月光の雫 (前編)亜木冬彦&赤川仁洋 作品集表紙に戻る

 


 高校の図書室に来ていた。昼食の時間帯なので、わたし一人だけだ。高校は、給食がないのでありがたい。山内が外食に誘ってくれたが、食欲がないと断った。無断外出は校則で禁止されているのだが、監視されているわけではないので、校門から自由に出入りできた。
 秋村綾子のことが気になっていたが、つとめて考えないようにしていた。今朝、彼女と教室で顔を合わせたとき、哀願するような目でわたしを見た。わたしが頷くと、ほっとしたような顔で会釈した。
(あった!)
 本棚に並ぶ背表紙に、吉川荘平の名前を見つけたのだ。全部で三冊あった。著者の略歴を調べてみた。三冊とも、顔写真は載っていない。
(四十四歳か)
 生年月日から、現在の著者の年齢を計算した。国鐘池にいる吉川さんは、もっと年長のような気がした。
 生誕地は韓国の釜山で、最終学歴は広島市内の高等中学を中退している。大手出版社の懸賞小説に入選して、作家としてデビュー、偶然にもわたしが生まれた年だった。
 受賞作を読んでみることにした。題名は、「紙の動物園」――。
 体を壊した青年が、同じ店で働いていたホステスのアパートに転がり込む。その小夜さんという年上のホステスには、明男という五歳になる男の子がいた。先天的な股関節の変形症で、歩く姿がぎこちない。
 小夜さんが勤めに出たあとは、アパートの六畳ひと間に、病床の青年と明男が取り残される。自分の母親にさえ心を閉ざしていた明男が、青年に少しづつ好意を抱いて行く過程が、情感豊かに描かれている。
 病状がいくぶん回復して、ようやく起き上がれるようになった青年は、明日は動物園に一緒に行こうと明男に約束する。しかし、翌朝になって高熱を出した青年は、再び病床にふしてしまう。しょんぼりしている明男に、青年は自分が服薬したあとの薬包紙を使って、明男の大好きなキリンを折り上げる。白いままじゃかわいそうだと、明男が色鉛筆で色を塗って、立派なキリンが完成した。
 青年は、自分が子供の頃に熱中した折り紙の手順を思い出して、いろんな動物を折り上げて行く。体力がないので、明男の希望する動物を一日に一つづつだ。折ったこともない珍しい動物は、レパートリーの中の動物をアレンジしてごまかした。それでも、明男が着彩すると見映えがして、ちゃんとその動物に見えるのだった。
 青年の枕元に置かれた空き箱の中に、紙の動物が次第に数を増して行く。いったい、どれくらい動物を折ったら、起きあがれるようになれるんだ。青年は複雑な思いで、紙の動物園を眺めていた。ふと、あることを思いついて、人間の形を折り上げた。明男に頼んで、それに自分の似顔絵を描いてもらった。
──こんな万年床の檻に閉じ込められている私も、動物園の一員だ。
 自虐的な思いで、自分の折り紙を箱の中に入れた。すると明男が、今度は自分の折り紙をおってくれとせがんだ。前より小さな人間を折り上げると、明男が自分の似顔絵を描いて、青年の折り紙の隣に置いた。翌日、二人の折り紙を見つけた小夜さんが、あたしも仲間に入れてほしいと頼んだ。かくして、三人の折り紙が、紙の動物園の仲間入りをした。
──こうして見ていると、なんだか親子みたいじゃないか。
 青年の独白で、この小説は終わっている。
(これを書いたんは、あの吉川さんだ)
 わたしは確信した。昨夜、吉川さんが話してくれた、月を見ると思い出すという女性、そのイメージが小夜さんにぴったりなのだ。
(でも、もう小説は書いとらんようじゃからな。こんなにすげえもんが書けるのに、なしてやめたんじゃろう?)
 吉川さんに確かめてみたいと思った。でも、触れてはいけない事柄のような気がした。
「やっぱり、ここにおったんか」
 山内だった。かすかにタバコの煙りのにおいがした。
「うん?」
 わたしの読んでいた本を取り上げて、表紙を見た。
「吉川荘平……、ああ、おまえが国鐘池でおうたというおっさんか。で、やっぱりこの本の作者なんか?」
 わたしは無言で頷いた。
「ホンマか?」
 さすがに驚いた顔をした。
「たぶん、間違いないと思う」
「すげえじゃねえか。俺にも紹介しろよ」
 わたしは渋々、頷いた。
「今日の放課後はどうじゃ?」
「いや、今日はまずい。ちょっと用事があってな」
「そうか、じゃあ仕方がねえのう」
 本を置いて、腕時計に視線をやった。
「そろそろ時間じゃな」
 山内に促されて、わたしは立ち上がった。本を読むのに熱中して、時間が経つのを忘れていた。
「俺は、本を借りるけえ、先に行ってくれよ」
「わかった」
 出口に向かいかけた山内が、立ち止まって振り返った。
「なあ、リョージ、おまえ、小説を書いてみたらどうなんよ」
 友人の思わぬ提案に、わたしは相手の顔を見返した。小説を読むのは好きだが、自分で書いてみようと思ったことはなかった。
「前から思うとったんじゃが、おまえなら書けるよ」
 そう言って、山内がニヤリと笑った。例の、どこか屈折した冷ややかな笑みだ。
「まあ、考えてみいや」
 そう言い残して、部屋から出て行った。
(俺なんかに、小説が書けるんか?)
 自問した。
『おまえなら書けるよ』
 山内の声が、しばらく耳の中に残っていた。


 授業が終わって、少しトイレで時間をつぶしてから、売店に向かった。彼女よりも先に行って、待っていたくなかった。
 売店の前のベンチに、秋村綾子が一人、坐っていた。教室とは別棟にあるこの売店は、昼食用のパンを販売するときだけ開いている。少し迷ったが、彼女と背中合わせになるように、反対側のベンチに腰を降ろした。
「相変わらずじゃねえ」
 呆れたような声だった。背後からただよってくるシャンプーの甘い芳香が、わたしの体を緊張させた。
「用事って?」
 ぶっきらぼうな口調になるのが抑えられない。
「うちはねえ、相田君が中学二年のときに転校して来たときから、興味を持っとったんよ」
 互いに背中を向けたままの会話が始まった。
「いつも物静かで、周りが騒いどっても、冷ややかな目で眺めとるだけ。なんだか、とても大人に思えてね」
(えらい誤解じゃ)
 心の中でつぶやいた。一緒に騒ぎたくても、仲間に入れなかっただけだ。
「この人は、いったい何を考えとるんじゃろう。いつの間にか、話がしてみたいと思うようになったんよ。学校のことばかりじゃのうて、いろんな話がしてみたい。相田君となら、テレビやアイドルの話じゃのうて、もっと大事な話ができるような気がした……」
「買いかぶりもええとこじゃ」
「うちは、今でも思うとるよ。相田君といろんな話がしてみたいと思うとるんよ」
(じゃあ、なんで他のやつと付き合うとるんじゃ!)
