亜木冬彦&赤川仁洋 作品集表紙に戻る

前回次回

 今回は家族ではなく、居候の話。それもかなり迷惑な居候……。
 衝撃的な出会いは、台所のシンクだった。母親の朝食の支度を始めようと、手を洗おうとしたときに、そいつと視線がぶつかった。ネズミだった。小さな小さなネズミが、逃げようともしないでわたしの顔を見上げている。たじろいだのはわたしの方だった。
(どうするよ)
 衛生面を考えたら、ゴキブリのように、退治するのが一番だ。ネズミには今までも、保存食や衣類を囓られたりして被害を受けている。夜行性のようなので、夜には台所の扉をしっかり閉めるようにしたら、日中に姿を現すことが多くなった。しかし、こうして至近距離で対面 したのは初めてだった。
 新聞紙を丸めて棒状にしたものの、振り下ろす勇気はない。とても愛らしいのだ。あとでネットで調べてみたら、野生種のハツカネズミだということがわかった。ペット用や実験用で知られている白くて目の赤いハツカネズミは、この野生種を改良したもので、体もかなり大きくなっているらしい。目の前にいるハツカネズミは焦げ茶の毛並みをしていて、黒いつぶらな瞳でわたしを見上げている。
 都会でネズミというと、ドブネズミやクマネズミがほとんどで、体が大きくて凶暴なイメージがあるが、こうしたネズミはいわゆるラットである。ハツカネズミやハムスターのような体の小さなネズミはマウスで、ミッキーマウスの親類なのだから、かわいいはずである。結局、その新聞紙の棒でネズ公を追い立てて、シンクから外に逃がしてやった。
 さて、次の日の同じ時刻、まさかと思って台所のシンクを覗いたら、またいるではないか。その無防備で無邪気な様子に、苦笑を浮かべてしまった。ふと思いついて、チクワをちぎって割り箸に刺して差し出すと、両手で掴むようにして囓りついた。そのまま持ち上げて、台所の隅にゆっくりと着地させてやった。しばらく、一心にチクワをゴチになっていた。……完敗である。
 それで安心したわけではないだろうが、ネズ公が姿を現す頻度が高くなったように思う。あいつは虫も殺せない、いや、ネズミも殺せないチキンだと、舐められてしまったのだろうか。このまま放置しておくわけにもいかず、ネズミ獲りを仕掛けることにした。ホームセンターで、ゲージタイプのものが700円ぐらいで売っていた。金属製のカゴの中のフックに餌を吊すようになっていて、ネズミが囓りつくと留め金が外れて、バネ式の扉が閉じる仕組みになっている。
 期待と不安が半分半分で、ネズミの出没する箇所に仕掛けた。最初の二日は、餌のチクワだけがなくなっていた。ネズミが利口で警戒しながら食べているのか、留め金のかかりが強すぎるのか。今度は留め金のかかりをギリギリまで浅くして、餌も食べにくいように、ビニールに包まれたままの魚肉ソーセージにしてみた。 そして、次の日、ゲージの中にネズ公が入っていたのである。
 さあ、困った。捕まえたはいいが、これからどうしよう。両親の介護のために来てもらっているヘルパーさんに、それとなく相談すると、「水に浸ければいいです」と即答だった。もっともである。農家の方なので、ネズミは害獣でしかない。苦しめないで処分してやるのが一番だ。
 二日迷って、結局、ああ、オレはなんて馬鹿なんだろうと自戒しつつも、ハムスターやモルモット用の飼育カゴを買ってしまった。二階建てで、プラスチック製の小さな家や運動用の回し車が ついている。野生種なので、回し車の中で遊んでくれるとは思えなかったが、狭い檻に閉じこめることへの罪悪感を少しは柔らげてくれる。
 飼育カゴの天井にある入り口を開けて、そこにぴったりつけるようにしてネズミ獲りの扉を少し開けたら、逃げ込むように飼育カゴに移ってくれた。 プラ製の家の中にもぐりこんで、小さくなって震えている。今まで、勝手気ままに家の中を走り回っていたのだから、縮こまって怯えるのも無理はない。水と餌をたっぷり用意して、これ以上は刺激しないようにと、古い座布団カバーをかけておいた。
 さて、次の日、どうしているかと飼育カゴを確認すると、姿が見あたらない。プラの家の中でまだ震えているんだろうと、入り口から内部を覗いて唖然とした。どこにも姿がないのである。逃げられた! でも、どうして? 考えられるのは一つしかない。信じられないのだが、飼育カゴの檻をすり抜けたのだ。
 しょうがないなあと苦笑しながらも、少しホッとしていたのだが、さらに困ったことになってしまった。飼育カゴを置いていたのは、台所がある母屋とは別 の建物で、一階が店舗になっている古びたビルの二階、つまり、わたしの部屋があるフロアなのである。どうやら、わたしの部屋の中に逃げ込んだらしい。部屋の隅でガサガサと音がしたり、カーテンの端をヨタヨタとよじ登ろうとしている姿を見かけたり。飼育カゴの中の餌がいつの間にかなくなっているので、ちゃっかり再訪して食事まで済ませているらしい。鞄や衣服でも囓られたら、悲惨なことになる。
 今度は、自分の部屋の中にネズミ獲りを仕掛けた。一度、捕まっているので、もう引っかからないのではないかと不安に思っていたら、夜になってテレビを観ているときにバチンと大きな音がした。ひょっとして、と思ってネズミ獲りを確認すると、ネズ公が入っている。マヌケなやつだ。
 一度、飼育カゴで失敗しているので、しばらくねずみ獲りのゲージに入れたままにしておいた。 興奮させないようにと、古い座布団カバーをかけておいたのだが、次の日に驚いた。ゲージの隅っこに、座布団のようなものが敷かれて、その上にネズ公が蹲っている。そんなものは入れた覚えがないのでよく見ると、黒っぽい綿のようなものだった。なるほどと感心してしまった。ゲージの隙間から、座布団カバーの繊維を囓り取って、自分の座布団をこしらえたのである。確かに、針金の格子の上では居心地が悪かろう。
 しかし、次の日にはさらに驚くことになった。白い布のようなもので、自分の回りに防壁状のものをこしらえていたのである。あっと思って観察すると、その白いものはティッシュを加工したものだということがわかった。実は、水分補給のためにと、小さく折り畳んだティッシュを水に浸して、ゲージの天井に置いておいた。餌は、細くしてやればゲージの中に入れられるが、水はそうはいかない。あれこれ悩んで考え出したのが、濡れたティッシュだった。ティッシュを舐めれば、水分補給になる。
 濡れたティッシュが一日経って、乾いた状態になったのをわたしは知っている。折り目がかなり硬い状態になっていたはずでる。ネズ公は、そのティッシュをゲージの中に引っ張り込んで、囓るのではなく拡げたのである。ネズミが手を使ってティッシュを拡げている光景を思い浮かべた。そして、周辺を折り曲げて、巣のように防壁を作る。凄くないですか!? こいつ、天才ネズミかも知れない……。

