男が、あらたまった口調で言った。
「わしが昨日、言ったことは、にいさんに対してじゃあなかったんだ」
 死ぬにも、勇気が必要だ――、男の言葉がよみがえった。 
「じゃあ、誰に言ったんですか?」
 口調がきつくなるのが、自分でもわかった。男の顔に、困惑したような表情が浮かんだ。
「やっぱり……、自分に対して、だろうな」
 そう言って、力なく頷いた。
(この人も、死のうと思うたことがあるんじゃろうか)
 病院の前で合掌している姿が、脳裏に浮かんだ。
(あのことも、関係あるんかな)
 訊いてみたいという衝動を覚えたが、口には出せなかった。触れてはいけない事柄のような気がした。
「それで、俺に親切にしてくれたんですか?」
 もう一つ、気になっていたことを質問した。
「確かに、それもある」
 少し間を置いた。
「この池でにいさんの姿を見たとき、縁を感じたんだ」
「えん……」
「わしみたいに、あちこち渡り歩いていると、多くの人と出会うことになる。まあ、そのほとんどが、そのとき限りの付き合いだな。たぶん、もう二度と会うことはないだろう。そうなると逆に、その人と触れ合っている時間が貴重なものに思えてきてね。縁あって出会ったんだ。どうせならいい思い出を残したいじゃないか」
 同意を求めるように、わたしの顔を見た。
「にいさんに小学校の場所を尋ねたときは、単なる行きずりに過ぎなかった。でも、こうしてまた、この池で再会したんだ。何かの縁があったんだろうよ」
 そう言って、苦笑を浮かべた。
「まあ、にいさんには迷惑な話だったかもしれないがね」
「そんなこと、ないです!」
 自分の声に驚いた。
「すいません。お茶をもう一杯、いただけんですか?」
 照れ隠しに言った。男は、嬉しそうに頷くと、アルマイトのカップにヤカンのお茶をたっぷり注いでくれた。
「あの……、ここにはいつまでおられるんですか?」
 わたしの方から話しかけた。
「もうしばらく、のんびりさせてもらおうかと思ってるんだが……。長居をすると、いろいろと問題が起きるからね」
 男が立ち上がって、池の方に視線をやった。雑木林の梢の隙間から、光りを反射している水面 がわずかに見えるだけだ。
「この池には、以前にも一度、来たことがあるんだ。そうだな、ちょうどにいさんぐらいの年頃だったかな。こんな立派な道路なんかなくて、山道を登って来たんだ……」
 男の視線が遠くなった。いったい何が見えているのだろう。わたしは、話の続きを待った。男が唐突に、身震いするように首を振った。眉間に深い皺が刻まれている。
「にいさんが生まれるずっと前の、はるか昔のことだよ」
 投げやりにそう言って、足元の週刊誌を一枚、乱暴に毟り取った。鼻をかむ大きな音が響いた。しばらく、互いに無言でいた。
「ここを出たら、どこへ行かれるんですか?」
 わたしが先に口を開いた。男の顔に、温和な表情が戻った。
「そうだな……、どこかの観光地で少し稼いで、やっぱり北に向かうんだろうな」
 まるで他人事だ。
「旅館の住み込みだと、衣食住すべてそろってるからね。でも、わしのような風来坊だと、なかなか信用してもらえない」
 もっともだと、わたしは相槌を打った。男が苦笑を浮かべて、小屋の中から古びた手帳を持ち出して来た。
「仕事を探すときは、床屋できちんと散髪して、小ぎれいな服に着替えて、この手帳を持って行くんだ」
 男から手帳を受け取った。背表紙が擦り減って、セロハンテープで補強されている。黄ばんだ灰色の表紙を開くと、万年筆で書かれた几帳面 な文字が目に入った。

〈吉川荘平様
 あなたは、骨惜しみなく、よく働いてくれました。私は、あなたのまじめな仕事ぶりを認めるものです。〉

 そのあとに日付と著名、最後に住所や電話番号の入った旅館のスタンプが押されている。
「きっかわ、というのが、わしの名前なんだ」
 男が、いや、吉川さんが言った。
「あっ、俺、いや、僕は……」
「相田さんだね。悪いけど、教科書に書いてある名前を見させてもらったよ」
 わたしは恐縮して、頭を下げた。
(それにしても、吉川荘平という名前……)
 どこかで見たような気がした。