 心の中で叫んだ。結局は、単なる好奇心だけで、恋愛感情ではなかったということか。
「それで、山ちゃんに相談してみたんよ。相田君、山ちゃんにだけは、心を許しとるみたいじゃけえね」
 山ちゃんは山内の愛称だが、わたしは使わない、いや、使えなかった。
(そげえな話、何も聞いとらんぞ)
「そんとき、山ちゃんに忠告されたんよ。相田君、アレなんだってね」
「アレ?」
「別に、偏見を持っとるわけじゃないんよ。話を聞いたときはショックだったけど、結局は個人の趣味の問題だもの」
「いったい、何の話?」
 次第に苛立ってきた。
「女にはまったく興味がないんじゃろ? 相田君は男の方が好きなんじゃと、山ちゃんが言うとったけど」
「そんな馬鹿な。あいつにからかわれたんよね」
 山内のやりそうなことだと思った。だけど、たちが悪い、悪すぎる。しかし、あいつならやりかねない。
「第一、俺がホモだったら、あんな手紙を出すわけないじゃろうが」
「でも、あの手紙は、山ちゃんとの賭けなんじゃろ? 山ちゃんにアレのことをからかわれたんで、俺でも女と付き合える、いうことを証明するために、うちに手紙をくれたんと違うん?」
 頭の中が混乱していた。彼女の言っていることの意味が、うまく理解できない。
「あの手紙を、山内に見せたんか?」
「ごめん。どんな返事を書いたらええか、うち、わからんかったもんじゃけえ」
 次第に、事の重大さがわかってきた。
(あいつ、俺が失恋したことを知っとって……)
 悪戯などではない。あるのは悪意だけだ。
「実はね、うちが付き合うとるクラスの同級生、山ちゃんなんよ。中学を卒業するときに告白されてな。山ちゃんのこと、うちもまんざら嫌いでもなかったし。夏休みに、北海道にも一緒に行ったんよ。親には、クラスの女の子と行く、いうて、嘘をついたんじゃけど」
 彼女の声が、急に遠くなった。握り締めた拳が、ブルブル震えた。
「それが、相田君の手紙がきてから、山ちゃんの様子がおかしゅうなったんよ。電話をしても、なかなかおうてくれんようになったし、なんか、態度がよそよそしいのよね。それで、相田君に、山ちゃんの気持を訊いてもらえんかと思うて……」
 我慢の限界だった。ベンチから立ち上がった。
「お願い、頼れる人は相田君しかおらんのよ。うち、ひょっとしたら、妊娠しとるかもしれん……」
 脱兎のごとく、そう、逃げ出したのだ。全身に、山内に対する、そして、自分への憎悪がたぎっていた。
 自転車置き場に走った。山内のバイクは、まだ残っていた。
(あいつ、まだ学校におる……)
 恐怖を覚えた。このまま帰ろうと思った。山内の顔を見れば、俺は何をするかわからない。家に帰ってから、国鐘池の吉川さんに会いに行こうと思った。
「おい、リョージ、もう用事はすんだんか?」
 最悪のタイミングだった。山内の声を聞いた途端、頭の中で何かが弾ぜた。山内に向かって、猛然と突進していた。山内の体を押し倒して、馬乗りになった。
「そうか、綾子から話を聞いたんじゃな」
 山内が、冷笑を浮かべて言った。
「この悪魔が!」
 山内の顔を殴りつけた。鼻血が出た。
「悪魔か、ええ言葉じゃ。人間失格にふさわしい言葉じゃのう」
 もう一発、殴りつけた。鼻血がわたしの顔まで飛び散った。山内が反発して、わたしの体を振り落とした。何発かパンチをくらって、反対に馬乗りになられた。体格も体力も、山内の方が上なのだ。
「初めてじゃな。こんなにおまえが気持を表に出したんは。人間失格のおまえにも、少しは人間らしい感情が残っとったか」
 嘲笑の浮かぶ顔を、爪を立てて掻き毟った。ひるんだ山内の体を払い落として、懸命に立ち上がった。それからのことは、よく覚えていない。再度、山内に突進したような気がするのだが、いつの間にか数人の生徒に組み伏せられて、身動きが取れなくなっていた。
 教師の一人に連れられて、保健室で治療を受けたが、ほとんど痛みは感じなかった。ただ、口の中の生臭い血のにおいが、気になっていただけだ。
 担任の教師が駆けつけて来て、事情聴取が始まった。相手の声は聞こえていたが、わたしには意味のない雑音だった。もはや、山内に対する興味も失っていた。すべてを閉め出して自分の殻に籠もることで、わたしはかろうじて平衡を保っていた。
 どうやって祖母の家に帰ったのか、まるで記憶に残っていない。わたしは、高熱を出して寝込んだ。あとで祖母に聞いた話では、四十度近くまで体温が上がったらしい。往診に来た医者に、注射を打たれたのをおぼろげに覚えている。何もかもが物憂く、ただひたすら眠かった。


 久しぶりに、廃墟の中をさまよっている夢を見た。世界中の人間が死に絶えて、わたしだけが生き残っている。寂しくはない。比較するものがあるから、孤独を感じてしまうのだ。家族、恋人、友達、仲間……、すべてが消滅してしまえば、羨望を覚えることもない。不安や焦燥からも解放される。たった一人の王国の王様になれるのだ。
 半壊したコンクリートの部屋で、食事をしているときだった。ぼやけた影のようなものが、わたしの目の前に現れた。次第に陰影がはっきりしてきて、人間の形になった。
「あなたは……」
 吉川さんに間違いなかった。ヤカンの蓋の器を手に、小枝の箸で粥を口に運んでいる。でも、白黒のままなのだ。吉川さんが箸を持つ手を止めて、わたしの顔を見た。
「味はどうだい?」
 あの野太い声だ。
「はい、うまいです」
 吉川さんが破顔した。
「やっぱり、一人で食べるよりも、おいしいよな」
