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 毎晩、母親が入院している病院に通うのが日課になっている。閉店時間の7時になるとそそくさと店じまいして、車で近所のスーパーに買い物に行く。 売れ残った総菜が半額になっているので、夕食や明日の昼食用に買って、それから病院に出かける。面会時間が午後8時までなので、けっこうせわしないのである。だから、閉店時間になってグズグズしているお客さんがいるとイライラしてしまう。
「お客様は神様です」という境地にはなかなかなれない。他に嫌な時間帯は、準備で忙しい開店前と昼食時間。インターネットでの代行注文を、ネット環境を持っていない人にサービスで行っているのだが、どういうわけかお昼の12時過ぎに来店する人がいる。
「この本、注文できますか?」とリストを持って来るのだが、食べている最中に来られると、検索等に時間がかかるので、さすがにうんざりしてしまう。勤務している様子はないので、とくに昼食時間帯に来る理由はないのだろうと判断。お昼の時間は外してもらうようにお願いして、快く了承してもらった。都会の店では、こういうわけにはいかないだろう。
 話がまた脱線している。母親が入院している病院は介護専門病院で、入院患者のほとんどが高齢者で、いわば最後を看取るための病院である。母親が入院して3年が経過した。大正15年生まれの母親は、新元号が発表される4月には93歳になる。大正、昭和と生き抜いて、平成が終れば4つ目の元号。
「早く死にたい」が口癖の母親に、「新元号までは頑張ろうよ」といつも声をかけている。 もちろん、新元号まで頑張ったとしても、都合よくお迎えがくることはないと思うので、また一日一日、月日を重ねるしかない。母親が蜘蛛膜下出血で倒れて寝たきりになってから、そうやって15年の歳月が流れている。
 隣室に、うちの店(どら書房)のお客さんのお母さんが入院している、いや、入院していた。癌を患っていて、年齢は80歳を少し過ぎたぐらい。ふくやかな顔をされているので、そんなに具合が悪そうには見えなかったが、見舞いに来た息子さんに顔を歪めて痛みを訴えている姿を何度か目撃している。病室のドアが開いたままになっているので、廊下を通るときに部屋の中が見えるのだ。すでに痛み止めが効かなくなっているのだと、彼から聞かされていた。
 ある夜、いつものように病室を通りかかると、彼のお母さんの窶れ切った顔が見えた。本当に、1日2日で急速に萎んでしまったようだった。病魔という文字が脳裏をよぎった。そして、最後が近いのだという重い現実が、石のようにズドンと胸に沈んだ。
 彼は母親の痩せ衰えた手を両手で包み込むように握って、じっと見守っている。わたしは声をかけることができずに、無言で廊下を通り過ぎた。できることは、心の中で安らかな瞑りを祈るだけだ。翌日、病院に出掛けると、母親の隣室は表札も変わっていて、新しい入居者がベッドで休んでいる。何事もなかったように、病院内の一日は過ぎて行く。
 看取る人、看取られる人、どちらが辛いのだろうかと、ついついせんもないことを考えてしまう。看取ったことしかないから、看取る立場でしか考えられない。別れはお互い様だが、見送る方に悲しみが残るので、看取る方が辛いというか、割が悪い……。
 唐突に、うんと長生きしてやろうという思いが溢れてきた。自分が亡くなるときに悲しみを置き去りにしてゆくのはやるせない。うんと長生きして、家族や友人知人をみんな見送って、自分には子供がいないから、最後は一人になって死んでゆく……。
 憎まれっ子世に憚る、という言葉もありますから。

Copyright(c):Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋


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合い言葉は「ゆうやけ」

*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が文華別館に収録されています。


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