「こうやって、旅館を出るときに、主人に一筆かいてもらうことにしているんだ。もちろん、仕事を一生懸命やらなけらば、こんなことは書いてくれないがね」
 わたしは頷いて、パラパラとページをめくってみた。同じような文面 が、さまざまな文字で書かれている。むろん、著名やスタンプも違っていた。
「わしの身分証明書のようなもんだよ。それでも信用してくれないなら、わしが前に働いていたところに電話を入れてもらって、人となりや仕事振りを確認してもらう。人手の足りない時期を狙って行けば、まず仕事にあぶれることはないな。居心地がよければ、しばらく長居をすることもある」
(気ままでええよなあ)
 わたしは羨望の思いで、吉川さんの話を聞いていた。
「でも、なして北に向かうんですか? これから寒うなるんじゃけえ、南の方がぬ くうてええと思うんですが」
「冬眠するのさ」
「とうみん……、熊がする冬眠ですか?」
 吉川さんが頷いた。
「東北か、北陸か、どこか雪深い山村に行って、冬を越すんだ。一人暮らしの老人か、爺さん婆さんしかいない家を訪ねて、春になるまで居候させてもらう。その代わりに、雪下ろしをわしがやってあげるんだ。雪国の雪は、なかなかどうして、獰猛だからね。家が潰れてしまうこともある」
「楽しいんですか?」
 わたしの素朴な問いかけに、吉川さんが困惑した顔で、蓬髪を指で掻いた。
「そんなことは、考えたこともなかったな。ただ、贅沢だとは、思ったことがある」
 ワイシャツの袖口で、鼻水を拭った。
「最初のうちは、囲炉裏端に腰を下ろして、お互いの身の上話なんかをして過ごすんだ。でも、そんなもん、半月もすればネタは尽きてしまう。特に年寄りは、同じ話を何度も何度も繰り返すからな。本当に、耳にタコができちまう。しかも、雪国の冬は、うんざりするほど長いんだ。雪の中に閉じ込められて、何もすることがない。死ぬ ほど退屈なんだが、どこかでそれを、感謝している部分がある。昼間から布団に寝そべって、天井の梁の節なんか数えていると、贅沢なことをしてるなあと思ったりしてね」
「よくわかります」
 思わず口をついて出た。吉川さんの顔に笑みが広がった。
「本音をいえば、体のこともある。若い頃から、無理が利かない体なんだ。冬場にゆっくり休養することで、この年まで生き永らえてこれたのかもしれないな」
 そう言って、自分で小さく相槌を打った。
「冬眠する家は、もう決まっとるんですか?」
「いや、何も決めていないさ」
「でも、今までにお世話になった家が、たくさんあるんでしょ?」
「確かに、同じ屋根の下でひと冬すごせば、情もわいてくる。また来て下さいと、頼まれることも多い。でも、同じ家には行かないことにしてるんだ」
「なしてですか?」
 吉川さんの口元に、自嘲が浮かんだ。
「待たれるのは、嫌いなんだ」

 吉川さんが昼飯に、草粥をご馳走してくれた。
 周辺に生えているハコベやカタバミ、クローバーなどの雑草の柔らかい若葉を摘んで、細かく千切ってアルマイトのカップの中に入れる。それに、チンチンに煮たてたヤカンの熱湯を注いで、そのまま放置しておく。
 お米は、ビニール袋の中で軽く研いで、そのまま火にかけたヤカンの中に入れてしまう。お粥ができてきたら、雑草の具を手の中でギュッと絞って、アク抜きしてから放り込む。しばらく煮込んで、仕上げに塩で味付けする。
 わたしの器はお茶を飲んだカップ、吉川さんはわたしのアイデアで、ヤカンの蓋を使った。ハフハフと息を吐きかけながら、小枝の箸で草粥を食べた。口いっぱいに、いや、体の中にまで、やさしい風味が広がった。
「うまいのう」
 自然と口から出た。
「ゲンノショウコが効いたかな」
「いや、本当にうまいです」
 お世辞ではなかった。
「じゃあ、塩のせいだな。鹿児島の旅館で働いていたときに、そこで使っていたのを分けてもらったんだ。奄美大島でつくられた天然の塩らしい。どうだい、南の島の、海の香りがしてこないかい?」
 冗談めかして、吉川さんが言った。わたしは目を閉じて、立ちのぼる湯気を胸いっぱいに吸い込んだ。涼やかな草の香りの中に、かすかに潮のにおいを嗅いだような気がした。目を開けると、吉川さんの好奇の視線にぶつかった。