 そう言った吉川さんの姿が、急に平板に見えた。古い写真のように色褪せて、陰影がどんどん薄れて行く。向こうの壁が透けて見えた。
「吉川さん!」
 大声で呼びかけたが、微笑を浮かべて頷いただけだ。まるで、空気の中に溶け込むように、吉川さんの残像が消えた――。

 目が醒めた。夢の中で食べた草粥の風味が、まだ口の中に残っているようだ。水枕に沈んだ頭を起こすと、額の濡れタオルが掛け布団の上に落ちた。
「目が醒めたんか」
 祖母がそばに寄って来て、わたしの額に手を乗せた。
「熱が下がっとる。もう、安心じゃ」
 ほっとした顔を見せた。
「ボクさん、お粥さんでもつくってこようか?」
 わたしが頷くと、祖母が嬉しそうな顔で笑った。わたしが小さな子供の頃に見ていた笑顔だ。そのとき、一つの謎が解けたような気がした。人は、とくに女性は、無防備で弱い存在にはやさしくなれるのだろう。
 わたしは結局、丸二日近く寝込んでいたことになる。祖母のお粥を食べると、少し体力が戻った。口を動かすと、唇の傷がひどく痛んだ。洗面所の鏡の前に立つと、左の頬から顎にかけて、青黒く腫れ上がっている。山内との殴り合いが、遠い昔の出来事のように思えた。
 わたしは、ジーパンとトレーナーに着替えると、心配する祖母をどうにか説得して、家の外に出た。昼下がりの太陽が、目にまぶしい。筋肉痛で関節がギクシャクしたが、国鐘池に着く頃には、いつもの感覚を取り戻していた。
 水辺の道を歩いているとき、鮮やかな黄色が視界をよぎった。池の中に、黄色い野球帽が浮かんでいる。枯木の枝を探して、その先端に帽子を引っかけて取り込んだ。正面のワッペンが取れているので、吉川さんの帽子に間違いない。帽子を振って水気を切りながら、吉川さんの小屋に向かった。
 小屋の前の空き地に、人気はなかった。
(もう、他所へ行ったのかもしれんな)
 祈るような気持で、小屋のサッシの窓から中を覗いた。見慣れた毛布の柄が見えた。しぼんだリュックを枕にして、吉川さんが眠っている。
(間におうた!)
 安心した。これでまた、話ができる。あの草粥をご馳走してもらえるかもしれない。
 しばらく待っていたが、吉川さんが目を醒ます気配はなかった。焦れて、窓ガラスを軽くたたいてみたのだが、熟睡したままだ。
(吉川さんも、熱が出たのかもしれんな。たぶん、風邪薬が効いとるんじゃろう)
 静養の邪魔をしては悪いと思い、また出直して来ることにした。祖母には、軽い散歩で、すぐに帰ると伝えてある。木箱の上に置いてあった週刊誌を一枚やぶって、ボールペンで簡単な伝言を書いた。その紙を折り畳んで、ドアの隙間にはさんでおいた。


 夜の八時前に家を出た。祖母には、クラスの友達の家に行くと嘘をついた。休んだ授業のノートを写させてもらうというわたしの言い分に、祖母は渋々、外出を認めてくれた。
(今夜も、よう晴れとる)
 夜空を見上げた。今日は、完璧なる満月だ。
『腹と一緒で、これくらいの八分目がちょうどいい』
 吉川さんの話を思い出した。
(ほいじゃあ、今夜の月は、腹いっぱいの月か。いや、違うな)
 食べ過ぎてふくらんだおなかのイメージではなかった。満天の星を従えるように、神々しいばかりに輝いている。妖艶でさえあった。ふと、臨月という言葉が頭に浮かんだ。
(いったい、何を孕んどるというんじゃ)
 自分の突飛な想像に、苦笑を浮かべてかぶりを振った。
(でも、今夜の月光の雫を飲んだら、腹をこわすかもしれんな)
 ジーパンの後ろのポケットから、吉川さんの帽子を取り出して、頭に被った。洗剤で汚れを落としてから、ドライヤーで乾かしたのだ。
(このまんま弟子入りして、一緒に連れてってもらうか)
 断られるのはわかっていた。
(もう、小説を書くことはないんかな)
 もったいないと思った。そのとき、山内の言葉が脳裏をよぎった。
『おまえなら、書けるよ』
 足を速めて、山内の面影を振り払った。わたしにとって、山内はすでに過去の存在だった。あいつのすべてを抹消することが、わたしにできうる最高の復讐だった。
 国鐘池の林の中を歩いているときだった。バイクのエンジン音が聞こえてきた。坂道を上って来るようだ。
(まさか、な)
 山内のバイクの音に、似ているのだ。
(止まった……)
 エンジン音が近くで消えた。不安を覚えて、吉川さんの小屋まで急いだ。しかし、小屋の窓に明かりはなかった。空き地にも、人の気配はない。
(まだ、寝とるんじゃろうか)
 ドアを確認すると、伝言を書いた紙切れが、同じ場所にはさんであった。
(外には一歩も出とらんのじゃ)
 胸騒ぎを覚えた。ドアをそっと引くと、よどんだ空気が流れ出て、不快な臭気が鼻腔を浸した。
「リョージか?」
 心臓がビクンと大きく跳ねた。振り返ると、工事用の白いヘルメットが目に入った。
「おい、ライター、貸してくれよ」
 わたしの性急な物言いに、山内は無言で、ポロシャツの胸ポケットから百円ライターを取り出した。それをひったくるように取り上げると、すぐに点火した。その炎をかざして、ドアを開けて中に入った。不快な臭気がさらに濃密になる。天井から吊るしてある石油ランプを見つけて、ライターの火で点灯した。
「うん? なんか変なにおいがするのう」
 山内がつぶやいた。わたしは構わず、床に寝ている吉川さんの顔を見た。依然として、目を閉じたままだ。
「吉川さん! 吉川さん!」
 跪いて、耳元で大声で呼びかけた。反応がない。頬を軽くたたいたが、顔がかすかに揺れただけだ。
「おい、どうしたんじゃ?」
 山内が強ばった声で尋ねた。事の重大さに気づいたのだ。
(まさか、嘘じゃろ?)
