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 サッカーのワールドカップが終了した。ドイツの水族館で飼育されている占いダコのパウル君が話題になっている。あらためて説明する必要もないと思うが、母国(?)のドイツ戦の勝敗をすべて的中させ、ついでに予測した決勝戦もドンピシャリで、スペインが優勝した。
 パウル君が準決勝でドイツの敗戦を予測したときは、パエリアや海鮮サラダにして食べてしまえというドイツ国内の非難の声と共に、タコをぶつ切りにしている市場のシーンが放映された。わたしは、その場面 を観てびっくりした。タコを食べるのは、日本や韓国などのアジアの一部の国だけなのだと思い込んでいたのである。
 海外では、タコはその奇怪な容姿からデビルフィッシュと忌み嫌われ、食用にすることはないという情報が、一般 常識としてわたしの頭の中に入り込んでいる。外国の特撮映画で、巨大なタコの化け物が出てくるシーンを何度か観たことがあるが、それだけタコのことを怖がっているのだと、納得したものだ。外国人にタコ焼きを 食べさせたら、イスラム教徒が豚肉を食べたときのように、パニックになるのではないか、などと心配したこともある。
 なんのことはない、タコは他の魚貝類と同様、海外でも一般的に食べられているのだということを、パウル君のおかげで知ることができた。ネットで調べてみると、デビルフィッシュとは巨大エイのことだと書いている人もいる。しかし、わたしはどこで誤った情報を刷り込まれてしまったのか。ネットサーフィンで調べた印象では、わたしのようにタコを食べるのは日本人ぐらいと思っていた人はけっこういるようだ。
 わたしは、一度も海外に行ったことがないので、こうした外国の誤った情報をそのまま信じていることがけっこう多いのかもしれない。何かの雑誌(あるいは新聞?)で、外国には穴あきの硬貨というものがないので、チップの代わりに五円玉 をあげると珍しくて喜ばれる、という内容の話を読んだことがある。それだったら、チップの金額で悩むこともなく、経済的にも助かるよな、などと、海外に行く予定も、行くつもりもないくせに思ったものだが、それもどうやら眉唾ものらしい。
 その後、読んだ記事、あるいはコラムで、わたしのように間違った情報を信じた日本人旅行者が、外国でチップに五円玉 を使って顰蹙を買っているということが書かれていた。外国にも、穴あきのコインはたくさんあるのだという。考えてみれば、使えもしない外国の硬貨をもらって喜ぶ人は、通 貨のコレクターぐらい……、いやいや、五円玉のように市場価値が低くて珍しくもない硬貨は、コレクターでもノーサンキューだろう。それにしても、五円玉 をチップに使っている旅行者が実際にいるのだから、このニセ情報もけっこう喧伝されているのかもしれない。
 もっとも、最初にこうした情報を発信した人も、人を騙そうと意図したものではなく、たまたまタコ嫌いの外国人に出会ったとか、試しに五円玉 をチップにあげたら喜ばれた、などといった個別な体験、あるいは伝聞が、いつの間にか一人歩きしてしまった可能性も考えられる。 こうした誤った思い込みは、日常でもたくさんあるようで、われわれ薬剤師の関わっている分野でも、いくつか思い浮かぶものがある。
  その一つが、ステロイド悪役説。ステロイドは副作用がひどくて、とくに軟膏などの塗り薬は、皮膚炎が悪化して大変なことになる……、かつてのマスコミのバッシングやキャンペーンで、そう思い込んでいる人はいまだに多いのではないか。確かに、強いステロイドの外用剤を無節操に長期間使用すると、ステロイド皮膚炎などの副作用を起こすことがあるが、用法・用量 を守れば、怖がる必要のない有用な薬なのである。病院で処方される皮膚炎の外用薬の多くに、ステロイドが含まれている。
 介護しているわたしの母親も、このステロイド悪役説の強固な信者である。塗り薬を使うと「それはステロイドかい?」と確認してくる。安心させるために、「ちょっとだけ入っているけど、弱いやつだから大丈夫だよ」と説明するが、本当はかなり強いステロイド軟膏だったりする。オムツかぶれなどには、作用の弱い外用剤はほとんど効果 がない。掻いて赤く腫れてしまった部分には、強いステロイド剤を短期間使用して、赤みが取れたところでスキンクリームなどの痒み止めに切り替える。だらだらと“安全”だけど効果 の乏しい外用剤を塗り続けるよりも、その方が皮膚のダメージが少ないのである。
  ステロイドのことに限らず、母親はとても怖がり屋だ。困るのは爪を切るときで、深爪されるのではないかとビクビクして、爪を切っている最中に指をサッと引いてしまう。爪切りバサミで爪を挟んでいるときに手を引かれたら、爪や指先が傷つく危険があるので、わたしの方もビクビクしている。何度かこれを繰り返されると、つい苛立って途中で爪切りを止めてしまうこともあるのだが、爪が伸びたままだと皮膚を引っ掻いたときに傷になってしまい、それが悪化すると辱瘡の原因になってしまう。すべての爪切りを終えると、心底ホッとする。最近はようやく信任を得たのか、おとなしく爪切りに応じてくれることが多くなった。「働かないもんの爪はすぐ伸びる」、母親の口癖である。
 怖がり屋の母親は、注射が大の苦手だ。インフルエンザの予防注射で痛い思いをしたようで、とても警戒している。今年の春先に、かかりつけのドクターに往診してもらったときのことだ。検査のために採血をすることになったのだが、「痛い!」という母親の大声が部屋に響いた。注射器を持った看護師さんが怪訝な顔で、「まだ針を刺してませんよ」。大笑いになった。
 他にも怖いものがたくさんあるようで、自転車で転倒するのが怖いので自転車に乗れない。噛まれるのが怖いので犬がダメ。どんな小さな犬でも怖いのだという。猫は気味が悪いのでダメ。介護するようになって、母親から聞いて初めて知ったことだ。そういえば、家に自転車があるのに、どんなに遠くても母親は歩いて買い物に行っていた。わたしが子供の頃、犬が飼いたいと何度も頼んだのだが、許してもらえなかった。その理由がようやくわかった。
 わたしが飼っているハツカネズミネズのことを知ったら、どんな顔をするだろう? 鼻を囓られる夢にうなされる? とてもしゃべれそうにはない。これは、家族にも内緒の話である。ヤンチャな居候は、その後も失踪事件や脱走事件を引き起こしているのだが、この話はまたの機会に。  


Copyright(c):Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋

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*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が文華別館に収録されています。


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