「どうだい、何か見えたかい?」
「はい、きれいなサンゴの海の中を、美しい人魚の姉妹が泳いどる姿が見えました」
 吉川さんが破顔して、声を上げて笑った。わたしも笑っている。そして、そんな自分に驚いていた。
 食後に、吉川さんが入れてくれたコーヒーを飲んだ。芳ばしい香りが好もしい。本物のコーヒー豆ではなく、乾燥させたタンポポの根を煎ったものだというのだが、インスタントしか飲んだことのないわたしには、その違いがわからない。
 吉川さんは、とっておきの非常食だという氷砂糖を、砂糖の代わりに奮発してくれた。タンポポの根のコーヒーをお代わりしながら、吉川さんからいろんな話を聞いた。全国を放浪している未だ現役の風来坊なのだ。面 白い話がいくらでも飛び出してくる。
「うん?」
 吉川さんが後ろを振り向いた。
「あの音は、学校のチャイムだね。にいさんの学校かい?」
「いや、農業高校です。俺が行ってるのは、普通科なんです」
「そうか、こんな近くに自分の学校があっちゃ、のんびりさぼれないよな」
 笑えない冗談だった。
「なして、勉強せんといけんのじゃろ?」
 学校に対する反発が、つい口をついて出た。吉川さんは苦笑を浮かべ、コーヒーの入ったヤカンの蓋を口に運んだ。
「そんなこと、中学もろくに出てないわしに訊かれてもなあ」
 しばらく考えていた。
「やっぱり、自分たちのためなんだろうな」
 がっかりした。もっと違った答えが返ってくると期待していた。
「でも、数学の微分や積分が、生きて行くのにホンマに必要なんじゃろうか。歴史の年号を覚えたり、物理の方程式を記憶するんが、なんかの役に立っとるんじゃろうか」
 つい、ムキになってしまった。
「そういう意味じゃないんだ。わしが思うに、学校というのは、学業が優秀な生徒を選ぶためにあるんじゃないかな。高校、大学と上の学校に行くほどに、成績のいい者が集められていく。その中でもとりわけ優秀なエリートが、国や企業の援助を受けて、学問や研究の分野で才能を発揮することになる。まあ、例外もあるんだろうが……」
「じゃあ、勉強ができるやつのために、学校はあるんですか?」
「そういう一面があるということだよ。別に悪いことじゃないさ。そうやって選別 されたエリートが、必死になって勉強したり研究してくれた成果が、世の中の役に立ってくれればいいんだ。そうなれば、結果 的に自分たちの利益につながることになる」
 なるほどな、とは思ったが、とても納得はできなかった。
「だったら、エリート以外の者は、勉強しても無駄じゃないですか」
 わたしの性急な結論に、吉川さんが小さく頷いた。
「そうだな、無駄かもしれん。でも、この歳になると、世の中には、無駄 なことも必要なんだと思えるようになってね。まあ、自己憐憫かもしんな。わしのような人間こそ、世の中にとっては無駄 なんだから」
「そんなことたあ、絶対ないです」
 断固として否定した。吉川さんが、照れた笑いを浮かべた。
「まあ、人には向き、不向きが確かにある。勉強が性に合っていない者は、何か他のものを見つければいいんじゃないかな。学校は、勉強だけがすべてじゃないんだろ?」
 わたしは返答に窮して、曖昧に頷いた。
「ところで、にいさんは、何のために高校に進学したんだ?」
 わたしは考えた。今までは、それが当然のことだと思っていた。いろんな理由が頭に浮かんだ。でも、すべてが言い訳のような気がした。


(何のために高校に進学したんか……)
 国鐘池の坂道を下りながら、わたしはずっと考えていた。
(俺は、無意識のうちに、本当の理由を求めていたんかもしれんなあ)
 何のために高校に通っているのか。どうして、祖母と二人で暮らしているのか。どうして、この土地に生まれたのか。どうして、自分は自分なのか。そして、何のために生きているのか……。
(そんなもん、答えられるんは、神さまぐれえじゃ)
 そのとき、子供の頃に見た新約聖書の映画が脳裏に浮かんだ。教会が開催した子供向けの映写 会で、三時のおやつが目的だった。十字架に磔にされたイエスさまの姿を、今でも覚えている。五寸釘で手足を打ち抜かれながらも、確信に満ちた笑顔を浮かべていた。
(駄目じゃ駄目じゃ!)