 わたしは、吉川さんが掛けている毛布をはぎ取った。カーキ色の寝袋の中に入っていて、腰の辺りまでジッパーを引き上げている。わたしは、ワイシャツのボタンを外そうとしたが、指が震えてうまくいかない。それでも、どうにかボタンを外して、胸をはだけた。
「うわ、ひでえな」
 山内が声を漏らした。それは、皮膚ではなかった。プラスチックが燃えたあとのような、表皮の残骸だ。
(ケロイド……)
 動揺をねじ伏せて、胸に耳を押し当てた。ガラスのような冷たさだ。心臓の鼓動は、まるで聞こえない。
「だめじゃ、死んどる……」
 他人の声のような気がした。
「冗談じゃねえぞ。ホンマなんか?」
 山内の声も震えている。
「じゃあ、自分で確かめてみいや」
 怒鳴ってしまった。
「警察……、そうじゃ、警察に連絡せにゃあ」
 山内が小屋の外に出ようとした。
「待てや!」
 立ち上がって、呼び止めた。
「警察に連絡するんは、俺が許さん」
 山内が唖然として、わたしの顔を見た。
「かばちいぬかすな。人が死んだんじゃぞ。放っておけるか」
「俺が埋葬するよ。この国鐘池のそばにな」
「おまえ、自分が何を言うとるんか、わかっとるんじゃろうのう。そりゃあ、犯罪行為じゃぞ」
「吉川さんが、それを望んどったんじゃ」
 そうに違いないと、自分に言い聞かせた。
「ほいじゃあ、家族はどうする? 家族に知らせんでもええんか?」
「この人に、家族はおらんよ。待っとる人は、誰もおらん」
 山内が、わたしの顔を見た。そして、吉川さんの顔を見た。再びわたしの顔に視線を戻したときには、いつもの冷静さを取り戻していた。
「頑固もんじゃけえのう」
 呆れたようにかぶりを振った。
「じゃけん、一つだけ条件がある」
 傷絆創膏だらけの顔で、ニヤリと笑った。
「俺も手伝うよ」


「一服しようや」
 山内の提案に、わたしは額の汗を手の甲で拭って頷いた。スコップを地面に突き立てて、二人並んで腰を落とした。このスコップは、山内がバイクで、父親の会社の倉庫から無断で持ち出して来たものだ。
 一メートルも掘っただろうか。場所は、池の近くにある山桜の木を選んだ。墓標の替わりになるものが必要だと、山内が主張したのだ。
 粘土質の固い土と木の根に苦戦して、作業はなかなかはかどらない。手のひらはマメだらけで、蚊にも刺されたが、そんなことを気にしている余裕はなかった。
「やるか?」
 山内が、タバコの箱をわたしの前に差し出した。躊躇したが、一本ぬき取って口にくわえた。山内がライターで火を点けてくれた。生まれて初めてのタバコだった。
 いがらっぽい煙りを吸い込んだ途端、わたしは激しく咳き込んだ。山内が笑いながら、手慣れた仕草で自分のタバコに火を点けた。
「まだ、理由を聞いとらんかったよな。おまえ、なんでこんな所に来たんじゃ?」
 山内に尋ねた。
「おまえの家に電話したんよ。ほしたら、婆さんが友達の家に行ったと言うもんじゃけえ、たぶん、ここにおると思うてな」
「俺に何か用事があったんか?」
 山内は答えず、タバコの煙りを悠然とくゆらせた。わたしも、今度は注意深く、煙りを肺の中に送り込んだ。そして、夜空の月に向かって、煙りを吐き出した。
(たちまち、おぼろ月じゃ)
 なんだか、夢の中にいるような気がした。満月の下で、人知れず墓穴を掘っている。その穴の中で、喧嘩別れしたはずの山内と、仲良く並んでタバコをくゆらせている。とても、現実とは思えない。
「俺、東京に行くよ」
 山内が言った。
「家出するんか?」
「ああ」
「綾子はどうする? 妊娠しとるかもしれん、言うとったで」
 山内が沈黙した。
「それでも、行くんか?」
「ああ、行くよ」
 山内の決意が伝わってきた。自分の家を、そしてこの街を、捨てるつもりなのだ。わたしは、あの山内の非道な裏切りの理由が、少しだけ理解できたような気がした。故郷の呪縛から逃れるためには、今までの自分を徹底的に破壊する必要があったのではないか。
(だからいうて、おまえがやったことを、許したわけじゃねえぞ)
 心の中でつぶやいたが、もはや憎しみはなかった。唯一の友達が去って行くという寂しさがあるばかりだ。タバコを地面に投げ捨てて、ズックの底で踏み潰した。
「始めるか」
 山内に声をかけて、立ち上がった。
 穴が深くなったので、役割を交替で分担することにした。一人が土を掘ってポリバケツに入れ、それを上にいるもう一人が受け取って、バケツの中の土を捨てる。互いに無言で作業に没頭した。
「もう、ええんじゃねえか」
 上にいる山内の声に、わたしはスコップを持つ手を止めた。いつの間にか、穴の深さがわたしの背丈を越えている。
「わかった」
 穴の端に大まかな段差をつけて、地表に出れるようにした。最後に、穴の底の地面を見渡して、大きな凹凸がないようにスコップで軽くならした。
「じゃあ、運ぶか」
 穴から出て来たわたしが声をかけると、山内が緊張した顔で頷いた。二人で小屋に戻った。
「なんだか、眠っとるようじゃのう」
 吉川さんの顔を見て、山内が言った。苦しんだ形跡はなかった。
「なんで、死んだんじゃろ? やっぱり病気かな」
 山内の問いかけに、わたしは曖昧に頷いた。気になっていることがあった。風邪薬の瓶が見当たらないのだ。封を切ったばかりで、中には錠剤がぎっしり詰まっていた。それを、一気に飲んだとしたら……。
(そんなん、どうでもええことじゃ)
 山内と二人、寝袋を担架代わりにして、吉川さんの体を運んだ。段差を下って、墓穴の底に寝袋ごと横たえた。吉川さんの荷物はすべて、一緒に埋葬することにした。一升瓶の浄水器も、吉川さんの傍らに置いた。最後に、わたしがかぶっていた黄色い野球帽で、吉川さんの顔を覆った。そのときわたしは、自分の内部に芽生えていた小さな決意を、心の中で報告した。
 穴の外に出て、山内と二人、顔を見合わせた。山内の目が、何かしゃべれと要求している。
「国鐘池の言い伝えを知っとるよな」
「ああ、お国さんとお鐘さんの美人姉妹が、人柱になったんよのう」
「これからは、吉川さんも池の一員になる」
 埋葬した肉体は、やがて雨水に溶け出して、池の中へと流れて行く。
「そりゃあ、ええな。こんな場所で瞑れるんなら、俺も死ぬときは、戻って来くるかもしれん」