 しかし、このままネズミ獲りの狭いゲージに閉じこめておくわけにもいかず、どうしたものかとあれこれ思案した。これから夏場に向かうので、できれば風通 しの良い飼育カゴがいい。床も格子になっていれば、掃除も楽である。だが、以前に購入した飼育カゴよりも格子の隙間が狭いものは売っていないのだ。自作することも考えたが、加工が楽な木製にしてしまうと、ガジガジと囓られて穴を空けられてしまう心配がある。 費用も労力もかかりそうで、そんな元気は出てこない。
 結局、小動物や虫を飼育するためのプラスチック製のボックスを買ってきた。透明なプラスチックでできているので、じっくり観察することができる。風通 しの悪いのが難点だが、鉄格子の飼育カゴを、飼育ボックスの中にそのまま入れることにした。そのために、いちばん大きなボックスを選んだ。カゴの上に登れば、天井の通 気孔から入ってくる新鮮な空気を吸うこともできるだろう。

 こうして、とうとう野生のハツカネズミを飼うことになってしまった。ネットで検索してみると、わたしのような情況に追い込まれた飼い主がけっこういるのである。凄い体験をした人がいる。帰宅したら、玄関でハツカネズミが出迎えてくれたのだそうだ。逃げる気配がないので、そっと手を差し出すと、掌に登って来たという。今では、ハツカネズミの家族と暮らしている。風呂場で遊ばせてやるのが日課になっているというのだから、もうペット以上の存在である。
 この方のブログを読んで、宮崎駿のテレビアニメ「アルプスの少女ハイジ」のワンシーンを思い浮かべた。クララの家で暮らすことになったハイジが、物置部屋でネズミたちと触れあう場面 である。スカートの上に子ネズミたちを乗せて遊んでいるハイジを見て、家庭教師のロッテンマイヤー女史が卒倒する。
 細菌や寄生虫、蚤や虱などは大丈夫なのかいな、と心配になるが、そのブログを書いている人は、ネズ公をまずお湯で洗ってやるのだという。わたしはそんな勇気はないので、飼育ボックスの外から観察するだけだ。それでも危険だ、不潔だと言う人もいるだろうが、こうなった以上は面 倒をみるしかないと観念している。もともと家の中を走り回っていたのだから、なんらかの感染のリスクがあるのなら同じことだろう……、などと開き直っている。平均寿命は一年半と、どうせ長くは生きられないのだから。
 仕方なく飼い始めたのだが、動物はやはり面白い。日中はプラの家の奥で丸まって眠っているのだが、日が陰ると外に出てくる。精力的な動きは、観ていて飽きることがない。どうやって飼育カゴの檻をすり抜けたのかと不思議に思っていたが、すぐにその技を披露してくれた。人間が狭い隙間を通 り抜けるときと同じである。体を伸ばして細くして、斜に構えてすり抜ける。アッという間で、まるで忍者のようだ。もっとも、一週間経った今は、もっぱら檻の天井にある出入り口を利用している。魚肉ソーセージやバナナなんかのご馳走を食べて、ちょっとメタボになったかな。
 意外なことに、相当なきれいずきだということもわかった。手や口を使って、丹念に毛繕いをしている。毛のない尻尾の先まで舐めてきれいにしている。運動能力、身体能力はさすだ。檻の格子を簡単によじ登るし、ジャンプ力も相当なものだ。丸まって蹲るとビー玉 のように小さくなるが、伸び上がるとかなりの高さまで手が届く。飼育カゴの檻と、飼育ボックスの天井までは10センチぐらいの空間があるのだが、目いっぱい背伸びして、天井のプラスチックの梁をガジガジやっている。そのときに、長い尻尾をつっかえ棒のように利用してバランスを取っている。野生なので、いつも逃走経路を探している。

 関白宣言ではないが、これから一緒に暮らして行くにあたって、言っておきたいことがある。おまえはペットではなく居候である。甘やかしたりしないので、覚悟しておけ。名前なんかなくても、ネズ公で十分だ。でも、読者の方で、どうしても使って欲しいという名前があったら、考慮しますので感想板に書いてください(苦笑)。臆病者なので、雌ではないかと思うのだが、あるいはネズミの世界も(?) 女性上位なのかもしれない。 


Copyright(c):Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋

◆ 「風に吹かれて(21)」の感想 (掲示板)
合い言葉は「ゆうやけ」

*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が文華別館に収録されています。


亜木冬彦&赤川仁洋 作品集表紙に戻る