 激しくかぶりを振った。
(神さまを信じるには、俺はひねくれ過ぎとる)
 農業高校の近くまで来ると、研修のために飼育されている家畜のにおいが風で運ばれてきた。乳牛や鶏などの糞尿の異臭だが、わたしはそのにおいが、嫌いではなかった。
 道路の両脇に広がるたんぼは、すでに半分ほど稲刈りが終わっている。その真っすぐな道路の先に、青い屋根瓦のちんまりした祖母の家が見えた。
(山内……)
 遠目でも、すぐにわかった。庭の鉄柵の前で、バイクにまたがったまま、瓶入りのジュースを飲んでいる。きっと、ドクターペッパーだ。わたしが手を挙げると、山内がすぐに気づいた。飲み干した瓶を鉄柵の上に置いて、バイクをスタートさせた。
「よお、風邪の具合はどうじゃ?」
 わたしの傍らにバイクを停めた山内が、そう言ってニヤリと笑った。
「まあまあじゃな」
「これ、担任から渡すように頼まれたけえ。数学の安田が盲腸で入院したんで、来週から授業の時間割が少し変わるらしい」
 ズボンのポケットから、折り畳んだワラ半紙を取り出した。わたしは確認もせずに、そのまま鞄の中にしまった。
「鞄、見つかったんじゃな」
「ああ、池の中に落ちとったよ」
 山内が笑った。そして、あらためてわたしの顔を見た。
「昨日よりは、少しは元気が出たみたいじゃのう」
「何も変わっとりゃあせんよ」
 ぶっきらぼうに答えたが、友達の心遣いは嬉しかった。
「ただ、国鐘池で面白い人におうてな」
 吉川さんのことを、少し話した。
「おまえが初対面の人とそげえに仲ようなるとは、珍しいよのう」
 まったく、同感だった。
「おまえ、吉川荘平という名前、どこかで聞いたことないか? 中学の図書室で見たような気がするんじゃが……」
 山内が中学二年のときの図書委員、わたしが 三年のときの図書委員だった。
「ああ、そんな名前の作家がおったな。図書カードの整理をしとって、ヨシカワと間違えたんを覚えとる。その国鐘池のおっさんがそうなんか?」
「いや、たぶん、名前が似とるだけじゃろ。小説を書いとるような人には見えんかったからな」
 しかし、あとで確認してみようと思った。
「ところで、明日も風邪か?」
 山内が尋ねた。
「ほうじゃな」
 明日も国鐘池に行くことを、吉川さんと約束していた。
「リョージ……」
 山内がわたしの顔を睨んだ。
「おまえ、俺になんか話すこと、ないんか?」
 いつになく真剣な眼差しに、わたしは視線を落とした。
「もう少し、時間をくれよ」
 しばらく間が空いた。
「わかった……」
 落胆したような声だった。
「わりいな」
 罪悪感を覚えていた。
「頑固もんじゃけえのう」
 いつもの皮肉な口調が戻った。
「ほいじゃあ、気のすむまで休めや」
 別れ際にそう言って、山内がバイクで走り去った。
 祖母の家に着くと、鉄柵の上に置かれた空瓶を手に取った。やっぱり、ドクターペッパーだ。
『そんな薬くせえもん、よう飲めるのう』
『まじいのがええんよ。少のうても、刺激にはなるけえ』
 かつての会話が、脳裏をよぎった。
「ひねくれもんが」
 空瓶に向かって、つぶやいた。


 夜の八時を過ぎて、玄関の電話がなった。わたしは、すでに応接間に引き上げていた。祖母の応対する声が聞こえてきた。
「ぼくさん、電話」
 祖母の声に驚いて、わたしはソファから立ち上がった。
(誰じゃろう?)