 山内が、池の方を見た。月明かりに照らされた伝説の池は、すでに冥界の領分のような気がした。
「甘いよな。どうせ俺は、都会の片隅で野垂れ死にがええとこじゃ」
 楽しんでいるような声だった。
「じゃあ、埋めるか」
 山内を促してスコップを取った。掘り返した土を、また穴の中に戻して行く。最後に表面をならして、その上に落ち葉を敷きつめた。
「終わったな」
 ほっとした声で、山内が言った。
「ああ、終わった」
 しばらく、穴のあった場所を眺めていた。あの下に、死体が埋まっているのだ。すべてが、幻想のような気がした。
「山内、わかってると思うが、このことは、二人だけの秘密じゃからな」
 念を押した。
「ああ、ようわかっとる」
 山内が夜空を見上げた。
「あの月が証人じゃ。このことは誰にも話さん。俺は、あの月に約束する」
「俺も誓うよ。誰にも話さんと、俺も、あの月に約束する」
 満月を見ながら、わたしは思った。吉川さんは、俺たち二人だけの伝説になるんだ――。




 あの満月の夜から、四半世紀余りの時が経過している。気が付けば、いつの間にかわたしは、四十の坂を越えていた。このままでは、あと数年で、吉川さんの年齢に追いついてしまう。
 祖母は、すでに鬼籍に入って久しく、実家の墓所で祖父の隣に瞑っている。その並びにある墓石が、祖父の先妻のものだということを知ったのは、祖母が亡くなったあとのことだ。わたしが中学、高校の五年間を過ごした祖母の家も、すでに売却されて、別の建物がたっている。お好み焼き屋の「しのはら」も、草の生えた駐車場に変わっていた。
 しかし、国鐘池は、昔の姿のままだった。現在は、国営公園の敷地内にあって、入園者の立ち入りも制限され、景観が手厚く保護されている。
 わたしは、パーキングエリアの先端に立って、フェンスの向こうに広がる国鐘池を眺めていた。風のある一月の寒い日だった。目を凝らして、対岸にあるはずの山桜の木を探したが、冬枯れの林の中に溶け込んで、見つけることはできなかった。
 心穏やかではなかった。あの頃の感覚がよみがえってくる。真っ赤に爛れた自我を抱えて、この池の周辺を彷徨していた。自分が自分であることを許せなかった辛い時代だ。今では、誰にでも起こりうる思春期のアレルギーだったと、冷静に判断できる。それでも、あの頃の自分にだけは戻りたくないという思いが、強迫観念のように心の奥底に巣くっている。
 山内のことを想った。あの満月の日から間もなく、山内はこの街から姿を消した。噂では、百万を越える金額を家から持ち出したらしい。手書きの借用書が、金庫の中に残っていたという。
 わたしは、担任の教師に付き添われて、学校で山内の父親に会った。山内の家出について、あれこれ質問されたが、何も知らないと答えた。そのときの父親と担任の会話から、わたしが聞かされていた山内の生い立ちが、まったくのデタラメだということに気づいた。山内は、ホステスの連れ子などではなく、山内建設の正当な後継者だった。猿顔も、父親譲りなのだ。
 山内が家出して、半月ぐらい経っていただろうか。吉川荘平なる人物からハガキが届いた。山内だとすぐにわかった。「旅先では世話になった。こちらに来ることがあったら、立ち寄ってくれ」、ただそれだけの文面だった。東京の住所が書いてあった。返事を出す代わりに、わたしはそのハガキを、秋村綾子に手渡した。その翌日から、彼女は学校に来なくなった。
 山内と再会したのは、わたしが二十五歳のときだった。突然、勤務先に電話がかかってきた。わたしの実家に連絡して、電話番号を教えてもらったのだという。当時のわたしは、薬の業界の専門誌に就職して、編集の仕事をやっていた。
 山内とは、日本橋にある会社の近くの喫茶店で会った。山内の芸名である未来猿田彦の名前は、前衛演劇集団「未来草子」の主催者として、わたしの耳にも届いていた。民話や昔話をSF風にアレンジして、現代社会の病根を徹底的に風刺する。毒々しいまでの派手な衣装や演出が話題になって、マスコミにも何度か取り上げられていた。
 再会した山内は、ひどく疲れているように見えた。頬がげっそり削げて、落ち窪んだ目だけが異様に輝いていた。
「活躍しているようじゃないか」
 つとめて明るい声で話しかけた。山内の舞台を一度も見に行っていないという負い目があった。
「俺、田舎に帰ることにしたよ」
 唐突に、山内が宣言した。
「おい、何があったんだ?」
 わたしは驚いて、理由を尋ねた。少し間をおいて、山内が口を開いた。
「まあ、とりあえずは金だな。あちこちに借金して、もう首が回らなくなった。この前の公演で、ちょっとヤバイ金を借りてね。会場がでかかったんで、もっと客が集まると思ったんだが……。結局、田舎の親父に尻拭いしてもらうことにしたよ。ただし、俺が実家に帰るのが条件なんだ」
「それで?」
 話の続きを促した。この傲岸な男が、金のためだけに志しを曲げるとは思えない。
 山内が、タバコを取り出して口にくわえた。しばらく紫煙をくゆらせていた。我慢比べのように、互いに何もしゃべらない。山内が、タバコを灰皿でもみ消した。
「綾子に、別れてくれと言われたんだ」
 懐かしい名前だった。わたしは、二人がいまだに一緒にいることさえ知らなかった。
「子供は?」
「いない。東京に出て来たときに孕んでいたガキは、堕ろした……、いや、俺が無理やり堕ろさせたんだ」
「結婚してるのか?」
「まだ、籍は入れてないんだ。実家に帰ったら、それなりのことをしてやるつもりだよ」
 わたしは、小さく頷いた。納得したわけではないが、それも一つの選択だと思った。
「おまえ、俺が変わったと思ってるんだろ?」
「お互い、大人になったんだ。変わるのが当然だ」
「そうかな。おまえは少しも変わったようには見えんがな」
 思わぬ反駁に、わたしは苦笑を浮かべるしかなかった。
「悪い意味じゃないんだ。気を悪くしないでくれ」
 山内が気弱な笑みを浮かべた。
「俺自身が一番、驚いてるんだ。自分がこんなに女々しいやつだったとはな。綾子から別れてくれと言われたときは、うろたえたよ。あいつだけは、どんなことがあっても、俺のそばにいるもんだと信じていた。甘えてたんだな」
「彼女との間に、何かあったのか?」
「男ができたのさ」
 昔の皮肉な口調が戻った。
「俺は、劇団のことで手一杯だったからな。公演の儲けは、すべて次の公演につぎ込んでいた。だから、家賃や生活費なんかはみんな、綾子が稼いでたんだ。考えてみりゃあ、ヒモのようなもんだ」
 口元に自嘲が浮かんだ。
「スナックで働いてたんだが、そこの常連とできちまったらしい。俺は、まったく気づかなかった。最近は、まともに話をしたこともなかったからな。愛想を尽かされても仕方がないさ」
「彼女は、一緒に田舎に帰ることに同意したのか?」
 山内が頷いた。
「綾子の方から言い出したんだ。別れ話で喧嘩になって、つい手を上げちまってな。綾子が大声で泣き出した。なだめているうちに、俺も無性に悲しくなって、二人で抱き合って大泣きだよ。そのとき、綾子が田舎に帰りたいと言い出したんだ。そうしようと俺は約束した。まるで、ドサ回りの三文芝居もいいとこさ」
 寂しい笑いを浮かべながら、山内がわたしの顔を見た。
「結局、俺は、おまえにしっぺ返しをされたのかもしれんな。おまえが、家出した俺の居場所を綾子に教えた時点で、こうなることになっていたんだ」
「おいおい、俺のせいにするなよ。どうせあのハガキは、綾子のために出したんだろ? 俺は、おまえの期待に応えただけだ」
 わたしは反発したが、あのとき、山内に対する復讐心がまったくなかったと言えば、嘘になる。綾子が山内の重荷になるであろうことは、確かに意識していた。
「まあ、そんなにとんがるなよ。俺、今はすっきりした気分なんだ。田舎に帰って、山内建設の三代目を継ぐよ。俺は、役者だからな。これからは、土建屋のオヤジの役を、きっちり演じてみせるさ」
 さばさばした口調だった。
「人間失格は、卒業だな」
「ああ、リタイヤするよ」
 笑いながら言った山内の目が、急に厳しくなった。
「ところで、おまえの方はどうなんだ?」
 山内の問いかけに、わたしはコーヒーカップを取り上げた。冷めたコーヒーを口に含んで、自分の気持を整理した。
「実はな、夏のボーナスをもらったら、今の会社を辞めるつもりなんだ」
 このことを話すのは、山内が初めてだった。
「本格的に、小説を書いてみようと思っている」
 吉川さんを埋葬するときに、心の中で誓ったのだ。これからはずっと、小説を書いて行こうと。それは、職業とは別の心の領分だった。しかし、編集の仕事をしているうちに、作家として自立したいという願望が次第に膨らんできた。片手間では、まともなものは書けないという思いもあった。
「食って行けるのか?」
 山内が尋ねた。
「無理だな」
 即答した。山内がニヤリと笑った。
「やっぱり、おまえは少しも変わってないよ」


 わたしの小説は予想通り、さっぱり芽が出なかった。しかし、気分転換のつもりで書いた推理小説が、娯楽誌の公募に入選して、思わぬ形で作家としてデビューした。三十四歳になっていた。
 それから半月ほどして、山内から電話がかかってきた。今、商談で上京しているから、会えないかという。宿泊先の新宿のホテルまで、わたしの方が出向いた。ロビーで待ち合わせをしたのだが、わたしは声をかけられるまで、目の前の人物が山内だとは気づかなかった。それだけ、山内の容貌は変わっていた。
「どうだ、すっかり土建屋のオヤジになっとるじゃろうが」
 中年太りの腹をさらに突き出すようにして、山内が言った。日に焼けた顔に、短く刈り込んだ頭髪がよく似合っていた。趣味の悪いダークスーツに、白のエナメル靴、金色の高級腕時計は、山内らしい皮肉な役作りか。
 山内に誘われて、ホテルの地階にあるバーに入った。カウンターに、二人ならんで腰掛けた。山内はスコッチのオンザロック、わたしはウイスキーの水割りを注文した。
「社長になったんだってな」
 わたしの実家からの情報だった。
「形だけはな。金はまだ親父が握っとるけえ、勝手なことはできんよ」
「奥さんとはうまくいってるのか?」
「一応はな。子供が二人おるよ。おまえの方は、うまくいっとるんか?」
「一応はな」
「子供は?」
 わたしは、苦笑を浮かべてかぶりを振った。
「なるほど、おまえらしいな」
 山内が、妙に納得した顔で頷いた。
「子供がいると、楽しいんだろうな」
 愛想のつもりが、山内に睨まれた。
「俺の子供じゃぞ」
「似てるのか?」
「下の息子がよう似とる」
「じゃあ、心配だな」
「ああ、もう覚悟しとるよ」
 山内が、スコッチのお代わりを頼んだ。タバコを肴にして、早いペースでグラスを傾ける。アルコールに弱いわたしは、薄い水割りをなめるようにして飲んでいた。
「酒、強くなったな」
 そう言ったあとで、山内と酒を飲むのは、これが初めてだということに気づいた。
「飲むのが仕事のようなもんじゃけえ」
 寂しそうな笑みを浮かべた。
「しかし、上の娘は母親似でな。性格も素直でええ子なんよ。あれは、美人に育つじゃろうな」
「おまえもとうとう、親馬鹿の仲間入りか」
 揶揄したが、旧友の変貌を、わたしは素直に喜んでいた。人は親になることで、初めて成人するのだろうと思った。子供のいない人間は、いくら年齢や経験を積み重ねても、意識は子供のままなのではないか。
 山内がタバコの火をもみ消して、またグラスを口に運んだ。
「娘とはうまく付き合えるんじゃが、息子とはどうも屈託があって、ぎこちのうていかん」
「男と女の違いじゃないのか」
「それもあるんじゃろうな」
 山内の視線が遠くなった。
「実はな、娘の美果は、俺の本当の子供じゃないんだ」
「どういう意味だ?」
「田舎に引き上げる前に、綾子の腹の中におったんよね」
「だったら、おまえの子供かもしれないじゃないか」
「いや、俺の種じゃない。綾子がそう言うんじゃけえ、間違いないよ」
 当事者にそう断言されては、他人が口をはさむ余地はなかった。
「最近、俺はよく考えるんよ。土建屋のオヤジや美果の父親を、俺は演じているんだと思うとった。でも、案外、今の自分の方がホンマなんじゃないかと感じるようになってしもうた。じゃあ、昔の俺はいったい何だったんじゃ? あれこそ、演技だったのかもしれん。自分の憧れていた役を、一生懸命に演じとっただけかもしれん。ちょっとヒネたアウトローの役をな」
 山内が、新しいタバコに火を点けた。