 わたしに電話がかかってくることは、滅多になかった。
「もしもし……」
 受話器を取り上げて、話しかけた。しかし、返事がない。
「もしもし……」
 怪訝な思いで、もう一度、話しかけた。
「秋村です」
 声を聞いて、体が凍った。
「もしもし、聞こえとるん?」
 今度は、向こうが呼びかける番だった。
「はい……」
 かろうじて、声を絞り出した。
「相談したいことがあるんよ。明日は学校に出てくる?」
「いや……」
「お願い、学校に来て。どうしても、話したいことがあるんよ」
「あの手紙のことは、もうええよ。忘れてほしい」
「それもあるけど、もっと大事な話があるんよ」
 言葉を失った。
(もっと大事な話……)
 自分のすべてが否定されたような気がした。
「俺は、話すことは何もない」
 電話を切ろうとした。
「ごめん、今は自分のことしか考えられんの。相田君にしか、相談できんことなんよ」
 泣き声になっていた。
「明日、放課後に売店の前で待っとるけえ。お願い、来て。うち、あんたが来るまで……」
 最後まで聞かずに、受話器をフックに落とした。しばらく、電話の前に立っていた。しかし、再び電話のベルが鳴ることはなかった。
 応接間に引き上げたあとも、秋村綾子の電話の声が、頭の中で響いていた。
(勝手なことばあ、言いやがって。俺がどんな気持で学校を休んどったんか、何もわかっとらんじゃろうが)
 何度も悪態をついた。しかし、いっときの興奮が醒めてくると、彼女の言う大事な話が何なのか、気になって仕方がない。あれこれ想像してみたが、結論が出るはずもなかった。
(明日、学校に行ってみるか。いや、吉川さんとの約束がある)
 本当は、わたしの方から、明日も来ますからと一方的に宣言しただけなのだ。別 れ際に見た、吉川さんの疲弊した顔が、ずっと気になっていた。風邪気味で体調が悪いのに、無理をして付き合ってくれたのだ。その風邪も、元を質せばわたしに原因がある……。
(少し、冷えてきたよな)
 夏用の薄手のパジャマだけでは、肌寒さを覚えた。窓の外は、すでに秋の虫の世界だ。壁の時計で時間を確認した。九時半を回っている。
 トイレに立ったときに、居間で寝ている祖母の様子をうかがった。軽い鼾が聞こえてきた。
(行くか!)
 決意した。手早くジーパンとトレーナーに着替えた。ズボンのポケットに、明日もって行くつもりだった風邪薬の瓶を入れて、応接間の収納庫から毛布の入った紙袋を取り出した。念のために、「少し、外の空気を吸ってきます」と書いたメモを、テーブルの上に残した。
 音を立てないようにして、玄関から外に出た。ドアの鍵を閉めたあとで、懐中電灯を忘れたことに気づいた。取りに帰るにも、懐中電灯がしまってあるのは居間の茶箪笥の中だ。
 夜空を見上げた。雲一つない星空が広がっている。まだ満月には育っていないが、ふっくらとした月が、地上をやさしく照らしている。
(大丈夫、うん、大丈夫じゃ)
 自分に言い聞かせた。
 周辺に誰もいないのを確かめてから、毛布の入った紙袋を持って歩道に出た。突然、目の前に人影が現れて、体がすくんだ。街路灯で出来た自分の影だった。
(おい、何を脅えとるんよ)
 自分を叱咤しながら、国鐘池に向かって出発した。最初の早歩きが、いつの間にか走りだしていた。


 吉川さんは、昼間と同じ場所にいた。木箱の上に腰掛けて、彫像のように動かない。夜陰の中にも、緊迫した空気を感じて、わたしは声をかけることができなかった。
 唐突に、彫像が動いた。小さな咳を二つ、三つ、また、二つ、三つ……。やがて、身をよじって激しく咳き込んだ。
(風邪が悪化しとるんじゃ)
 思わず、歩み寄っていた。
「吉川さん!」
 背後から呼びかけると、体の動きがピタリと止まった。
「俺です、相田です」
 吉川さんが立ち上がって、わたしの方を見た。
「やあ、にいさんか。今度は夜の散歩かい?」
 頼りない月明かりの下で、かろうじて笑顔が判別できた。
「あの……、毛布と風邪薬、持ってきました」
 毛布の入っている紙袋と、ズボンのポケットから風邪薬の瓶を取り出して、吉川さんに差し出した。
「これは、かたじけない。でも、汚してしまうと悪いから、気持だけ……」
「かまわんです。どうか、使って下さい」
 強引に手渡した。
「じゃあ、ここにいる間だけ、拝借するかな。薬の方は、寝る前に飲ませてもらうよ」
 吉川さんが、風邪薬の瓶を毛布の紙袋に入れて、小屋の中に運んだ。用件をすませたわたしは、手持ち無沙汰で、ヤブ蚊に刺された首筋をボリボリ掻いていた。
「これを首に巻いておくといい」
 吉川さんから、薄手の手拭いを手渡された。言われた通りに首に巻くと、刺激のある異臭に包まれた。
「除虫菊に似た成分のある野草と一緒に煮込んであるんだ。ちょっと臭いが、蚊に刺されるよりはいいからね」
「あの、吉川さんは……」
「わしは大丈夫さ。野宿で蚊には慣れているからな」
 そう言って笑った途端に、また咳き込んだ。
「もう、休んだ方がええですよ」
「ああ、でも、今夜は、月がきれいなんだ」
 そう言って、夜空を見上げた。
「満月まで、あと少しですね」
「そうだな。でも、満月はあまり、好きじゃないんだ。目一杯、ふくらんだら、あとはまた、欠けるしかないじゃないか。腹と一緒で、これくらいの八分目がちょうどいい」
 互いに無言で、腹八分目の月を眺めていた。
「月を見ると、いつも思い出すことがあるんです」
 自然と、自分の方から話しかけていた。
「小学生のときの宿題に、月の観察日記ゆうんが、あったんです。毎晩、月を見て鉛筆で形を描いて、黄色い色鉛筆で塗り潰す。みんな、同じじゃと思うとりました。でも、一人だけちごうとった……」
 小柄で目立たない生徒だった。
「月の表面に、なんだか小さな模様が描いてある。それに、日によって、色も微妙にちごうとる。そのときは、雲でもかかっとったんじゃろう、月の色もあんなに白っぽうはない、思うとりました。その生徒が先生にすごく誉められたんで、反発もあったんでしょうね。それで、その晩あらためて、月の観察をしてみたんです」
 あのときの驚きが、胸の中によみがえった。
「ちょうど満月でした。すぐに、自分の思い違いに気づきました。月の色は、絵本に書いてあるような黄色じゃないんですよね」
 今、目の前に浮かんでいる月が、そのことを証明している。黄色よりも白に近い、そう、例えるならば真珠の色だ。
「毎晩のように見とるくせに、初めてそのことに気づいたんです。それに、目を凝らしてよく見ると、確かに表面 に模様のようなもんがある。雲なんか、一つもかかっとりゃあせん。あの生徒が描いていた通 りなんです」
 その翌日、わたしは学校の図書室に行って、その模様が月面の地形であることを知った。
「世の中の常識というもんは、案外、あてにならんもんだからなあ」
 吉川さんが、しみじみとした口調で言った。また、互いに無言で、月を眺めていた。
「わしもな、月を見るたびに、思い出すことがあるんだ」
 吉川さんが口を開いた。
「わしがまだ若かった頃のことだ。とても面倒味のいい女性がいてね。自分のことはそっちのけで、人の世話ばかり焼いている。女手ひとつで子供を育てていて、苦労していないはずはないんだが、一度も暗い顔を見せたことがない。親切にした人に手ひどく裏切られても、平気な顔でニコニコしている。どうしたらあんなに明るくしていられるんだろうと思って、その秘訣を尋ねたことがあるんだ」
 思い出に浸っているのか、それとも記憶の糸をたぐっているのか、吉川さんはしばらく沈黙した。
「自分の力じゃ、どうしようもないから、周りの人から元気を分けてもらっている――、彼女はそう答えた。人の世話を焼いて、喜んでもらう。その人の笑顔を見ていると、自分も嬉しくなってくる。だから、悲しいときや気分が落ち込んだときは、いつにも増して、人の喜ぶことをするんだそうだ。そうすると、いつの間にか自分も笑顔を取り戻している……」
 フーッと小さく、吐息を漏らした。
「あのときも、今日のような月が出ていてね。わしは、その月に、彼女の姿を重ねたんだ。月は、自分で光ることはできない。太陽の光を浴びて、それを反射しているんだ。でも、太陽のギラギラした光線に較べて、なんともやさしくてやわらかな光じゃないか」
 小さくかぶりを振った。
「彼女にその話をしたら、お月さまに失礼だと叱られたよ。あたしはせいぜい、あそこの庭の池に映っているお月さまだと笑って言った。だから、いつまでたっても水の外には出られない……」
 吉川さんが動いた。椅子に使っていた木箱を移動すると、地面に置いたポリバケツが目に入った。吉川さんに手招きされて、水を張ったバケツの中を覗き込んだ。その小さな水面 に、月の姿が映っている。
「どうだい、贅沢だろ? 自分だけのお月さんだ」
 わたしは、素直に頷いた。
「こうして見ると、月の光も、けっこう眩いじゃないか」
 感情のない声が、ひどく寂しく響いた。
(この人は、俺とおんなじじゃ。いや、もっともっと、哀しい心を抱えとってんじゃ)
 そう思った。
「あの浄水器、貸してもらえんですか?」
 吉川さんに頼んだ。ある考えが閃いたのだ。
「今、必要なのかい?」