「でもな、こうも考えるんよ。今の俺も、やっぱり役を演じとるに過ぎんのじゃあないか。だったら、ホンマの自分はどこにある? そんなもん、最初からありゃあせんのよ。人はみんな、自分の配役を演じながら生きている……」
 嘆息と一緒に、大きく煙りを吐き出した。
(ホンマの自分か……)
 山内の言葉が、胸に響いた。自分が本当に書きたいもの、自分にしか書けないものは何なのか――、心のどこかでいつも自問していた。それは、「ホンマの自分」を見つけるということではないのか。
(俺も、今は新人作家という役割を演じているだけか)
 そして、流行作家という主役の座を夢想している。ぬるくなった水割りを、口に含んだ。
「ハハハハハ……」
 山内が、いきなり大声で笑い出した。
「俺もまだまだ青いのう。こんな下らんことを、真面目な顔でしゃべっとるんじゃけえ」
 グラスの残りを飲み干した。
「まあ、演じる役があるだけマシかもしれん。自分がやりたい役も、回りから求められる役ものうなったら、人間、かなりしんどいからな」
 同意を求めるように、わたしの顔を見た。目の焦点が怪しくなってきている。わたしが頷くと、嬉しそうな笑顔を見せた。上機嫌な声で、スコッチのお代わりを頼んだ。
 その夜、山内はしたたかに酔い潰れた。わたしは、正体をなくした山内を、部屋まで送り届けた。山内の体を肩で支えながら、この厄介な友人の存在を、今までになく身近なものに感じていた。
 それにしても、山内は結局、わたしの受賞作については、一言も触れなかった。贈呈本が届いているはずなのだが、何も言わない。黙殺することが、山内の批評だったのだろう。あの男らしいと、わたしは思った。


(あれが、最後になってしまったな)
 国鐘池の水面を眺めながら、あのときの山内の笑顔を思い浮かべた。晴れ渡った空を写している水鏡の上を、水鳥たちがすべるように泳いでいる。
 わたしは、四十二歳の厄年を目前にして、胃腸の不調に悩まされていた。下痢と便秘を交互に繰り返して、胸焼けや胃痛で眠れない夜もあった。病院に行けばいいのだが、大病を宣告されるのが怖くて、市販の胃腸薬でごまかしていた。今、書いている長編小説を仕上げるまでは……。起死回生の勝負作のつもりだった。手応えもあった。
 小説を完成させたあとで、すぐに病院に向かった。レントゲンで異常が見つかって、胃カメラの検査を受けた。やはりな、と覚悟した。しかし、単なる軽い胃炎という診断結果が出た。現金なもので、いろんな症状が短期間のうちに霧散した。
 命拾いをしたが、小説の方は結局、失敗に終わった。大袈裟なようだが、生命よりも優先させたはずの職業作家としての命運が、プツンと切れた。生き延びたなという漠然とした感覚だけが、心の底に残った。
(さて、これからどうする?)
 答えはなかなか見つからない。そんなときに、綾子から電話がかかってきた。山内が死んだという。信じなかった。また、悪い癖が出たんだと思った。自分の妻を使って、手の込んだ悪戯を仕掛けてきたのだ。あいつには何度、騙されたことか。
 綾子の声が嗚咽に変わった。それで、事態の重大さを悟った。
(あいつは、俺の代わりに死んだんだ……)
 心の中で、わたしは何度もそうつぶやいていた。
 その思いは、通夜の席で綾子の話を聞いて、さらに強くなった。山内の死因は、胃癌だった。病巣が発見されたときは、すでに周辺の臓器にも転移して、手の施しようがなかったという。告知はされなかったが、山内は自分の病状について、気づいていたらしい。
「あの人、それで何したと思う? あたしに隠れて、女と旅行にいったんよ」
 綾子が潤んだ目で、わたしに訴えた。山内の相手は、地元のカラオケスナックで働いている茶髪の若い女だそうだ。
「あの人、一週間ぐらいして、疲れた顔で戻って来てね。なんでも、心中してくれ、言うて頼んだら、あんたみたいなオッサンとは嫌じゃ、言うて断られたそうな。ほいじゃあ、あたしが一緒に死んだげるよ、言うたら、あの人、おまえじゃ当たり前すぎて、芝居のネタにもならん、言うてね」
 懐かしんでいる、いや、思い出を慈しんでいるような口調だった。
 納棺されている山内と対面した。病でやつれてはいたが、穏やかな顔をしていた。でも、違和感があった。わたしの知っているアクの強い猿顔とは、どうしても重ならないのだ。思えば、演技をしていない山内の素顔を見るのは、これが初めてだったのかもしれない。
 翌日の葬儀は、地元の大手企業の当主に相応しく、盛大に行われた。参列者の数も多く、地元選出の国会議員まで駆けつけて来た。
(俺が死んでも、誰も来てくれないだろうな)
 わたしは、山内の死を知って、自分の分身が消えてしまったような気がしていた。しかし、葬儀が終わる頃には、山内の影である自分の方が、何かの手違いで生き残ってしまったような気がした。ひがみ根性は昔のままだ。

「おじさん!」
 背後から声をかけられて、振り返った。セーラー服に赤い毛糸のマフラーを巻いた少女が立っていた。山内の娘の美果だ。国鐘池を見に行くというわたしに、同行をせがんだのだ。
「はい」
 マフラーとおそろいの手袋が、缶コーヒーを差し出した。
「ああ、気を使わせちゃったね」
 まだ熱い缶を受け取った。
(山内、この子は絶対、おまえの子供じゃないよ)
 少女の顔を見て、あらためてそう思った。今年の春で、高校二年になるという。やはり、昔の綾子の面影がある。しかし、彫りの深い顔立ちは、もっと大人びて見えた。
「どんなお父さんだったんだい?」
 二人で缶コーヒーを飲みながら、美果に話しかけた。
「大好きじゃったよ。うち、お父ちゃん子だもん」
 華やいだ声が、心地よく耳に響いた。
「冗談ばあ言うて、いつもは楽しいお父さんじゃったけど、怒るともうこおうてね。でも、うちの方が悪いんじゃけえ」
 山内の自慢げな顔が、見えるようだった。
 近くを散策していた家族連れが、向こうの方へ離れて行った。美果が心配そうに周囲を見渡して、ポシェットの中から白い封筒を取り出した。
「これ、おじさんに渡してくれって、お父さんに頼まれとったの。とても大事なもんじゃけえ、誰にもわかんようにそっと渡してくれ、言うてね」
 わたしは、美果から封筒を受け取った。
(何だろう?)