 さすがに、怪訝そうな声だった。
「お願いします」
 吉川さんが、小屋の中から一升瓶を抱えて来た。わたしは、アルマイトのカップを使って、バケツの水鏡に映った月を、丸ごとザブリとすくい上げた。その水を、吉川さんが持っている浄水器の中に注ぎ込んだ。瓶の口の下にカップを持ってくると、栓を引き抜いた。浄化された水が、カップの中に流れ落ちてくる。
「ほう、月光のジュースか」
 吉川さんが、感心したように言った。
 やがて、ほとんどの水が落下して、水滴がポツリポツリと落ちるだけとなった。その水滴が、月の光を浴びて、やわらかくきらめいた。
「いや、月光の雫だな」
 吉川さんの言葉に、わたしは大きく頷いた。
「どうぞ」
 カップを吉川さんに差し出した。吉川さんは、一升瓶をいったん地面 に置いてから、わたしの前で合掌して一礼した。
「では、お先に」
 カップを両手で包み込むようにして取り上げると、口に運んだ。ゴクリと飲んで、瞑目して余韻を味わっていた。
「うーん、甘露、甘露」
 満足そうな声だった。
「にいさんの番だ」
 差し出されたカップを、吉川さんにならって、一礼してから両手で取り上げた。まず、においを嗅いだ。首に巻いた手拭いの臭気が邪魔をして、何もにおわない。
「日本に限らず、世界各地で、月の光には神秘的な力が宿っていると、古来より信じられてきたんだ」
 吉川さんの話を聞きながら、月光の雫を口に含んだ。冷水が口の中で暖まるにつれて、かすかに甘みを覚えた。水面 を渡る清涼な風のにおいが、鼻腔を浸した。嚥下すると、胃の中が熱くなったような気がした。
「どうだい?」
 吉川さんが尋ねた。
「うさぎの味がしました」
 吉川さんが声を出して笑った。
「俺、明日はここには来れませんから」
 心が決まった。
「学校に行くんです」
 吉川さんが、無言で頷いた。

 徐々に風が出てきたので、小屋の中に入った。体臭の染み込んだ寝袋を座布団代わりにして、二人ならんで腰を降ろした。石油ランプの明かりが、 三畳ほどもない殺風景な小屋の中を、暖かく照らしていた。
「どうして、高校に進学したんか、俺、考えてみたんです」
「つまらんことを訊いてしまったな」
「そんなことないです。とても大事なことだと思います」
 吉川さんが苦笑を浮かべた。
「それで、答えは出たのかい?」
「はい、理由なんか何もない、いうことが、ようわかりました。たぶん、他にすることがないけえ、高校に進学したんだと思います」
 吉川さんが頷いた。
「立派な理由じゃないか」
 意外な反応が返ってきた。
「わしは、自慢できるほど長く生きているわけじゃないが、いろんな場所に行って、多くの人と出会ってきた。それで、つくづく思うことがあるんだ。人はみんな、正しい選択をしながら生きているんだ、とね」
「正しい選択……」
 違和感を覚えた。
「もちろん、その人にとっての正しい選択だ。それが、他の人には迷惑になる場合や、社会的に間違っているケースは、多々あるけどな」
 言葉の意味はわかったが、ただそれだけだ。
「やっぱり、正しいという言葉は、無理があるかな。楽という言葉に置き換えたら、よくわかるだろ? 人は必ず、楽な方へ楽な方へと流されて行く。所詮、人間も、重力の法則には逆らえんのさ」
 よく理解できた。しかし、納得はできない。
「でも、世の中には、わざわざ困難な道を選んで、成功した人はいっぱいおるはずですよ」
 反駁した。
「成功した人は、ほんのひと握りだよ。成功した人ばかり脚光を浴びるから、目立つだけでね。人は、累々たる屍の山を乗り越えて、成功への階段を登って行くんだ。それに、たとえ成功を治めたとしても、幸せになれるかどうかはわからない。得るものがあれば、必ず失うものがある。まあ、そんなことはどうでもいいことだ。にいさんの言う通 り、大変な努力や苦痛を強いられる道をあえて選択する人が、確かにいる」
 ひと呼吸、置いた。
「水や石と違って、厄介なことに、人間には感情や欲望といったものがある。その人にとって、その道を断念する方が、もっと辛いこともある。人は、自分の置かれた環境や状況、気持なんかをすべて考慮して、進むべき道を判断しているんだ」
「でも、自分の人生を後悔しとる人も多いじゃないですか」
「個人の判断が、そのまま社会に通用するとは限らんよ。どうしても、自分の採点は甘くなってしまうからな。それに、感情を優先させてしまう人もいる。失敗したあとで、そのことに気づくんだ。でも、時間をさかのぼることはできないから、また新たな判断と選択をしなければならない。そのまま前に進むか、後戻りして新たにスタートするか、撤退して別 の道を見つけるか。大なり小なり、そうした選択を何度も繰り返して、今の自分があるんだ」
「つまり、人の人生は、環境や性格次第、いうことですか?」
「まあ、そういう言い方もできるんだろうな。あのときああやっていればよかったとか、もっとこうしていれば結果 が違っていたとか、よく愚痴をこぼしている人がいるが、わしがその人を見る限り、同じ状況に立たされれば、まず百回が百回とも同じ選択をすると思う。その人の中においては、最も正しい選択をしているんだよ」
 しばらく、吉川さんの言葉を反芻していた。
「生まれてくる子供には、親や家を選ぶ権利はないですよね」
 吉川さんに確認した。
「そうだな」
「その子供の性格も、遺伝や環境が決めるんじゃけえ、選択する余地はないですよねえ」
 少し考えて、吉川さんが頷いた。
「じゃあ、その人の人生は、生まれたときから、もう決まっとるようなもんですよね」
「いや、環境や状況は、時間と共に変化するよ」
「でも、それは、いってみれば運みたいなもんで、自分でどうこうできるもんじゃないですよ。困難な道を選べるような、意志のつええやつは、まだええです。成功への可能性が、少しは残っとる。でも、しょうもない性格に生まれついた者は、もう先が見えとるじゃないですか。周囲の顔色をうかがいながら、おとなしゅう生きて行くしかないんじゃ」
 自分に対する宣告だった。仕方がないと思った。いや、それでいいと思った。その方が楽でいい。
「幸か不幸かわからんが、あいにく人間は、そんなに単純じゃあないんだ」
 吉川さんが口を開いた。わたしの興奮を諌めるように、淡々とした口調で言った。
「前にも言ったが、人間には感情や欲望がある」
「でも、それは性格の一部でしょ?」
「確かに交わっている部分は多いが、性格がすべてじゃない。何かを好きになるという感情は、その人の性格を超える可能性を持っている。好きになればなるほど、欲望も膨らんでくるからね」
「恋愛ですか?」
「もちろん、それもある。しかし、好きになる対象は、人それぞれでね。ある意味では、お金や名誉も入るかな。もっとも、お金が嫌いな人はあまりいないだろうがね」
「何かを好きになれば、性格を変えることができるんですか?」
 吉川さんは、しばらく考えていた。
「わしは、無理だと思う。でも、頑張ることはできる。人間、好きなことをやっているときが、一番たのしいんだ。少々の困難なことがあっても、踏ん張ることができる。好きになればなるほど、力がわいてくる」
「じゃあ、どうしたら、好きなことを見つけられるんですか?」
 わたしの直截な質問に、吉川さんが苦笑を浮かべ、小さくかぶりを振った。
「それは、答えられんな。食べ物と同じで、その人の嗜好があるからね。いくら納豆が体に良いといっても、どうしても食べれない人もいる。子供の頃は食べれなかったものが、年を取ると大好物に変わることもある。スルメのように、噛んでいるうちに、じわじわと味わいが深まってくるものもある。形はグロテスクだが、食べてみると存外に美味なものもある」
「じゃあ、吉川さんには、何か好きなものがあるんですか?」
 さらに、問い詰めた。答えが得たい一心だった。吉川さんが腕組みをしたまま、天井を見上げた。頬をふくらませて、大きく息を吐き出した。
「昔はあったよ。好きという言葉には、いくぶん抵抗があるが、命をかけてもいいと思っていた。しかし、な」
 そのあとの言葉が、なかなか出てこない。
「もっと大切なものがあることに、気づいたんだ。マヌケなことに、それを失ってしまったあとでね」
 絞り出すような声だった。
(俺は、何を調子こいとるんじゃ)
 吉川さんの心の中に、土足で踏み込んでいる自分に気づいた。
「どうした、質疑はもう終わりかい?」
 押し黙ったわたしを気遣ってか、吉川さんが明るい声で言った。
「はい、ようわかりました」
「納得したの?」
 わたしは頷いた。
「いかんなあ」
 びっくりするほど大きな声だった。
「わしのようなペテン師の詭弁に丸め込まれちゃ、いかんなあ」
「詭弁……」
「今までわしが言ったことは、自分の都合のいいようにつくり上げた方便だ。そう自分で信じ込めれば、気持が楽になるからな」
 吉川さんが、わたしの肩に手を置いた。
「にいさんには、にいさんの人生論があるはずだ。自分に合った生き方を、ゆっくり探せばいい。その時間は、うんざりするほどあるんだ」
 てのひらの温もりが、じんわりと拡がった。


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