 封筒には何も書かれていない。遺書にしては、中身が膨らんでいる。裏返しにすると、ちゃんと密封されていた。美果の視線を意識した。あとで開けようかとも思った。封筒の中身を、美果に見せていいものかどうかわからない。しかし、好奇心の方がまさった。封を破って、中のものを取り出した。
「えっ、何? ハンカチ? でも、なんか汚れとるよ」
 美果が不思議そうな顔で、わたしの手の中の布を見た。
(あの野郎、死んでからも、俺をからかうつもりか)
 その布切れの正体には、すぐに気づいた。このナイロンの感触は、篠田京子のパンツだ。中学生のときに、山内と二人、市営プールの更衣室に忍び込んで、盗んだのだ。
 腹の底から、おかしさが込み上げてきた。我慢できずに、声を出して笑った。
「おじさん、何がおかしいん?」
「ごめん、ごめん。中学生のときに、君のお父さんとやった悪戯を思い出してね」
「悪戯? どんなの?」
「下らない悪戯さ。話す気にもなれないよ」
「ずるーい!」
 美果の抗議にも、わたしは苦笑を浮かべるしかなかった。説明のしようがないではないか。
 かつての山内の所作を真似て、ナイロンの布で鼻先を拭った。何もにおわない。あの頃の嗅覚を失ってしまったのは、いつからだろう。
(おまえのメッセージは、確かに受け取ったよ)
 布切れを封筒の中に戻して、コートの内ポケットに大切にしまった。
「その代わりに、君のお父さんとおじさんの間だけの、とっておきの話をしてあげるよ」
 ふてくされていた美果の顔が、期待で輝いた。
「だけど、これは秘密の話だからね。誰にもしゃべっちゃ駄目だ。お母さんにも内緒だよ。いいかい、おじさんと約束できるかい?」
「うん、わかった。うち、絶対にしゃべらんけえ」
 美果が、意気込んで答えた。
(山内、いいよな)
 心の中で、許しを請うた。
「国鐘池の言い伝えは、知ってるよね」
「もちろん。お国さんとお鐘さんの美人姉妹が、人柱になったんじゃろ?」
 わたしは頷いた。
「実は、この池には、もう一人、瞑っているんだよ」
「へえ、人柱になった人が、まだおったんじゃね」
「いや、そんな大昔の話じゃないんだ。その人は、おじさんの知り合いでね。体を病んでいて、この池を死に場所に選んだんだ。それで、君のお父さんに手伝ってもらって、その人の遺体をこの池に葬ってあげた。きれいな満月の夜だった……」
 美果が、大きく目を見開いた。
「ホンマの話?」
「ああ、嘘じゃない」
 さすがに、ショックを受けたようだった。
「おじさんが何歳のときのことなん?」
「高校の一年だったよ」
「えっ、じゃあ、うちと同じ……」
 美果が絶句した。そして、国鐘池の方に視線をやった。しばらく無言で眺めていた。
「その人の気持、なんか、わかるような気がするな」
 美果が、ぼそりとつぶやいた。
「どんな人だったん?」
 わたしに尋ねた。
「今のおじさんよりも、少し年上かな。小説家だったんだよ」
「ほいじゃあ、おじさんと同じじゃね」
「いや、較べものにならないよ。おじさんのお師匠さんだからね」
 本心だった。今の自分なら、「紙の動物園」の行間を読むことができる。あんな作品をいつかは書いてみたい――、切実にそう思った。
(俺に書けるかな?)
 山内のニヤリと笑う顔が、目の前に浮かんだ。
「えらい人だったんじゃね」
「そう、素晴らしい人だった……」
 吉川さんの顔を思い浮かべた。吉川さんと交わした会話は、今でも鮮明に覚えている。
(おまえが守ってくれたんだってな)
 山内に話しかけた。この国営公園が計画されたとき、国鐘池も大々的に改修される予定だったという。水上にはボートを浮かべ、水辺には散策路を造成して染井吉野の桜で沿道を飾る。それを、山内が強引にひっくり返した。父親の人脈を使って、国会議員まで動かして反対したらしい。通夜の席で耳にした噂話だが、わたしは信じた。
「美果ちゃん、手袋を脱いで、両方の手のひらを前に出してごらん」
 彼女に声をかけた。美果が素直に、わたしの言葉に従った。意外なほど、小さくで華奢な手だった。わたしは、上着のポケットから、白いハンカチに包まれたものを取り出した。
「君のお父さんの遺灰なんだ」
 ハンカチをほどいて、透明なビニール袋に入っている遺灰を見せた。綾子に無理を言って、火葬場からもらってきたのだ。
 山内の遺灰をつかんで、美果の両手の中に注いだ。美果の顔が、たちまち泣き顔になる。遺灰を固く握り締めて、胸に抱いた。
「君のお父さんも、この池が好きだった。この池で瞑ることを、望んでいたんだ」
 美果が、気丈な笑顔を見せた。
「帰してあげるんじゃね」
 わたしも、笑顔で頷いた。
 美果が、フェンスの前に立って身構えた。
「枯木に花を、咲かせましょう!」
 精一杯の強がりだったのだろう。大声で叫んで、両手を振り上げた。真っ赤なマフラーがひるがえった。遺灰が白煙となって、寒風にたなびきながら、池の方へと運ばれて行く。
(こりゃあ、いいや)
 笑っているはずなのだが、涙が溢れて仕方がない。わたしは、残っている遺灰を握り締めた。
(吉川さんによろしくな。俺も……)
 かぶりを振った。思いっきり腕をしならせて、伝説の池に向かって遺灰をはなった。そのとき一瞬、対岸の林の中に、山桜の白い花が見えたような気がした。(了)


月光の雫 (前編)亜木冬彦&赤川仁洋 作品集表紙に戻る